2020年10月31日土曜日

老舗さんぽ ⑦

 昨日、小田原市内に腕のいい、自転車職人がいるという噂を聞き、そのお店を訪ねた。

ちょうどお店の仕事場で自転車を修理しているこの店の御主人がいた。
このお店は戦後の創業だが、既に50年になるやはり半世紀続いている老舗である。
腕がよいという話は2店舗の自転車店で聞いていた。修理が難しいときなどは、この店に持ちこむと大概は直るとのこと。年季の入ったプロの職人だからであろう。ことしで81歳になった店主の村松昭男さんは、いまでもこうして現役で自転車の修理を行っている。
私が以前、浜松に居た時にお世話になった小栗自転車店の店主、小栗幸平さんを思い出す。小栗さんは当時、83歳の高齢であったが、他の店で手に負えない修理をいとも簡単とは言わないまでも、直してくれた。前にも書いたがスターメー・アーチャーのハブを完璧に直してくれた思い出がある。あれからもう40年が過ぎている。

松村さんは仕事の手を休めて、私の質問に親切に答えてくれた。昭和48年11月20日に伊豆の修善寺で行われた第6回アジア自転車競技連盟選手権大会で競技役員をした話もでてきて、あっという間に昼時になってしました。

又の機会をお願いして、この店を後にした。

店舗前

感謝状 昭和48年11月20日
第6回アジア自転車競技連盟選手権大会

老舗さんぽ ➅

 先日、また野地サイクル商会を訪ねた。

先にお願いしていた古い写真帳の閲覧の件である。
驚いたことに大正期から昭和期にかけての写真アルバムが5冊ほど用意されていた。
1時間ほどその写真帳を見たが、途中で飛ばしてしまった。丹念に見ていたら半日は費やしてしまうほどのボリュームであった。1冊の写真帳などは写真と同時に日記の書き込みがあり、歴史的資料としても十分価値のあるものであった。
明治後期か大正初期と思われる写真も数枚あり、既に100年以上を経過している貴重な写真もあった。
いづれにしても今日だけではとてもこまめに見られないので次回の予約もお願いした。

以下の写真は、明治後期か大正初期と思われる。

清水港 坪井写真館で撮影


この写真の人は初代、野地サイクル商会の店主、野地孝助さんであるが、おそらくこの時の年齢は十代後半ごろではないかと推察される。胸のマークのFRIE(フリーエ)とは、クラブチームの名前であろうか、それとも、自転車のブランド名であろうか。
明治・大正期のブランド名を調べたが、今のところ見当たらない。
なぜ清水港の坪井写真館で撮影したのかもよく分からない。
当時、自転車等は清水港で陸揚げされたとも聞いているが、その関係だろうか。

文献目録

 自転車関係主要文献目録(改訂版)

江戸・明治期

「からくり訓蒙鑑草」多賀谷環中仙著 亨保15年

「横浜文庫」橋本玉蘭斉 慶応元年

「長崎日記」田中久重 慶応2年

「ジャパン・パンチ」チャールズ、ワーグマン 明治2年

「絵入り智慧の環」明治3年

「御布告緊要録」書式集 明治7年  

「公用文式」 巻菱潭編・書,温故堂, 明治8年  

「東京一覧」 井上道甫編,須原屋茂兵衛,明治8年

「地方税規則」自転車、明治10年

「東京経済雑誌」経済雑誌社、第218号 明治17年

「一顰一笑 新粧之佳人」須藤光暉(南翠外史)著 正文堂、明治20年5月

「啓蒙字類」木村登代吉編、明治20年7月

「家扶日記」徳川慶喜関連、明治20年

「亀次郎日記」松本亀次郎 明治20年

「欧洲之風俗 」 西滸答案他,大庭和助, 明治20年  

「西洋風俗記」 西滸著他,駸々堂,明治20年

「学びの手車」転輪館 明治22年

「風俗画報」第11号、第168号、第178号 明治22年から?

「不思議国巡回記」雑誌”小国民”(新発明自動自転車)明治23年6月

「乗方指南 自転車利用論 完」金澤来蔵著 普及舎 明治23年9月

「異国漫遊 瓜太郎物語」明治27年1月

「教育ポンチ新案絵ばなし」加藤耕書堂, 明治27年

「女の顔切」江見水蔭・関戸浩園著, 明治28年10月

「少年教育遊戯」 嚶々亭主人著,求光閣, 明治28年

「自転車の傷」野村銀次郎・磯部太郎兵衛 明治28年  

「娯楽倶楽部」民友社, (社会叢書 ; 第3巻) 明治28年

「偕行社記事号外」第280号 明治29年

「自転車術」渡辺修二郎著 少年園発行 明治29年

「三輪自転車の写真」埴 亀齢、上田市博物館蔵 明治30年頃

「中学世界」月刊雑誌、第2巻第3号から4号 博文館 明治31年

「流行」月刊雑誌、流行社 明治32年から?

「自転車乗用速成術」村松武一郎著 内外商事週報社 明治32年

「新式自転車独習」岩田可盛訳 叢書閣 明治33年

「フートボールと自転車」三井末彦著 博文館 明治33年

「運動界」雑誌 明治33年から明治35年?

「自転車」月刊雑誌、快進社 明治33年から大正10年頃?

「自転車お玉」伊原青々園著 金槙堂 明治34年

「自転車乗用の医学的観察」入澤博士講演記録 明治34年

「輪友」月刊雑誌、輪友社 明治34年から大正?

「自転車強盗」三省社瓢馬講演、明治34年

「自転車乗用の医学的観察」入澤達吉博士講演 明治34年

「神奈川県横浜市実業家要録」明治35年

「簡易自転車修繕法」佐藤喜四郎著 快進社 明治35年

「自転車全書」松居真玄著 内外出版協会 明治35年

「自転車指針」梅津大尉著、快進社 明治35年

「風流的自転車(松葉)」雑誌”新小説”P.168 明治35年8月

「猟輪雑誌」月刊雑誌、猟輪倶楽部 明治35年から明治36年?

「自転車世界」月刊雑誌、自転車世界社 明治35年から明治36年?

「自転車談(紫櫻)」雑誌”太陽”P.125 明治36年8月

「三友雑誌」月刊雑誌、明治36年から明治40年?

「滑稽新聞」宮武外骨 第48号 明治36年

「デートン・カタログ」双輪商会 明治36年

「最新東京繁盛記」明治36年

「日米商店商品目録」岡崎久次郎 明治36年

「自転車正価表」石川商会 明治37年

「魔風恋風」小杉天外作 春陽堂 明治37年

「少年」雑誌、時事新報社、第26号、明治38年

「ピアス略目録」石川商会 明治39年

「石川商会自転車カタログ」明治39年

「日本製材時報」第5号 明治41年

「輪界」月刊雑誌、輪界雑誌社 明治41年から明治45年?

「中村春吉自転車世界無銭旅行」押川春波編 博文館 明治42年

「清輪」月刊雑誌、清輪時報社 明治43年頃

「全国自転車商名鑑」大阪輪友雑誌社 明治43年

「今流行自転車節と博多節」大淵 浪 明治43年

「信越輪界」月刊雑誌、明治43年頃

「横浜成功名誉鑑」横浜商況新報社 明治43年

「明治事物起源」石井研堂著 明治41年

「如蘭社話」巻43、記脚踏車 明治44年

大正期

「日本輪界名鑑」輪界雑誌社 大正8年

「實業之輪界」雑誌 大正8年頃

「ゴム新報」雑誌 大正8年頃

「輪界興信新報」雑誌 大正8年頃

「輪界新聞」大正8年頃

「日本輪界新聞」大正9年創刊?

「輪々」雑誌、輪輪社 大正11年から大正?

「自転車の経済と其活用」渡辺承策著 大正12年

「扶桑」雑誌、大正12年から?

「輪業世界」輪業雑誌社編 大正10年から大正14年

「万人必読・自転車知識の泉」渡辺承策著 大正14年頃?

「自転車修繕独案内」渡辺承策著 大正14年頃?

昭和期(戦前)

「輪界追憶録」佐藤半山遺稿 昭和2年頃

「ハイキング」雑誌、ハイキング社 昭和7年から?

「大阪の自転車工業」大阪市役所産業部調査課 昭和8年

「自転車製造業」子安 浩著 社会政策時報 昭和8年

「日米商店三十五年史」”裸一貫より光の村へ”昭和9年

「東京坂出間自転車往復 弥次喜多道中記」塩業友の社 昭和12年

「自転車運動綱要」日本自転車連盟編 昭和13年

「名古屋自転車商工業便覧」名古屋自転車新聞社 昭和13年

「福澤桃介翁伝」福澤桃介翁伝記編纂所 昭和14年

「堺の自転車」堺輪業協会 昭和14年

「我が国最近の自転車工業」奥村忠雄著 社会政策時報 昭和14年

「小林作太郎伝」木村安一著 昭和14年

「自転車訓練精義」青木義夫著 昭和14年

「自転車と犬」二反長半著 鶴書房 昭和16年

「自転車訓練必携」日本自転車聯盟 昭和16年

「自転車工業における転失業問題」赤松 要・小出保治著 時局と中小 工業 昭和16年

「自転車」小国民文化教本 昭和17年

「自転車工業」滝谷善一・岡本真一共著 時局と中小工業 昭和17年

「自転車の科学」野添 域著 元宇館 昭和18年

昭和期(戦後、 これ以降は自転車史関連図書のみ)

「自転車の一世紀」自転車産業振興協会編 昭和48年

「発明の歴史自転車」佐野裕二著 昭和55年

「サイクル・その歴史的評論」C.F.カウンター著  昭和55年

「自転車業界創業者調査」竹内常善著 1980年10月 広島大学経済論叢

「自転車 -85年版資料目録」日本自転車史研究会編 昭和60年

「自転車の文化史」佐野裕二著 文一総合出版 昭和60年

「自転車の文化史」佐野裕二著 中公文庫 昭和63年

「自転車・機械の素」INAX BOOKLET  昭和63年

平成期

「自転車の歴史」D、アンドリッチ著 平成4年

「自転車文化センター所蔵目録」日本自転車普及協会編 平成4年

「轍の文化史」斉藤俊彦著 ダイヤモンド社 平成4年

「資料で語る日本の自転車史」自転車文化センター編 平成5年

「日本の自転車の歴史」-その始まりから、現在までー 1860年代~1990年代 佐野裕二著(1994年の遺稿)

「くるまたちの社会史」斉藤俊彦著 中公新書 平成9年

「日本で製作・販売された自転車のブランド名に関する調査報告書」谷田貝一男著 自転車文化センター 平成17年

「ドライジーネとミショー型小史(1817年~1870年)」小林恵三著 自転車文化センター 平成21年

「自転車物語・スリーキングダム」角田安正著 (株)八重洲出版 平成26年10月2日発行


Renewal 、2020.10.01


2020年10月30日金曜日

自転車の起源は彦根に?

