2011年3月24日木曜日

スティーブンスの直話

岡山を出発するスティーブンス

 明治19年12月11日付けの大阪毎日新聞にトーマス・スティーブンスの直話が掲載されています。

長崎から神戸までの概要は次のとおりです。
11月20日長崎着
11月23日長崎を出発して大村(長崎県大村市)に向かう 大村で一泊
11月24日大村を発ち馬関(山口県下関市)へ向かう この間雨の日が続き走行距離も遅延する
11月28日正午に馬関に到着 雨が降り続く 馬関に宿泊
11月29日馬関を出発し、中国路を東に向かう
11月30日朝に広島着、ここには泊らず直ぐに出発
12月04日正午に岡山着 6日の朝まで同所に滞在
12月06日岡山を出発し、その日の夜に姫路に着く
12月7日朝の8時に姫路を発ち、同日の正午に神戸に着く 長崎から神戸までの間で、道路が良好なところは岡山から神戸の間と感想を述べている 日本の道路事情は良く、風光明媚であること、日本国民は親切で清潔とも評価している 中国(シナ)とは雲泥の差であると言っている(この記事を書いた記者の作文も多少あるのかも知れないが)

なお、上海から薩摩丸で長崎に入港したとありますが、実際は薩摩丸ではなく横浜丸という蒸気船でした。これは他の新聞記事と彼の旅行記に横浜丸と書いてあります。

大阪毎日新聞の原文は次のとおりです。
●世界周遊者の直話
去る七日神戸に着し一昨九東上の途に就きたる夫の自転車にて世界周遊中なる英人スチヴェン氏が一昨年四月北米桑港を発程せし以来去月下旬清国を経て長崎へ着したる迄の順路の概略は此程の紙上に記載せしが今尚同氏の直話なりとて伝聞する所に拠れば桑港を発して波士頓に出て同港より英国リヴァプールに渡航し夫より欧州諸国を経て君士坦丁堡に着したる迄の間には別に著しき珍談奇事とてもなかりし由なれども昨年八月十日君士坦丁堡を発して小亜細亜に入りし後は風俗人情全く一変せしかば困難を感せし事少なからざりしにも拘はらず氏の濠邁なる嚮導も伴れず食料もを携へずして此未開の異境に入り到る處土人の懇切なる待遇を受けて終に波耳西亞の首府テヘランに出で暫く同府に足を停めて厳寒を凌ぎ滞在中国王の優待を受け夫よりテヘランを発し路を土耳基士坦に取り清国北京に到るの心算にてシャールード迄赴くと同處にて魯国士官の通行を禁止するに遭ひ止むを得ずメセット迄引返し同處より更に途を転じ亞富汗士坦を経て印度に入る事に改め其方針に向かひたるも是亦少許進むと間もなく亞富汗の酋長に抑制せられて波耳西亞界迄護送せられたれば余儀なく再びカスピ海に出で鉄道に搭じて君士坦丁堡に引戻し同府より汽船便にて六千英里の波濤を渡りて印度のカーラチーに着し同處より陸路カルカッタに出でカルカッタより又汽船にて香港に渡航し同港より広東に出で同府より陸路北京に到る胸算にて先月十三日程を起こしたりしも道路狭隘険悪なる為め自転車を用るの地至て稀にて多くは川船にて上り八日目に広西省に入り夫より行くこと数日にしてカンチョー府と云るに達したる迄は不便ながらも指たる異條なかりしが同府にて土人等の取囲みて石を擲つなど頗る乱暴に遭ひ終に府の衛門に送られて懇々内地旅行の危険なる状を説き進行を止められたると道路に自転車を用ひ得べき望なきとに依て志那の旅行は是にて断念し直に九江に出で同口より汽船に搭じ長江を下りて上海に着し去月二十日薩摩丸便にて長崎に着したるなりと偖又先月二十三日長崎を発して以来の行程は先づ長崎より大村に到るの間は坂路多きを以て其夜は大村迄行きて一泊し夫より日々雨中或は雨後にて自然輪の旋転重くして兎角に程捗らず漸く二十八日の正午に馬関に着せしが折柄降雨烈しく少しの小やみさへあらざりしかば其夜は同處に滞在し翌日午後馬関を発して中国路を取り三十日の朝広島に着し同地には足を停めずして直に程に上り本月四日正午頃岡山に着し六日の朝迄同地に滞在し同日同地を発して其夜姫路に着し翌七日の朝八時姫路を発し同日の正午神戸に着したるものなりと然るに同氏の評に長崎より神戸に到るの間にて最も自転車に適したる道路は岡山以東神戸迄の間なりと云ひ且一体に道路の修繕の届き居るには感服し居れる体なりしが独り道路のみならず氏は志那の内地の光景を目撃して日本も大同小異なるべしとの想像を下し居たるに山川の風致より人智の度合に至る迄目に触るヽ者として悉く志那と雲泥の相違にて殊に人民の清潔を好み外国人に接して親切なる事等には最も驚嘆し居り実に意外の事なりと物語りしよしなり又氏が斯く世界中を周遊するは山川の勝を愛するにも将た見聞を拡る為めにもあらずして専ら二輪車に駕するの巧みなる事を世界に表揚せんが為めにして而して此旅行の費用は何處より出るかと云ふに氏は米国の一新聞の社員にして旅行中各地より通信を送り其社より受る所の報酬金を以て支辨する者なりとの説なり(資料提供:松島靖幸氏)