 昨日、NHK(大津局)で”自転車の起源は彦根に?”が放送された。

番組の内容、
およそ200年前にドイツで生まれた「ドライジーネ」という乗り物。
足で地面を蹴って進むタイプで自転車の起源とされています。
これより80年以上も前の江戸時代。
滋賀県で、より自転車らしい乗り物が発明されていました。
“世界初の自転車”かもしれない、その不思議な乗り物とは。

下記のサイトで録画を見ることができる。

関西 NEWS WEB「自転車の起源は彦根に?」

2020年10月29日木曜日

明治の生写真

 下の写真は明治42年11月29日撮影の生写真である。

この写真は1982年(昭和57)に古書店から入手したもので、既に手に入れてから38年にもなる。
写真館で記念撮影したもので、この二人の名前と年齢も記載されている。
史料的な価値ある写真だといまでも思っている。
先日、古い資料を整理していたら出てきた。ほとんど忘れていたが。
この写真は昭和57年3月15日発行の日本自転車史研究会の会報「自轉車」第2号の表紙にも使用している。
右側のレーサータイプの自転車は当時人気のあった英国製のラーヂ号である。左側もメーカー名は分からないが恐らく外国製だろう。

米倉兄弟の記念写真
右側のレーサーは英国製ラーヂ号

撮影年月日と氏名年齢
撮影した写真館の名も分かる

表紙

裏表紙
この写真の所有者か?

2020年10月28日水曜日

銀輪のわだち その11

 「知られざる銀輪のわだち」その11 

「自転車」とはブランド名であった!
製造・命名の始祖、寅次郎

自在車、自輪車から
自転車への名称変遷

自転車とは一般に「座席を持ち、乗員の手足の力により駆動操縦される、軌道によらない車両」と定義づけられている。
英語ではバイシクル、フランス語ではベロシペッドと呼ばれるこの定義の車両を、わが国ではいつ、だれが「自転車」と命名したのであろうか? 海外から渡来するとすぐに「自転車」と呼ばれたわけではなく、それはしばらくいくつかの異なる名称で呼ばれていたのである。
前々回に紹介した慶応元年刊の横浜開港見聞誌では「自輪車」であり、明治7年版の”智恵の環”には「自在車」とある。そのほか多くの錦絵には「壱人車」あるいは「一人車」という説明文がついている。また「乗っきり車」の名称で呼ばれていたことも知られている。
だとすると、そこには「自転車」という今日にいたるまで長く使われ、広く知られる名称を考え出した人が存在しなくてはならない。
このことに早くから着目し、研究をつづけてこられた人がいる。本稿の第6回でもちょっとふれた交通史研究家の齊藤氏である。その研究成果によると、「自転車の命名者は東京府南八丁堀(当時)の彫刻職人・寅次郎(後に竹内姓を名乗る)であって、時に明治3年4月である、という。
さらに、寅次郎はわが国における自転車の製造と販売をもっと早く手がけた人物だ、ともいう。
これがほんとうだとすると、日本自転車史はまた新しく書き直されねばならない。

交通史研究家、齊藤俊彦氏の
ユニークな錦絵の分析

実は齊藤俊彦氏のこの研究について筆者は同氏から早く内容を知らされていたが、氏が学会へ研究結果を発表する以前にはこのことについて言及することを控えざるを得なかったのである。
しかし、それは本年4月”交通史研究”誌上に「日本における自転車の製造・販売の始め一 (竹内) 寅次郎の事跡について」として公表された。もうこのことに触れてもよいと考え、齊藤氏の研究を引用させてもらいながら「自転車」誕生物語をご紹介することにする。
結論から先にいうと「明治三年に、寅次郎という彫刻職人が、外人が乗り回している一人車、壱人車と呼ばれているのと同じ構造の車をみずから製造し、それを独自の名称”自転車”と名づけて販売した」ということになる。
もちろん、これ以前のこととして、からくりや儀右衛門こと初世・田中久重が「明治元年のころ自転車、二輪車に三輪車を製造す」という記録があるが、これは久重の弟子であった川口市太郎が明治24年に記した回想録(智慧鑑)にあるもので、この時にはもう「自転車」が一般名称になっていたのである。久重がそれをつくったとしても「自転車」と呼んだ証拠はない。
そして製造はしたかもしれないが構造は不明の上、販売した形跡も見つからない。
そればかりか、明治3年以前には当時の錦絵などを見ても「自転車」という説明文は出ていないのである。
ここで、寅次郎が「自転車」の名づけ親であり、発明・考案ではなく外国の模倣であるにせよ、日本での製造・販売の始祖であったという証拠と検討は後にして、明治初期の錦絵に描かれた自転車の名称とその周辺の問題を考えてみたい。

「日本における自転車の製造・販売の始め一
 (竹内) 寅次郎の事跡について」より

齊藤氏はこんどの研究でそこから新事実を探し出している。上の表をご覧いただきたい。これは明治3年以後のいわゆる自転車を描き込んだ錦絵の一覧だが、表の註によって、分類を検
討してみると、初期は乗り手が外人である場合は「一人車」、「老人車」という説明がつけられ、日本人である場合は「自転車」と說明されている。明治4年に入ると外人が乗っている場合も「自転車」になる。
前にもふれたが明治以前の錦絵、橋本玉蘭斉の筆になる横浜開港見聞誌では外人のそれが「自輪車」であった。
これを考えると「自在車」、「自輪車」「乗っきり車」などは、来日外人が乗っている輸入車に対して日本人がつけた呼び名であり、それは時を経て「壱人車」、「一人車」に定着したことがうかがえる。そして明治3年以後、日本人が乗っている錦絵が登場し、それが「自転車」と呼ばれている。

明治三年の製造願書を
都の公文書館から発堀

さて、いよいよ明治3年という年に、日本の自転車史に何が起ったのか――という検討に入る。
齊藤俊彦氏はこの研究で東京都公文書館所蔵の”東京府文書”の中に埋もれていたいくつかの関係文書を探し当てた。
明治3年4月29日に、南八丁堀五丁目の寅次郎なる人物が東京府御役所に対して「恐れながら書付けをもって願い上げたてまつり候」という書き出して提出した「自転車製造・販売許可願」がその一つである。
その文中につぎのようにある。
「私どもは自転車と呼ぶ乗りものを考えました。 一人乗り、二人乗りを製造しましたが、交通の便に役立ち、人馬の労も助かると思いますので、販売したいと存じます」
そしてさらに「売るときには一台ずつ焼印を押すようにお定めください。焼印のないものは売買できぬと公布してください。私どもは車一台につき何ほどかの冥加金をお上にお納めしたいと考えております」と商売熱心なところを見せている(願書は現代文に意訳)
この願書に対する東京府の対応についても記録が発見されている。出願を受理した係官は5月に入って上司につぎのような決裁書を提出した。「現物を検査してみたが熟練者でないと走りにくい。したがって一般の者は乗らないだろうから通行人に危害を与えることはないだろう。とくに便利なものとは思えないが、近ごろは外人もこのような車を乗り回しているから許可を与えてもよいのではないかと思う」。
そして間もなく製造・販売許可が申し渡されるのだが、そこには焼印の件は不要、上納金の件は追って通達する、とある。
これがわが国に「自転車」という名称が登場した最初である。そのことは後に東京府が工部省へ提出した届書に「…初メテ三輪ノ自転車ト名付ルモノヲ製造シ…」
とあるのを見てもそれが確認でき、さらにその構造が三輪であったことがわかるのである。

彫刻職人・寅次郎の生涯
明治12年に計画は挫折
下の二つの絵は、明治3年以後の錦絵や挿絵によく見られるものだが、「壱人車」や「一人車」と説明されているものと「自転車」と説明されているものを比較すると、乗り手に差があり、乗りものの構造はほほ同じだが、材質のちがいで「壱人車」は細身、「自転車」は厚手なつくりになっている。


そして、この「自転車」の絵はどの錦絵もまったく同じであり、同一の製造者によってつくられていると推定できる。これはやはり彫刻職人であった寅次郎が、輸入された「壱人車」をコピーし、国産化したと考えていいであろう。
だが、こういう疑問を持つ人もあるかもしれない。「錦絵の一覧表では明治3年4月に”自転車”が描かれていることになっている。許可が下りたのが5月だとすると話の筋が合わない」と。
しかし、出願、許可の前に試作段階でテスト走行もかなりしているはずだから、早くから世間の目に広く触れる機会があったはず、時期的にはきわめて接近している。
少なくとも寅次郎の「自転車」以前に、自転車の名称を持つ車両は、まだ文献の上では皆無である。齊藤氏の研究成果は画期的なものだといっていいだろう。
以上のことからいうと、現在、一般名称となっている「自転車」とは、初期は寅次郎がつくった車両のブランドだったのである。自転車業界は”寅次郎まつり”(?)ぐらいやってしかるべきではないか。これは冗談だが。
鈴木三元、梶野仁之助の以前に自転車へ手をつけた、この寅次郎とはどのような人物だろうか?わかっているのはつぎのようなことである。神奈川県生まれであり、鈴木や梶野のような資産家ではなく職人であること。彼は明治3年から一年の間に「自転車」に関する事業出願を3回しているが、いつも出資者と思われる人物との共同出願であり、転居も多く、時には共同出願者宅の同居人となっていることがあるから生活にはめぐまれなかったらしい。
東京都公文書館に残されている彼の最後の記録は、仙波太郎助なる人物とともに大型の「自転車」で運送事業(貨客運送用)を計画し、出願するが、明治12年3月の東京~高崎間往復テスト走行で成果が上がらず、出願取下げにいたるのである。

錦絵に登場する壱人車
正式名は「ラントン」

ところで、この「自転車」という寅次郎の命名はまったく彼のオリジナルなものかどうか? これについてわが会員の真船氏はつぎのような見解を示している。
それは、こういう車両にはじめて「自転車」という命名をしたのは寅次郎であろうが、「自転車」ということばは車両以外の機械の分野でそれ以前から使われていたのではないかというのである。
真船氏によると「明治四年ごろ、人力によって回転する機械を自転車と呼んでいた可能性がある」とし、洋学史辞典(日蘭学会発行)に、当時「後踏自転車」、「前踏自転車」の名が挙げられており、それは糸をつむぐ繰糸機の名称とされているという。
このあたりはもう少し調べてみたいと思っている。

ラントン車

さて、この「壱人車」、「自転車」の構造だが、錦絵やスケッチ以外にそれを示す資料が長いあいだ見当らなかったが、前記の真船氏が所蔵する1869年ロンドン発行の『ベロシペッド』という本にその絵があり、車名が「ラントン」と名づけられている。また在仏の自転車史研究家・小林恵三氏によると、1863年にイギリスで、翌64年にフランスで特許が得られており、発明者名はジョセフ・グッドマン、当時ロンドンでは人気のあった車種だという。
1864年とはわが国が明治に改元する4年前である。明治初期に「ラントン」がわが国に持ち込まれて当然なのだ。
『ベロシペッド』の説明を読んでも操縦法はいまひとつ不明瞭であるが、足と腕を使って駆動させるものらしい。寅次郎はこれの国産化をはかったのである。

季刊「サイクルビジネス」№22 涼秋号、1985年10月20日、ブリヂストン株式会社発行、「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)

2020年10月27日火曜日

老舗さんぽ ⑤

 昨日、自転車散歩の途中、箱根板橋にある越水サイクルに寄る。
このお店の創業はHPによると昭和22年とのこと、戦後に誕生したお店だが今年で既に73年になる立派な老舗。
丁度、店に寄った時刻は昼時であったが、店内を見学するだけの客なのに、親切に応対してくれた。
店には最近のスポーツ車を中心に、いろいろな車種の自転車が置かれていた。最初に目についた自転車はアラヤのラレーであった。ヘッドチューブにあの懐かしいエンブレムが付いていた。
店主(二代目、越水玄次さん)からメカニックに詳しいものが、作業場の方に居ると聞いて、店舗の左側奥へ向かう。メカニック担当(濱本義一さん)が丁度いて、改造中の自転車や修理中の自転車等を見せていただく。私のどうでもよい質問にも丁寧に答えてくれた。この場を借りて感謝したい。
濱本さんのデスクの後ろにはショーケースがあり、懐かしいパーツ類が陳列されていた。
彼はクラッシックパーツにも詳しく、久しぶりに1970年代の自転車の話もできた。
そのうち、自転車専用工具の話にもなり、旗屋の工具も2,3見せていただいた。感動したのはそのうちの一つのプライヤーで黒光りをした、いかにも使いこなした職人のプライヤーであった。
また、お邪魔したい旨を伝え、この店を後にした。いずれにしても親切で雰囲気の良いお店であった。

越水サイクルのHPは → こちら

昭和20年代の店舗前
越水サイクルのHPより借用

現在の店舗

最初に目についたアラヤのラレー

懐かしいラレーのエンブレム

修理中の自転車についていた
サンツアーのリアディレイラー
SUNTOUR・SKITTER(スキッター)

ショーケースの中の
カンパヌーボレコード

シマノ・ジュラエース・リアディレイラー
SHIMANO DURA ACE EX RD-7200 REAR DERAILLEUR

宮田のロードレーサー

カンパレコード、フロントディレイラー

年季の入った旗屋のプライヤー
カタカナのハタヤの刻印は古い

これも旗屋、さびているが上のプライヤーより新しい
東京・旗屋の刻印がある

銀輪のわだち その10

「知られざる銀輪のわだち」その10

富士山ダウンヒル
明治33年のMTB
今回のタイトルを下のページの写真を見て「何が知られざる、だ。これと同じものはすでにどこかで発表されてるぞ」と思う読者がいるはずである。
それは当然で、4年前の大阪でのサイクルショーでもパネルで掲示された写真であり、その当時マエダ工業㈱のハウス・オーガンである『サンツアー・プロショップニュース』に紹介されてもいる。
だが私は最近までそれを知らなかった。
知ったのはことしの4月、朝日新聞の企画ものページ「読者所蔵の古い写真」をながめていたら、この写真が載っていた。そして写真の提供者はマエダ工業㈱の河合淳三社長とあった。

富士山ダウンヒル
明治33年8月21日
「私は自分のクリーブランド号に乗り、
デビンは小橇(そり)に乗った」
(ヴォーガン紀行文より)

そこで本誌の編集部を通してマエダ工業から所蔵の同写真とハウス・オーガン(house organ)を提供していただいて、自分の所蔵資料を引っぱり出し、事実関係を調べてみたのである。
はじめてこの事実を知る読者のために、簡単にいままで報じられていることを説明しておこう。
朝日新聞の写真に添えられた説明では、「明治3年 (これは33年の誤植) に米国のコロンビアM・F・G社が日本への自転車売込みキャンペーンのために、自転車で富士山への挑戦を試みた。この写真は同社と取引きのある河合淳三氏が10年前に同社からもらい受けたもの」とある。
また前記のハウス・オーガンには、この挑戦はヴォーガンとデビンという二人のアメリカ人と鶴田勝三の3人によっておこなわれ、3人ともクリーブランド号に乗ったとされている。そしてヴォーガン氏の紀行文を掲載している。
富士山の七合目から御殿場へのダウンヒルであるが、当時の自転車にはディレーラーもなく、ブレーキも前輪のタイヤの踏面を制動するだけのものだからたいへんな悪戦苦闘であったらしい。
さて、この日本で初めての富士山ダウンヒルの壮挙は、いまから10年前まではわが国では知られていなかったのだろうか?
調べてみたところ、そうではなかった。
その当時はわが国のサイクリストの間で大きな話題になっていたことがわかった。
下にある図は、明治35年のサイクリストの専門誌・月刊『輪友』に出稿されている東京・双輪商会の広告であり、かすれていて見にくいが上部の四角な部分は、鶴田勝二が富士山をダウンヒルしている写真であり、説明文に「鶴田選手、デートン号にて富士下山の図」とある。そして下部にはデートン、モナーク、アマゾンというアメリカからの輸入車の取扱いが告知されている。鶴田の快挙が広告に使われているわけだ。
とすると、前に紹介した「三人ともクリーブランド号に乗った」ということと事実が合わなくなる。結論を先にいうとヴォーガンがクリーブランド、鶴田がデートンに乗って二人で走り、デビンは走っていないのである。

明治35年、『輪友』双輪商会の広告

挑戦者は日・米2人のみ
制動きかず鶴田は苦闘
ヴォーガンの紀行文、日本側の記録、この両方をながめながら事実関係を整理してみよう。
明治33年8月18日「雨の中を横浜から御殿場まで鉄道を利用し、自転車やバッグを運ぶための馬や人夫を雇って太郎坊に向かう。最初の夜は茶店で一泊、翌朝も雨の中を進むが、雨はやんだが見通しがきかず、四合目で一夜のテント。つぎの朝も雨だが強行して進む、だが危険がともない六合目で一夜を過ごす。つぎの朝は快晴、頂上をきわめ記念写真を撮った後で出発点の七合目まで戻る」(ヴォーン紀行文の要旨)。

「さる18日より富士山登山致し候ところ、ご存知のごとき暴風雨のため、4日3夜の間は太郎坊、二合目、四合目、六合目等に閉じ込められ、22日ようやく六合目より進行つかまつり、午後2時に七合目へ帰着致し、これより自転車にて御殿場まで下り候」(秋山定輔宛、ヴォーガンと鶴田の連名の手紙。二六新報8月27日付)。
日米ともに同じ記述、だが18日出発で4日3夜を明かしたのなら進行開始は21日のはずだがカンちがいかもしれない。

「私は自分のクリーブランド号に乗り、ミスターデビンは小橇(そり)に乗った」(ヴォーガン紀行文)。

「鶴田はデートン、ヴォーガンはクリーブランドに乗った。もう一人同行の西洋人があったが、この人は徒歩であった。その人が写真機で写真を撮った」(「輪友」創刊号)。

これで、自転車でのダウンヒルは二人であることがわかるが、デビンが小橇に乗ったとはどういうことか? 上の写真を見るとわかるが、これはヴォーガンがダウンヒル制動のために工夫したものなのである。
前出の「輪友」にはこうある。

「ヴィーガンの考案になる左官屋が土をこねるような舟、あれを持っていって、その舟の上に自分たちの荷を乗せ、綱をつけて自転車にむすびつける。自転車だけでは速力が早すぎて降下できないから……」。

その結果をヴォーガンは「二、三分は用心深く走ったが、あとは運を天にまかせて時速45マイル=71.5キロのスピードで8マイルほどの坂を一気に走り降りた」と記している。
そしてヴォーガンは鶴田について「彼はズダ袋にくるんだ荷物を2本の棒にくくりつけ、これを自転車に取りつけて(車輪の)歯止めをつくった。このアイデアは最初の数マイルは実に効果があった。しかし、そのあとはロープがすり切れ、ものすごいスピードで落ちていくように降りていき、傾斜がゆるやかな地点でようやく止まった」と記している。
これだけ読むと鶴田のほうが歯止めを失っても巧みに降りていけたようであるが、実はたいへん苦しんだらしい。「輪友」での聞き書きはこうなっている。
「鶴田はブレーキなしで降りてきたのだが、どうしても自転車が止まらないので、やむを得ずサドルから腰を上げ、自分の尻で夕イヤにブレーキをかけながら降りた。ところがズボンも、厚い下着もやぶれてしまって、尻が出るという始末」。
そのあとは「二人で10マイル=16キロを26分で降り」(ヴォーガン)、「御殿場までの15マイル=24キロの行程は50分にて」(ヴォーガン、鶴田)走ったのである。

鶴田はなぜデートンか?
双輪商会がバックに
以上で日本最初の富士山ダウンヒルの様子がわかるであろう。ヴォーガンはその翌年もチームをつくって再度の富士山挑戦をしたかったようだが「病気か何かのためオジャンになったらしい」という伝聞も記録にあった。
ヴォーガンがどのような人物であったかはまだ調べていないが、前出の二六新報には「ヴォーガンが曲乗りの達人、鶴田が本邦輪界の剛の者なることはわが読者諸兄の先刻ご承知の通りなり」とある。
鶴田勝三のことはいくつも記録が残っている。彼の兄はさきにあげた『輪友』の広告主であるデートン号の輸入販売をしていた双輪商会経営者の吉田銈次郎であり、鶴田は当時「鶴田の前に鶴田なく、鶴田の後に鶴田なし」とうたわれていた。ほとんどのレースで連勝しつづける大選手だったのである。
してみれば、この富士山ダウンヒルに鶴田がクリーブランド号に乗らず、デートン号を駆使したことは当然である。当時、クリーブランド、デートンはともに一級品として迎えられていたが、吉田銈次郎はデートンを一挙に12台も輸入した(当時は数をまとめて輸入する店は少なかったという)最初の人といわれている。鶴田大選手はデートン号のキャラクターだったようだ。
また、朝日新聞の説明文は「米国のコロンビアM・F・G社が日本への自転車売込み」のためにヴォーガンを派遣したようになっている。
だが、二六新報が主催したという説もある。二六新報は、社長の秋山定輔(衆議院議員)が大の自転車愛好家でさかんにレースを主催している。ヴォーガン、鶴田の連名の手紙が秋山に寄せられているのを見ても、関係があったかもしれない。あるいはコロンビアの企画に相乗りしたのだろうか。
はるか85年前、自転車によるこのようなはなやかなイベントがあったことが、海の向こうからの写真によって発掘される。
それほどに、銀輪のわだち、は埋没しているのである。

季刊「サイクルビジネス」№22 盛夏号、1985年7月10日、ブリヂストン株式会社発行、「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)

付記、
鶴田勝三と双輪商会
いくつかの記録から

●松居松葉著「自転車全書」より
「初めて自転車倶楽部ができたのは明治29年の天長節。
その時分にはクリーブランド、デートンなどの車が来ており、日本人が競走したのはその翌年の春か、あるいはアメリカ独立祭のどちらかだと思うが、鶴田君が横浜のクリケット俱楽部のトラックで走ったのが初めてです。そのころ横浜ではスコット、ベエーン、ビーメーソンなどがチャンピオンであったが、鶴田君がこのレースで二等賞をとった。
明治31年には上野の不忍池で日本人だけの最初のレースがあり、鶴田君は20マイル競争で非常な評判をとった」。

自転車産業振興協会編「自車の一世紀」より
 「最初の競走記録と思われるものは、明治28年7月4日のアメリカ独立祭での横浜のトラックレースで、鶴田勝三が2着でメダル獲得。1着は外人貿易商の主人で、デートン号で優勝した。
「双輪商会の主人は吉田銈次郎で、氏の弟が現在浅野系の事業に関係している、かの自転車大選手として有名だった鶴田勝三氏である。銈次郎氏が資金を投じて米国製のデートン号を輸入取売されたのであるが、この双輪商会設立の動機が面白い。
兄弟いすれも慶応義塾に通っていて文明の利器といわれた自転車に関心を持ち、同級生の日比谷新次郎、中上川次郎吉、同三郎次の兄弟、古川虎之助とい富豪の貴公子たちと申し合わせて自転車の輸入を考え、銈次郎氏が代表者となって横浜の貿易商に出かけていった。そして外人と折衝してデートン車を1ダース輸入したのである。
それが珍しいものを好む慶応のハイカラ連中が、俺にも頼む、俺にも取ってくれ、といわれ、これは面白い商売だと双輪商会をはじめることになった。
弟の鶴田勝三氏は初期の自転車競走界を引退してから渡米しワシントン大学に学び工学博士として帰朝後、浅野総一郎氏の令嬢と結婚された」。
(要旨)

2020年10月26日月曜日

老舗さんぽ ④

 この記事も1983年(昭和58)3月15日発行の日本自転車史研究会の会報からのもの。
既に取材してから37年も経過している。残念ながらこの瀬戸自転車店も昨年の3月で歴史を閉じてしまった。1901年~2019年3月(118年間営業)であった。

小田原の老舗
小田原で一番古い自転車店はどこであろうか。明治45年5月発行の「全国自転車商名艦」には、足柄下郡小田原町 香川自転車商会、同幸町 瀬戸自転車商会、同萬年町 大西捨吉という3軒の店がでている。
この中で瀬戸自転車店のみ現在も引き続き営業しており、二代目にあたる瀬戸幾三氏(明治38年生)より当時の様子を伺うことができた。それによると、先代の伊予吉氏は明治8年鴨宮村で生まれ、瀬戸家には養子として入籍している。旧姓は横田という。瀬戸家に来る以前は神戸の外人商館で貿易の仕事に携っていた。当時の神戸は横浜同様開港地として栄え、居留地には外人商館が建ち並び、他の商品とともに自転車も盛んに輸入された土地柄であった。
明治34年外人商館を辞した伊予吉氏は小田原に帰り、そこで結婚。神戸時代の経験を生かして自転車店を開業した。そのころまだ自転車といえば輸入車が主で、瀬戸でも明治期はほとんど外国車、特にイギリス製のスパーク号を販売した。その後第一次世界大戦が始まると輸入車が途絶えたことから販売は国産車に変わり、主に丸石自転車を扱うことになった。
大正10年ごろからはオートバイにも目を付け、これを販売している。この頃の国産オートバイは、イギリス製のエンジンであるビリアースとかジャップエンジンを国産フレームに搭載したもので、瀬戸で販売したオートバイはダイヤモンド号という名前であった。このオートバイは大阪の工場より仕入れ、船積みして海路小田原まで運んだという。輸入車としては、トライアンフ、ネラカー、インディアン、BSA、アリエルなどを扱っている。
この頃から瀬戸では自店のオリジナル自転車として、ジャイアント号、優勝号を販売している。オリジナル自転車といっても単にトレードマークを考案し、無印の部品で組立てた自転車にマークを貼りつけて販売するもので、ちょっと大きな自転車店では一般的に行なわれた。
昭和に入ると顧客に対するサービスとして、富士山富士五湖一周競走を企画主催している。
当日は朝早くからトラック 2台を仕立て、1台には自転車を積み、他の1台には参加者が分乗し出発。籠坂峠を越えたところでトラックより降り、山中湖、河口湖、西湖などを巡りながら遠乗りとしゃれこみ、白糸の滝からはいよいよメインレースが始まり、沼津の千本松原まで一気に下ったという。現在も店内には、その日のレースで優勝したという自転車のフレームが天井より下がっている。沼津からはまたトラックに乗り込み、三島より箱根を越えて小田原に帰って来た。
その他、瀬戸自転車店が企画主催した行事は、小田原城のお堀り近くでの平面トラックレース、伊豆下田一周競走などがある。
幾三氏はまた明治の頃のおもしろい話しとして、自転車を1台売る場合でも客を料亭に連れて行き、床の間に自転車を飾って酒を飲みながら商談したという。それでも採算がとれたのであるから当時の自転車はいかに高価で、一般庶民にとってほど遠い存在であったことが伺える。
現在の店舗は関東大震災直後に建てたもので、すでに60年の風雪に耐えている。
瀬戸自転車商会とともに「全国自転車商名艦」に記載されていた、香川自転車商会及び大西捨吉は、すでに大正初期には廃業している。

瀬戸自転車店の店舗
1983年の取材時に撮影

店舗前に居る人は私の知人で
三代目店主とは小田高の同窓生
2008年6月27日撮影

昨年撮影 廃業の旨の張り紙がでていた
2019年12月11日撮影

2020年10月25日日曜日

老舗さんぽ ③

この記事は1984年(昭和59)3月15日の日本自転車史研究会の会報第14号からのもの。
小田原に以前あった太田自転車店を訪れた時の話である。あれから36年が経過し、今ではこの自転車店も無くなっている。

ある自転車人生
小田原市内の小沢病院前に太田自転車店(小田原市本町2-1-33 ) がある。ここの初代店主である太田利光さんは、自転車との付き合いが既に70年近くにもなる。まさに自転車と苦楽を伴にしてきた人である。
明治35年、 太田さんは温泉の街熱海で生まれた。 16才になると早川にあった佐々木自転車店(現在は廃業)に丁稚見習として入職し、修業時代が始まる。
少年時代は、自転車競走選手にたいへん憧れ、小田原城のお堀近くでよく行なわれた草レースを観戦しながら「何時しか俺も名選手になってやろう」と夢を張らませたと云う。
大正7年の頃、多古の製紙工場のグランドで行なわれた神奈川県下5マイルレースに初出場、まだ自信はなかったが、日頃の練習成果を発揮できる良い機会であった。ところが下馬評とは裏腹に優勝をものにしてしまったのである。太田氏の述懐によれば、たまたまその日のレースに出場を予定していた有力選手が他の競技会に出て欠場したため、お鉢が回ってきたものと謙遜する。その後も小さなレースには常に上位に顔を出すようになり、実力が付いてきたことを伺わせる。
大正11年5月6日、丹沢山麓の秦野で自転車大競技会が行なわれた。会場は現在の県立大秦野高校(現在この場所は神奈川県立西部総合職業技術校に変わっている)、水無川対岸の草競馬場である。
秦野輪友会主催、東京日日新聞後援になるもので、各地から有力選手がぞくぞく出場した。
この競技会のメインレースである全国選手10マイル競走に太田氏は出場、見事有力選手を蹴散らして優勝した。今でも店の壁には、当時の賞状と写真が誇らしげに飾られている。
大正14年、2年間の兵役が終わると、修業時代の経験を生かして独立、自転車店を開業した。現在では総て息子さんに店を任せ、悠々自適の生活を送っているが、当時は苦難の連続であったと云う。
なお太田さんは、小田原競輪場の誘致活動等にも尽力した人で、その功績も忘れてはならない。

昭和4年発行、全国自転車業組合聯合会会員名簿
国会図書館所蔵

2020年10月24日土曜日

銀輪のわだち その9

「知られざる銀輪のわだち」その9 

自転車はやはり幕末期に渡来していた?
思い出してほしいのだが、この連載の第1回目で、私は下の図(自転車を見て驚く江戸市民)を掲げた。イギリスの画家チャールス・ワーグマンが横浜で発行していた『ジャパンパンチ』の明治2年1月号に掲載されたものであることをのべ、「少なくとも明治2年に自転車は東京の街上に姿をあらわしている」と書いた。


文献や資料のとぼしい自転車史では、こうした風俗資料もきわめて貴重な存在なのである。研究者の間でもこの『ジャパンパンチのスケッチにさかのぼる資料はないと思われていた。芳虎などが錦絵の開化風景にかなり自転車を描き込んでいるが、いずれも明治3年以降のものである。
伝承(いいつたえ)では「幕末から渡来していたらしい」、「慶応期に外人が持ち込んでいる」などといわれているものの、これを裏づける資料がない。いや、ないとされていた。
ところが、である。『横浜開港見聞誌』という本が数年前に名著刊行会から複刻されていることを知った。この本は文久2年(1862年)に第一編から第三編が、慶応元年(1865年)に第四編から第六編が刊行されている。その中に下の絵が入っている。”横浜絵”をよく描いた橋本玉蘭斎の筆になるものだ。


「横浜開港見聞誌」
この図、自輪車なり

一見してわかるように、外国の婦人が三輪の車両に乗り、洋犬がそれにつきそって走っている。「自転車」とは狭義に規定すれば直列二輪車であろうが、広義にいえば「座席を持ち、乗員の手足の力により駆動操縦される、軌道によらない車両」であるし、さきに挙けた『ジャパンパンチ』のものも三輪車だ。外国の文献でも二輪、四輪を自転車史に入れている。こうしてみればこの絵はまさに自転車である。
絵に書き込まれている説明には「此車ハ自りんの物にして前の車をめぐらせば自然として大車めぐり出し走るの図」とある。
だが読者も感じられたように、果してどのような駆動方式なのかがこの絵からはわからない。三輪車の駆動方式はテコによる手動式、踏み板式、ペダルクランク式などがあるが、これはそれらのいずれでもないようで、疑問が残るところである。
別に書かれている本文にはこうある。「この図は自輪車なり。これは乗りて細き組紐を持ちて前の輪に巻きつけあるを、腰のかげんにて、車の台、向う上がりになりたるとき、くるくると糸を巻上るなり。またゆるめするに前の車はげしくめぐれば自然と大車めぐり出して走ること最も早くして、小犬の付添来りてこの車とともにかけ出すに、車の方少し早し。車小なる作りにして大体一人のりなり。手ぎわよろしく奇麗なる車なり。多くは女性の乗るべきものと見ゆる」。
どうやらこの文章から察すると、前輪に巻いた組紐を巻上げることによって、前輪の中に組込まれたゼンマイ仕掛けが巻かれ、手をゆるめることによって動き出す方式のようである。あるいは他の方式なのだろうか? どうも「腰のかげんにて、車の台、向う上りになりたるとき」という文章の意味がわからない。

駆動装置はなお謎
三輪は女性用が多い
ゼンマイ仕掛けは勝手な想像だが、文章通り組紐(ロープ)を使う手動方式だとすればロープが輪ゴムのようにエンドレスにつながっていて、継続的にたぐりよせて前輪を回転させることになる。だとすればとても疲れて快適な乗りものとはいえなくなる。それとも組紐を引くのは向う上がり、つまり登坂時だけなのか? そうなると他の有力な駆動装置がなければならない。
もう一つ考えられるのは絵師がメカニズムのスケッチを誤ったということだが、乗っている婦人の服飾などはかなりリアルであって、判断に苦しむ。今後の調査が必要なところである。(注、その後、この絵は実物を見ないで描いたようで、当時の文献から模写したものか?)
ところで、「多くは女性の乗るべきものと見ゆる」の一節だが、これは西欧の文献に当時の三輪車にレディス用。と銘を打ったものが多い。たしかに女性が多く乗っていたようである。だが、そのことをこの文章を書いた人物はどこから知ったのだろうか。
一つ考えられることは、この絵のように、女性の乗っている風景を横浜でしばしば目撃していたのではないか、ということである。
こうしてみると、自転車は明治以前、すなわち幕末に日本の土を踏んでいたということがわかる。伝承が事実であったことがこの一枚の絵から裏づけられ、渡来の歴史は少なく見積っても4年以上はさかのぼったことになる。(注、いまのところ実車が幕末に渡来していたのかは不明である、だが可能性は否定できない)
いま、私どもの会では、自転車の歴史に関する資料をお持ちの方に、コピーでもよく、メモでもよいので、情報をお知らせいただきたいとアピールしている。幸い、フランスの初期の自転車のポスターの目録や明治期の自転車に関する実用新案登録の公報などをお寄せくださる方が出てきているが、まだけっして数は多くはない。誌上をお借りして恐縮だが、ご協力をいただければ幸である。


明治二年に二輪車も
ボーンシェーカーか?
私ごとはさておいて、もう一枚、知られざる絵をお目にかけよう。
上のものがそれである。筆致をご覧になれば「自転車を見て驚く江戸市民」と酷似しているように、やはり『ジャパンパンチ』のもので、それも、「江戸市民」の絵よりも一ヵ月あとの号、明治2年(1869年)3月のものに掲載されている。
富士山が見え、二人の外人が銃を構えている場所や二人の服装からわかるように狩猟大会のスケッチであって、一人が二輪の自転車にまたがっている。
この時期の日本に二輪の自転車の存在を裏づける資料はいままでに一つも見つかっていない。東京の土屋製作所に初期ボーンシェーカーが保存されており「慶応年間にアメリカ人が日本へ持ち込んだ」という伝承があるが、それを裏づける資料がない。
だからこの絵はその点で貴重なのだが、残念なことはスケッチがきわめてラフで、ハンドルが描かれていないし、フレームの構造もはっきりしない。
それに場所も丘陵のオフ・ロードのようである。
果してこういうところまで遠乗りして、この姿勢で座乗したまま銃が撃てるものか、大いに疑問を抱かざるを得ない。だが、こういう推測はできる。二輪の前輪駆動自転車は、1839年にマクミランがつくったとされているし、1840年には、ペダルで駆動する自転車がイギリスで走ったともいわれている。(注、いまではイギリスでも直列2輪車のマクミランは否定されている)やさらに、1862年にはフランスでミショーがペダル前輪駆動の車を142台も製作したという記録がある。だから、悪路を走り座乗して銃を構えることはしなかったにしても、居留地から狩猟地まで二輪車で出向いた外人がいたのかもしれない。画家のワーグマンはそれを題材としてイメージをふくらましたのかもしれない――と。
また、簡略化したスケッチにせよ、この絵の車輪径が人物の大きさと比較すると少し大きいのではないか。1865年ごろからのミショー車は車輪が大きくなるが、明治2年がそれに当るのだから即輸入でもしないかぎりこうならない。因みに前述の土屋製作所の車輪径は58.5センチである。
まだまだわからないことが多い。

季刊「サイクルビジネス」№21 陽春号、1985年4月20日、ブリヂストン株式会社発行、「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)

2020年10月23日金曜日

老舗さんぽ ②

 昨日、自転車で小田原の寺町にあるエンドウ商会を訪ねた。

以前から気になっていたお店だが、店の中に入ったのは初めてである。
このエンドウ商会も創業は古く、1926年(昭和元年)である。
昭和4年発行の全国自転車業組合聯合会会員名簿にも掲載されている。現在の店主は三代目の遠藤雅佳さんで、数年前には、その弟(遠藤貢太さん)が開成町の古田島で系列店として開業している。
お店の中の多くの自転車はスポーツ車が中心で、この店の客層が分かる気がする。
そういえば、2年ぐらい前に西丹沢にあるビジターセンター前でこのお店のサイクリングクラブのメンバーが数人来ていたのを思い出す。
店の一番奥には100万円以上もする高級スポーツが鎮座していた。スポットライトを浴び、価格に会った荘厳さを演出していた。
その少し手前にアラヤのランドナータイプの自転車も片隅に置かれていた。この自転車を見て、少し安心した気分になる。精悍なスポーツ車だけでは味気ない。
店に入った時は気が付かなかったが、レジの背面の壁に古い創業時の写真が額に収まっていた。店主に伺ったところ昭和初期の写真だという。私には店構えや店の前に立つ人物から大正期に思えた。時代を感じさせる素晴らしい写真であった。
下がその写真、解像度の悪い安コンパクトカメラで早速許可を得て撮影。額表面のガラスが少し反射してしまったが、何とか家に帰りパソコンで画像修正した。

昭和元年頃の写真
(もう少し古く大正期かもしれない)
店名の下に相州小田原寺町とある

現在の店舗

一番奥に鎮座していた150万円の高級車

右端にアラヤのツーリング車

昭和4年発行の全国自転車業組合聯合会会員名簿
国会図書館所蔵

エンドウ商会の店を出た後、また南町の野地サイクル商会に向かった。再度、古い写真帳の件をお願いした。
下の写真は、1964年東京オリンピック時の感謝状と琺瑯の組合員票である。
丁度、三代目にあたる現店主の母親がいて、1964年の東京オリンピック時の写真を見ながら説明を聞くことができた。
一番右側が二代目の野地好幸さん、その隣背の高い人は遠藤さん、その次が梅木さん、そして一番左が中島さんであるとのこと。皆さん自転車店の店主である。
この中で遠藤さんは、直接話したことはないが、よく平塚の競輪場で、競技役員をしていた頃にお会いしている。確か昭和50年から昭和52年頃のことである。
当時は私もアマチュア自転車競技選手であった。
森 幸春選手や藤巻 進選手とも何回か一緒に走っている。結果は常に最下位であったが。
いまでは懐かしい思い出である。

以下の写真は野地サイクル商会、

1964年東京オリンピックの感謝状

レトロな琺瑯会員票

左から中島、梅本、遠藤、野地の各氏

2020年10月22日木曜日

銀輪のわだち その8

 「知られざる銀輪のわだち」その8

小林作太郎と曲乗り

前回も触れたように明治の中ごろからは自転車に関する出版物はかなり多くなってくる。30年代には月刊雑誌で「輪友」、「輪界」、「自転車」などが発行されており、部数のほどはわからないが、今日の状況と似たかたちになっている。
それらの誌面には東洋史学の第一人者であった那珂通世、二六新聞の創刊者であり政治家である秋山定輔など当時の著名人がサイクリストとしてしばしば登場しているし、女性サイクリスト育成のための「女子嗜輪会」の催しがおこなわれていたようで、自転車の社会的地位が予想以上に高かったことがわかる。
中には「勇輪義会」という自転車グループの記事もあるが、これは、自転車走行により心身を強固にして、一たん緩急あるときは義勇奉公の実を尽すにあり、が目的で”軍事的練習操作の練磨”をおこなっていたらしい。そういう時代背景もあったのであろう。
東洋史学者の那珂通世が、文部省から宮城・福島・栃木の三県学校視察の出張命令を受けて、その旅程11日間のすべてを自転車で踏破する「奥州転輪記」が、快進社発行の「自転車」第9号(明治34年4月)に掲載されているが、3月はじめ雪と北風をつき、護身用のピストルを帯びてペダルを踏むレポートは、明治の学者の意気込みを感じさせる読物である。
当時、往路に野犬が多く追尾されて困惑すること、旅館を選ぶにはサイクリストがいる宿を探すべきこと(普通の旅館では旅人の靴を磨いてくれても自転車は粗末に扱う)などの記述は、往時を彷彿とさせて興味深い。

小林作太郎

自転車曲乗りの練習風景

自転車10傑投票の記録
東芝重役の若き日の名が
さて、この記事が載っている『自転車』の同号は、折りにふれて読み返している。
そのころ、これら自転車雑誌では”自転車のベテラン”を人気投票で選出する催しがさかんであった。それはしばしばおこなわれていたようである。
そこで「自転車」は従来の人気投票に新機軸を出すため、ただ一般的な自転車熟練度で人気投票をすることを改めて、部門別投票をはじめたのである。その部門とは、競走家、旅行家、曲乗り家などのほか技術家、自転車店などいろいろである。今日でいえばレーサー、ツーリストなどという分け方であろう。
「自転車界10傑投票」と呼んでいた。この雑誌の同号には、その「10傑投票」の第3回投票の結果が載っているのである。
旅行家では那珂通世が1.073票で第一位、競走家では鶴田勝三が892票で第一位、曲乗り家では1.560票という高点で小林作太郎という人が選ばれている。この小林作太郎は、技術家の部門でも、梶野仁之助についで第二位にランクされている。
私はこれを読み返すたびに、小林作太郎とはどういう人物なのかに長いこと興味を持っていたのだが、自転車史には他にその名が見えないのでわからずにいた。
その後、小林作太郎はわが国の電機産業史では著名な人で、明治時代の「東芝」(当時の芝浦製作所)では技術開発に生産管理に卓抜な手腕を発揮した功労者で、後に同社の常務取締役となる人物であった。
その方面の事情に暗い私が、このことを知ったのは昨秋、古書市で『小林作太郎伝』の一冊を探したことによる。気にかかっていた人名が書名になっていたのですぐに入手した。
この本は昭和14年、当時の東京芝浦電気株式会社が非売品として発行したもので、同2年に69歳で逝去した小林の生涯を物語風に綴った250頁にわたるものである。
したがって東芝における活躍を中心にした記述だが、幸い物語風なものだけに、多くのエピソードが盛り込まれており、小林と自転車の関係も書かれている。
ここに掲載した小林の曲乗りの写真も同書に収録されていたものからの複写だが、これが収録されていることを見ても小林作太郎の人生と自転車が切っても切れない関係にあったことがわかるであろう。
それよりも驚くべきことは、小林が東芝はにおいて飛躍的な抜擢をされる契機が”自転車の曲乗り”にあったという事実である。

天才的な技術少年と
自転車との出会い
”曲乗りと抜擢”の話は後にして、まず小林作太郎と自転車のかかわり合いを同書から見てみよう。小林は明治2年に長崎市で生まれる。幼少時から新しいものへの興味を強くもち、細工ごとが好きであったという。11歳で独習で時計の分解・組立てをしたという話、ほうぼうから時計の修理が小林少年のもとへ持ち込まれたという話は真偽の確かめようがないが、13歳の時に蒸気機関で走る汽車の模型をつくり、16歳で同じ機関運転で航行する汽船の模型をつくったことは写真もある上、この汽船はたまたま長崎市へ立寄った伊藤博文の目にとまり、皇太子(後の大正天皇)に献上されているので、少年時代から天才的な技術家であったことはまちがいない。
同じく独創的な潮を吹いて遊泳する鯨の模型が有栖川宮家へ献上されたのもこのころで、同宮家の受領文書も残されている。
これらは明治17年前後である。そのころ長崎市に貸自転車店が開業されるのだが新しい技術に興味を燃やす小林少年はすぐにこれに飛びつくことになる。そのころ小林は叔父の陶器店で働いているのだが、暇を盗んでは1時間25銭の自転車を借り練習していたらしい。
近親者の証言では、練習場のまん中に反り橋があったが、その橋を自転車で乗り越せる者はいなかったという。小林少年はそれを乗り越せることが自慢で、しばしば賞品を獲得していた。
これが小林作太郎と自転車の出会いだが、その後、三菱造船所勤務などを経て上京、伝手を求めて東芝へ入社することになる。
その間も自転車への興味はつきず、乗りつづけていたようだ。

曲乗りの練習ぶり見て
大田黒翁が異例の抜擢
小林は自転車について、今日の常識とは少し異なる意見を持っていたらしい。ただ走るだけでは全身運動にはならぬー身体各部の運動のためには新しい自転車運動法が必要―と考え、外国雑誌などで見た曲乗りをはじめたようである。毎朝、会社への出勤前に会社付近の空地で猛練習をつづけ、一技を仕上げると次の技に移り、寒暑を問わず練習をつづけていた。
明治32年、31歳になった小林は、一労働者として入社した東芝で工場主任にまで昇格していた。当時五つあったうちの一工場の工場長のような地位にあった。そのころの東芝は赤字の連続でその建直しをはかるため三井の大番頭であった大田黒重五郎を迎えることになった。
この大田黒翁が小林作太郎を経営刷新人事の決め手として抜擢するのである。その契機となったのが自転車の曲乗りであった。
大田黒は自身の懐古談の中で、要旨つぎのように語っている。
「そのころ私は芝浦にあって毎朝、海岸を運動のために散歩するのを常としていた。
ところがその埋立地に毎朝自転車の練習をしている人がいる。ただの練習ではない。曲乗りであり、失敗すればできるまで何度でも同じことを繰返す。工場が始まるころになると汗びっしょりのまま自転車で去っていく。実に努力家である。この人にはエライところがあるようだ。それから調べてみると、小学校を出ただけだが、機械に対する天才とでもいうべき人であった。頭が緻密で何かやり出すと完成まで力を抜かない。工場改革に手をつけるには断然こういう人を登用しようと考えた」。

いまも残る小林記念室
その妙技は後年も披露
かくして小林作太郎は全工場の総取締りの担当者になり、その結果、一年間で会社は黒字に転ずるのである。
自転車の曲乗りは一つの契機に過ぎない。やはり小林の機械的天才、努力家の資質が彼を東芝の重鎮にするのではあるが、この出会いは自転車史にとってやはり興味深いものがある。
その前後、小林は東京バイシクル倶楽部から曲乗り一等賞を得たり、輪友会から数回にわたって妙技賞を授けられたりしているから、事業の多忙な中でも自転車への愛着は絶たれなかったようである。
「自転車界10傑投票」の技術家部門でも第2位に選ばれているのは、自転車技術面でも注目される存在だったのか、機械技術者として著名だったからか、よくわからないが、小林作太郎が電機産業でいかに卓抜した人物であったかは、現在も東芝の鶴見工場内に小林記念室があると知らされて不明を恥じた次第である。
小林は後年も乞われて自転車の妙技を慶応大学の校庭で披露し、観る人を驚かせている。また東芝で社員の自転車遠乗り会ではいつも団長として活躍したという。

季刊「サイクルビジネス」№20 新春号、1985年1月25日、ブリヂストン株式会社発行、「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)


2020年10月21日水曜日

銀輪のわだち その7

 「知られざる銀輪のわだち」その7

必要な文献目録づくり

仏語自転車関係文献目録
在パリ・小林恵三氏の快挙

ベロ出版社の『ニューサイクリング』を購読されている方なら同誌ですでにご承知であろうが、パリ在住の小林恵三氏が同地で四年がかりの仕事で『仏語自転車関係文献目録』をつくりあげた。
この連載のはじめにも自転車の発明については1790年のド・シブラック伯爵説は根拠が薄くなったとのべたが、それは今日では本家のフランスでも影を潜めつつある。最近の定説はドイツのドライス男爵の発明ということに傾きつつあるが、まだ確定的ではない(現在では確定している)。しかし、とにかくヨーロッパの自転車史は、1976年にフランスの研究家ジャック・スレー氏がド・シブラック説をくつがえすことから新しい研究がはじまっている。
こういう中で小林恵三氏がパリの国立図書館をはじめベルギー、スイスなどフランス語圏を渉猟して、1818年から最近までのフランス語で書かれた自転車文献ー。自転車史から文学上の記述まで、300点を調べあげて目録にまとめたことは、新しい研究への大きな貢献である。この目録はフランスのサイクリング協会(FFCT)と自転車競技連盟(FFC)との共同出版となった。
自転車に関する文献が散逸していて研究者の手に入らない嘆きは何回ものべたが、最近は当会のメンバーである福島県の真船氏からこういう電話をいただいた。
「古本屋で1869年、ロンドン発行のベロシペッデという本を発見した」という。
ご存知の方もいると思うが、わが会では2年前に、1869年ロンドン発行の『ベロシペデス』という本を復刻出版している。この本は鳥山新一氏も「世界でいちばん古い自転車書」と折紙をつけているものだ。ペデスとペッデではスペルの最後にSがつくかつかないかの差であり、発行地も発行時も同じー。
不審を問い合わせると「まったく別の本だ。イラストや図も25点入っている」という。これでまた定説がくつがえった。
小林恵二氏が今回まとめた文献目録によって、われわれも益するところが多いものと期待している。

『自転車術』より3年早い
『自転車利用論』の存在

ふりかえって、わが国の自転車文献の状況を見てみよう。日本で発行された自転車に関するまとまった著書は、明治29年2月発行の渡辺修二郎による『自転車術』ということになっている。このことは「東洋最古のまとまった自転車文献」として外国の出版物にも紹介されている。
ところが、前出の真船氏は昨年、明治26年3月に青木嵩山堂というところが発行した「内外書籍出版発行目録」を手に入れた。するとそこに『自転車利用論』定価7銭という本が紹介されていた。著者は金澤来蔵とある。
この連絡を受けて各地方の図書館、各大学の図書館で同書を探しているのだが、残念ながら見つからない(その後、国会図書館所蔵が判明)。もしも、これが発見されれば『自転車術』の東洋最古說はくずれてしまう。少くとも三年は早い。おまけにこの本の発行時は目録発行時よりも早いわけだから、実際にはもっとさかのぼるかもしれない。
さらに、最近、こういうこともあった。自転車文化史研究家の佐野裕二氏が『偕行社記事号外』という雑誌の明治29年2月号が「軍用自転車に関する所見、並に教育法」を掲載していることを発堀した。この記事は連載の後編であるから当然に前編もあるはず。だとすると、これも『自転車術』よりも古い。
わが国の自転車の歴史はまだまだ未発堀部分が多い 。私は、パリの小林恵三氏の快挙に刺激されて、いままでに存在が明らかになっている、わが国の自転車文献目録をつくってみようと思い立った。ほんの一部だが後半に掲げたのが、それである。
もちろん、これが不完全なものであることは承知の上である。多くの研究者の方がその不備をつぎつぎと補綴されてくれればタタキ台としての役が果せると思ってのことだ。私自身も今後さらに補綴していくつもりだが、ご協力をいただければ幸いである。
ここには、明治時代の文献しかないが、それ以後のものはかなり資料が整理されていて、自振協の『自転車の一世紀』等に詳しい。またわが会でも会報で自転車が登場する小説、随筆などはリストアップしている。やはり明治時代が闇なのである。

『風俗画報』の明治31年11月
不忍池畔自転車競走ノ図

上に掲げた絵は『風俗画報』の明治31年のもので、東京・上野の不忍池畔でおこなわれた自転車競走運動会。記事には当時タバコ王とうたわれた岩谷松平が転倒したことや、華族令嬢が多く参観したこと、そして、賞品が何であったかなどが書かれている。
したがって、こういう雑誌も重要な文献になるのである。そういうことをお含みの上で以下の文献目録に目を通していただきたい。
なお、『仏語自転車関係文献目録』はベロ出版社、または自転車文化センターで幹旋中。また『ベロシペデス』と後出の『中村春吉自転車世界無銭旅行』はわが会で復刻版を斡旋中(現在この3冊とも既に斡旋は終了している)。

江戸・明治期自転車関係文献目録
「からくり訓蒙鑑草」多賀谷環中仙著 亨保15年
「横浜文庫」橋本玉蘭斉 慶応元年
「長崎日記」田中久重 慶応2年
「ジャパン・パンチ」チャールズ、ワーグマン 明治2年
「絵入り智慧の環」明治3年
「御布告緊要録」書式集 明治7年  
「公用文式」 巻菱潭編・書,温故堂, 明治8年  
「東京一覧」 井上道甫編,須原屋茂兵衛,明治8年
「地方税規則」自転車、明治10年
「東京経済雑誌」経済雑誌社、第218号 明治17年
「一顰一笑 新粧之佳人」須藤光暉(南翠外史)著 正文堂、明治20年5月
「啓蒙字類」木村登代吉編、明治20年7月
「家扶日記」徳川慶喜関連、明治20年
「亀次郎日記」松本亀次郎 明治20年
「欧洲之風俗 」 西滸答案他,大庭和助, 明治20年  
「西洋風俗記」 西滸著他,駸々堂,明治20年
「学びの手車」転輪館 明治22年
「風俗画報」第11号、第168号、第178号 明治22年から?
「不思議国巡回記」雑誌”小国民”(新発明自動自転車)明治23年6月
「乗方指南 自転車利用論 完」金澤来蔵著 普及舎 明治23年9月
「異国漫遊 瓜太郎物語」明治27年1月
「教育ポンチ新案絵ばなし」加藤耕書堂, 明治27年
「女の顔切」江見水蔭・関戸浩園著, 明治28年10月
「少年教育遊戯」 嚶々亭主人著,求光閣, 明治28年
「自転車の傷」野村銀次郎・磯部太郎兵衛 明治28年  
「娯楽倶楽部」民友社, (社会叢書 ; 第3巻) 明治28年
「偕行社記事号外」第280号 明治29年
「自転車術」渡辺修二郎著 少年園発行 明治29年
「三輪自転車の写真」埴 亀齢、上田市博物館蔵 明治30年頃
「中学世界」月刊雑誌、第2巻第3号から4号 博文館 明治31年
「流行」月刊雑誌、流行社 明治32年から?
「自転車乗用速成術」村松武一郎著 内外商事週報社 明治32年
「新式自転車独習」岩田可盛訳 叢書閣 明治33年
「フートボールと自転車」三井末彦著 博文館 明治33年
「運動界」雑誌 明治33年から明治35年?
「自転車」月刊雑誌、快進社 明治33年から大正10年頃?
「自転車お玉」伊原青々園著 金槙堂 明治34年
「自転車乗用の医学的観察」入澤博士講演記録 明治34年
「輪友」月刊雑誌、輪友社 明治34年から大正?
「自転車強盗」三省社瓢馬講演、明治34年
「自転車乗用の医学的観察」入澤達吉博士講演 明治34年
「神奈川県横浜市実業家要録」明治35年
「簡易自転車修繕法」佐藤喜四郎著 快進社 明治35年
「自転車全書」松居真玄著 内外出版協会 明治35年
「自転車指針」梅津大尉著、快進社 明治35年
「風流的自転車(松葉)」雑誌”新小説”P.168 明治35年8月
「猟輪雑誌」月刊雑誌、猟輪倶楽部 明治35年から明治36年?
「自転車世界」月刊雑誌、自転車世界社 明治35年から明治36年?
「自転車談(紫櫻)」雑誌”太陽”P.125 明治36年8月
「三友雑誌」月刊雑誌、明治36年から明治40年?
「滑稽新聞」宮武外骨 第48号 明治36年
「デートン・カタログ」双輪商会 明治36年
「最新東京繁盛記」明治36年
「日米商店商品目録」岡崎久次郎 明治36年
「自転車正価表」石川商会 明治37年
「魔風恋風」小杉天外作 春陽堂 明治37年
「少年」雑誌、時事新報社、第26号、明治38年
「ピアス略目録」石川商会 明治39年
「石川商会自転車カタログ」明治39年
「日本製材時報」第5号 明治41年
「輪界」月刊雑誌、輪界雑誌社 明治41年から明治45年?
「中村春吉自転車世界無銭旅行」押川春波編 博文館 明治42年
「清輪」月刊雑誌、清輪時報社 明治43年頃
「全国自転車商名鑑」大阪輪友雑誌社 明治43年
「今流行自転車節と博多節」大淵 浪 明治43年
「信越輪界」月刊雑誌、明治43年頃
「横浜成功名誉鑑」横浜商況新報社 明治43年
「明治事物起源」石井研堂著 明治41年
「如蘭社話」巻43、記脚踏車 明治44年

季刊「サイクルビジネス」№19 涼秋号、1984年10月30日、ブリヂストン株式会社発行、「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)


2020年10月20日火曜日

銀輪のわだち その6

「知られざる銀輪のわだち」その6

明治の新聞記事から
この連載の第一回に、明治初年に横浜で英人チャールス・ワーグマンが発行していた 雑誌『ジャパン・パンチ』の挿し絵「自転車を見て驚く江戸市民」を紹介した。
そして、この絵の掲載誌は明治二年の発行だから少なくともこの時期は自転車が日本人の目に入っていた、とのべた。日本における自転車の揺籃期を探るのには残されているこまごまとした文書や記録の断片を丹念に集めて、一つの体系に構成していくほかはない。
さきごろ話題になった”三元車”にしても、その実物が発見されたこととともに、東京都公文書館に埋もれていた鈴木三元の発売願等が発堀されたことが大きく寄与している。前号でも触れたが、これら文書を探し出したのはNHKの資料部主査の齊藤俊彦氏である。
齊藤氏は交通史の研究家でもあり、人力車の歴史についての権威でもあるが、自転車についても多年にわたって細かな資料を収集している。
私はおつき合いがはじまってから、氏から横浜市の開港資料館へ行って、同館所蔵の明治初期のある新聞記事を採録することを頼まれた。
そのご縁で齊藤氏がこれまでに収集した自転車に関する新聞記事のコピーを頂戴したのだが、今回はそれらの記事をご紹介したい。

明治五年の自転車税
一カ月六銭七厘なり

明治4年8月20日の『横浜毎日』紙に外国商人輸出入という欄があり、前日の税関を通った商品名が挙がっているが、ラシャやコーヒー、ビールなどと並んで「自転車二ツ」という記録があり、翌明治5年7月18日の「東京日日」紙に「自転車税金一カ月六銭七厘」とある。税金の記事は東京府税が改正になったための公示であるが、ちなみに他の車税と比較してみると人力車が一三銭四厘、牛車が五銭、小車が九厘である。
人力車や自転車はぜいたく品と見られていたためか牛車や小車にくらべて割高である。ところで同年の東京府には自転車は一台しか存在していないことになっている。このことは『明治初年の東京府雑稅』という資料にあって、従来からしばしば諸論文に引用されている。
だが明治3年に大阪では「自転車、通行人ノ妨害少カラズ二付、途上運転ヲ禁ズ」という取締令が出たという資料(大阪府警察史)もある。この当時、自転車が大阪に多く、東京にただ一台というのは奇妙でならない。が、いまはこのことへの推測はおいて新聞記事をさらに拾ってみよう。

明治4年8月20日付け横浜毎日新聞
「自転車二ツ」とある

三元、化物屋敷を探険
貸自転車店の脱税珍談

珍しい記事をいくつかお目にかける。
その一つ目は、あの鈴木三元が意外なところへ顔を出している。彼がまだ”三元車”を完成していない明治8年”化物屋敷”を探険する記事が、同年11月の「朝野新聞」に出ているのだ。その内容は、福島県下のある家に狐狸のしわざか怪異がつづき大騒ぎがおこったとき鈴木三元が「そんな非科学的なことがあるか」と乗り込んだ、というもの。この記事では鈴木三元の肩書きを洋学先生としている。このお話では「洋学先生にもこの怪奇の原因がつきとめられなかった」としているのだが、彼が早くから科学・技術に造詣深い名士として知られていたことがわかるのである。
珍しい記事の二つ目は明治12年7月の「東京日日」紙にある自転車税の脱税の話だ。
東京・飯田町の江山という男が自転車を五台ほど購入して貸自転車業を始めるが、自転車税(このころは国税になっており、税額は1台1円50銭)をごまかそうとニセ鑑札をつけて使用しているのが見つかり処分された、という記事である。その一部分を紹介すると――「一台につき一円五〇銭の料を取られては叶わぬ。鑑札はどうせ袋に包みて下げておくのみなれば自分免許で済ますべしと、肝太くもあり合わせの菓子折の板を削り、緋金巾の袋をつくりて車につけ人に貸し銭を取っているうち(中略)、巡行の巡査が、さても不恰好なる鑑札かな、もし偽造にてあらんもはかられずと改めしに、果して木の切れに”千客万来、客人大明神”と表裏に書きたる真っ赤な偽鑑札」
この記事から当時の自転車の鑑札付が布製の袋に入れて車体につけておいたものと想像できる。「自分免許で済すべしと、肝太くし…」も当時のマスコミ・ライターの筆致がうかがえておかしいが、二セ鑑札に”千客万来”などと書いていた貸自転車店の商魂もすごい。

梶野にも新事実が・・・
自転車鉄道をもくろむ
三つ目の記事―、これはかつて紹介した横浜の梶野仁之助に関するものだが、明治3年8月15日の『東京朝日」紙にこうある。

「自転車鉄道製造会社―。横浜高島町五丁目なる梶野仁之助が発明に係る自転車鉄道と、いえるは、蒸気をも馬匹をも要せず、一の機械を以て運転するものの由にて、今度、東京の財産家松本亥平、多村藤七、山崎治兵衛、筒井与八郎、西梶元次、山口某、和田義正の諸氏等とはかり、標題の如き会社を組織し、近々その筋の認可を得て株金を募集するの都合なりと聞く。高架鉄道といい電気鉄道といい、さても鉄道流行の世の中なるかな」

この自転車鉄道とは何だろう?この年よりも2年前には東京にはすでに大量輸送機関として鉄道馬車が走っており、電気鉄道も話題になっていた(電気鉄道がわが国で走るのは6年後の明治28年=京都)ときに、自転車鉄道という発想はどこから生まれたのか想像がつかないのである。
しかし、この記事が誤報でないことは、その9日後の同新聞に「自転車鉄道製造会社の発起人は昨三日午後、築地寿美屋に会して会社組織その他出願手続き等につき相談会を催したる由」という記事があることでわかる。だが、これに関する報道はそれ以後はまったく姿を消してしまう。
この謎は今後の資料発掘によらなければちょっと解きようがないが、とにかくこの記事一つから、梶野仁之助像のいままでだれも知らなかった一部が見えてくるわけだ。

二人乗の自転車も登場
とにかく新聞記事は同時代の貴重な資料である。わが国に二人乗の自転車がいつごろから走っていたかについても、こんな記事が教えてくれる。
明治14年10月— ”三元車”が出品された第二回内国勧業博覧会の年の「東京日日」紙に「比頃、西洋人が二人乗の自転車に連れ立ち乗るを見受けしが、人力車の如く腰をかけ足にて機械を踏みて運転するなり。他には多く見ざるものなり。模造に敏捷なればまた流行り出すかもしれぬ、と語るものあり」。

季刊「サイクルビジネス」№18 盛夏号、1984年8月10日、ブリヂストン株式会社発行、「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)

2020年10月19日月曜日

銀輪のわだち その5

 知られざる銀輪のわだち(その5)

三元とその時代周辺

初代鈴木三元のことは、”三元車”の出現によって各方面からしだいに注目をあびてきた。ご覧になった方もあるであろうが、この3月9日から4月1日まで、東京・赤坂の自転車文化センターで『明治自転車文化展』が催され、日の目を見た” 三元車”を中心に数多くのミショー型、オーディナリー型の自転車が展示された。が、やはりメインは鈴木三元の業績を語る展示物であった。
この展覧会には私たちの会も協力団体ということで名を連らね、文献資料を出品したが、三元については熱心な研究者が新しく貴重な資料を発堀して提供され、おかげで三元の輪郭がしだいに明らかになってきたのである。
そればかりか、日本の自転車産業の草創期にはかつて採録した梶野仁之助やこの鈴木三元のほかに、同じ志をもつ人びとが存在したことまでわかってきた。
一つには、前回のべたように五代目三元氏によって初代三元の明治7年から3年にわたる日記が発見され、科学技術史博物館準備委員会の東野氏によってその解読が少しずつ進みはじめたこと、もう一つにはNHKの資料部主査で交通史や生活史の研究者でもある齊藤俊彦氏によって、いくつかの関係ある公文書が発堀されたことである。
以下、それらをもとに、いままでにわかってきたことを紹介してみたい。

一人乗り三元車
左、孫の房次郎(三代目三元)、真ん中
初代鈴木三元(顔が極めて不鮮明)
右の人物は不明、二代目三元か?

四人乗り三元車

ゼンマイの補助動力?
四人乗りの輸送手段も
第二回内国勧業博覧会(明治14年)へ三元が出品したのは、二人乗りの三元車、だけではなかった。二人乗りと一人乗りの二種を出品していた。そればかりではなく、三元は、ここへ出品はしなかったものの、四人乗りの自転車までを製造していて、同年の10月28日に、その発売願書を東京府に提出していたのである。
これらは東京都公文書館所蔵資料の中から齊藤氏が探し当てたもので、一人乗り、二人乗り、四人乗りを全国的に発売したい旨がのべられている。願書はこれらをすべて ”三元車”としているところを見ると、”三元車”とは鈴木三元の発明にかかわるすべての自転車を総称する統一ブランドであるらしい。前回紹介した二人乗りのものは、日記等によると、どうやら、”大河号”と命名していたようである。そして、この発売願書には二つの添付資料がついている。一つは四人乗りの写真であり、もう一つは「新発明、自走三元車」という広告文であって、それは一人乗りから四人乗りまでを発売するというものである。
これより前、明治12年に三元は横浜の石川町に「三元車売捌所」を設けているが、この発明を全国に告知するには、本拠地を東京に置くべきと考えて東京府に願書を出したようだ。
その願書や日記を見ると三元は「自転車」というよりも、人力を労さず、経費をかけず、合理的な交通手段の発明に意をそそいでいたらしい。
「歩輓車 (人力車) ノ甚ダ人力ヲ労シ、国民ヲシテ奴隷ヲ甘セシムル、マタ馬車ノ馬力ヲ誤リ往々良馬ヲ斃ス、マタ蒸汽車ノ鉄路ヲ造リ巨万ノ資ヲ費スニアラザレバ乗ル能ザル等ノ弊害ヲ除キ、冗費ヲ省キ、我三千有余万同胞兄弟ノ便利二供シ、国恩万分ノ一報セント欲ス」と願書にある。
人が人を乗せて走る奴隷的労働に嫌悪感を抱き、国力が豊かでないときに鉄道事業にぼう大な経費がかけられることを案じているあたりに、今日では考えられない明治の地方素封家の姿勢を見ることができる。(三元は福島県随一の資産家であり、後には明治三大銀山の一つであった半田銀山の経営に携わり、きわめて多忙な身であった)。
日記を読むと四人乗りのものにはゼンマイ式の補助駆動装置をも採り入れていたらしく、ゼンマイづくりに奔走している記述が出ており、地元の鍛治職や大工のところへ労を惜しむことなく足を運んでいる風景や、試運転をくり返している情景がうかがえる。
「人力車と並び駈け致し候。八幡より滝川の坂まで参り、なお八幡の鍛冶源蔵殿まで参り、車は一里近くまで登りて帰る首尾よく回り皆皆一同祝い候事」(日記)
願書をもう少し見てみよう。

辛酸ありありと日記に
横浜に売捌所設置の記録
「千心万苦シ、種々ノ車ヲ製シ、シバシバ路上二試ムルニ自在二迅走スル能ハズ、或ハ礫途二破レ、或ハ坂ノ上下二撓ムハ無数、堅固ナル車ヲ製スレバ其機重クシテ軽便ナラズ、此ノ如ク失敗スルコト数十回二及ブモナオ緩怠ノ念ヲ生セズ、世務ヲ捨テ、三昧工夫ヲナスコト明治九年立志ノ初ヨリ本年二至ルマデ、既二六年ノ久シキニ渉ルモ更ニ屈撓スルコトナク、終ニ凸凹峻坂ヲ嫌ハズ、前後左右自由自在ニシテ、一時間三里程ヲ走ルノ良車ヲ発明セリ」

この苦労は許可を得るための誇張や、修飾でもないことは日記の記録で裏づけられる。
この願書は同年11月14日に許可を受けている。この年、横浜の三元車売捌所にはつねに20台の在庫があったこと、そして翌15年の売価は一人乗(並)26円、(上)30円、二人乗(並)30円、(上)35円、四人乗(並)40円、(上)45円であったこと、上と並との差は塗装や金具、幌の仕様が異なる外見上のちがいであることが日記からわかる。
そして明治16年に横浜の売捌所が火災で焼失して再建されたことも記録されているのだが、東京を本拠としての事業はどうなったのか、反響はどうだったのかがよくわからない。
日記の解説は東野氏らによって進行中だが”三元車”のことにはその後あまり触れていないようで、謎はまだ解けていない。

福島県には三元以外に
斎藤、坂口の発明家も
”三元車”が財を傾けての三元の苦労にもかかわらず、結実しなかったと仮定すると、その理由は何か。実は前記の齊藤氏の発堀したものの中に、第二回内国勧業博覧会の審査官である浅見忠雅という人の”三元車”への審査報告書がある。そこではこの発明への高い評価とともに「足が疲れる」ことをあげ「人力車に代って役割りを果すにはこの点を改良しなければ目的を達せない」と指摘しており、追記のようなかたちで、鉄道馬車の有利さをのべている(鉄道馬車はこの翌年、東京で開通)。三元車、が普及しなかったのはこのへんの事情があるのではなかろうか。これは推測に過ぎないが……。
わからないことがもう一つある。三元が明治12年に横浜に売捌所を開いたとすると、これは梶野仁之助と同じ年、同じところで自転車の製造・販売をやっていたことになるが、この両人の間に何らかの交流はあったのであろうか。
いまのところ三元日記からはそれについては何の発見もないようである。交流がないことのほうが不自然に思えるのだが……。
つぎに、今回の『明治自転車文化展』で思いがけない発見は、三元が出品をした第二回内国勧業博覧会に、同じ福島県から三元以外に二人の人物がそれぞれ自転車を出品していた、という事実である。これも齊藤俊彦氏が東京都公文書館の資料の中から探し出したもので、同博覧会の「出品目録」にそれが記録されている。
出品者は、磐城国東白川郡関岡村・斎藤長太郎と、磐城国玉山村・坂口清之進である。
この二人については、いままでの自転車史にまったく名が見えず、福島県の資料にも見当らない(福島県の県資料は火災によってかなり焼失していると聞く)。意外な発見に現在、有志の方がたが資料収集をはじめているが、斎藤長太郎については、安政5年(1858年)生、昭和5年没で、現在の福島県東白河郡矢祭町の出身者であることだけがわかっている。坂口清之進は現いわき市の出身者らしい。
鈴木三元、斎藤長太郎、坂口清之進、なぜかいずれも福島県人である。しかし居住地は相互に遠く離れており連絡があったとは思えないのに、期せずして明治14年に揃って自転車を博覧会へ出品している。そして梶野仁之助はこのときは出品の名が見えず、第三回(明治23年)になって出品をしているのである。
日本の自転車の歴史はこうして少しずつ新しい発見がなされているが、まだまだ不明の部分が多過ぎて、限りなく不透明に近いのも事実。まだまだかなり流動的なのである。

季刊「サイクルビジネス」№17 陽春号、1984年4月25日、ブリヂストン株式会社発行、「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)

2020年10月18日日曜日

ロンドン・ペダリング

この文章は、1976年(昭和51)1月10日発行の職場広報に投稿した「ロンドン・ペダリング」である。
あれからもう45年にもなる。まだ昨日のように当時の情景が蘇る。

ロンドン・ペダリング
英国の自転車雑誌「サイクリング」の昨年1月4日号に、軽合金の折りたたみ式自転車が紹介されなかったら、今度のロンドン・サイクリングは生れなかった。
アルミの箱型フレーム、前14、後16インチの変則車輪、56歯もあるチェーンホイール、重量はたった8kg、町に見る軽量ミニサイクルでも20kgはある。この魅力はそれ以来、頭にこびりついて離れなくなった。
できることならばこれを手に入れ、海外旅行とロンドン市中を乗り廻したいものだ。・・・
11月13日、待望の出発の日が来た。トランク一つの一人旅、アンカレッジ経由パリ行きのジャンボ機に搭乗、パリから英国航空でヒースロー空港に到着。羽田を発って26時間、ホテルで夕食、さすがに疲れ早々にベッドにもぐりこんだ。
夢も見ず第一夜が明けた。子期していたとはいえ雨だ。外は寒い、しかし心ははやる。あの自転車を一刻も早く見付けなければ・・・。
いよいよ行動開始だ。グレイズ・イン・ロードにあるコンドル自転車店に向う。地下鉄の車輛は古く、意外に汚ない。喫煙車、禁煙車と別れているのはタパコ好きのお国柄でしょうか。
店内にオリジナル・フレームがズラリと吊下っている。ラレー、コベントリー・イーグルのスポーツ車、その中に探す自転車はなかった。
日も暮れ、足も重くなりホテルに戻らざるをえなかった。
翌日はケニングトン・ロードのF・W・エバンズ店を目指す。
期待と不安と複雑な気持で店の前に立つ。その時、私の心臓は激しく鼓動し、血液が一気に脳天にのぼった。視線はウインドウの一枚の紙片に釘づけとなった、「サイクリング」誌の1月4日号ではないか。店内に入る。
アッタ。しかしハンドルに下げられた値段を見た瞬間、喜びはとたんに、暗澹となる。125ポンド・・・手持予算額は114ポンドしかない。どうしよう。
Could you make better price.I came to buy  from Japan.
たどたどしい発音で述べる。相手の言うことがワカラナイ。ついに筆談となる。息詰まる沈黙・・・ネバル、・・・最後の提案、104ポンド、税金10ポンド、相手のあきれ顔、暫くしてニコリと笑ってくれた。
Thank you 私の物になったのだ。
ホテルのあるケンジントンまで10キロ。早速、ペダルを踏む。ぐっと脚に力を入れるとフレームはたわむ。ペダリングの感触は五体をくすぐる。
ヨーロッパの名橋ウェストミンスター橋を渡る。テムズ川は茶色に濁っているが流れは豊かである。左側にイギリスの象徴であるビッグベンの時計台がそそり立つ。まさにイギリスに来たという実感である。尖塔が林立する国会議事堂に感動し、対岸のスコットランドヤードを望みなから、サイクリングを楽しむ。
ハンドルさばきの手の甲に初冬の風が冷たく吹きぬけていく・・・。
寒さと空腹と疲れを覚える。財布と相談の食事はハンバーガ2個にコーヒー、代金は〆て35ペンス、なんとか満ち足りて元気回復鼻歌まじりでベダルを踏む。
急に生理現象をもよおす。地理不案内もあるが公衆便所がどこにも見当らない。まだホテルまで10分はかかるだろう。青い顔でペダルを踏んだ。ハイドパークが横目に流れた。(オ)

F・W・エバンズのビカートン(Bickerton)

ビカートンのHPは → こちら

2020年10月17日土曜日

老舗さんぽ ①

 昨日、小田原の老舗を自転車散歩の途中に尋ねた。

小田原市内の自転車専門店も徐々に数を減らし、いまでは数軒が営業している状況になってしまった。これは大正期よりも店数が減っている現状である。
その原因の殆どは、近年に大手スーパーやディスカウントストアでの安売りが始まったことと、後継者不足にある。
大正時代の初期に営業していた、香川自転車店、瀬戸自転車店、中島自転車店などがあったが、今は無い。

サイクリングの途中に訪ねた店は野地サイクル商会といって、大正13年の創業であり、関東大震災後に始めたことになる。現在の店主は4代目に当たる。建物も何回か改装しているが躯体部分は既に80年近く経過している。店内の壁に飾ってあるブラインド生地のような素材にこの店の歴史が写真と解説付きで飾ってある。
下の②~⑤の写真がそれである。この生地も既に経年で色あせていて、ぼかしが入ったような感じになっている。
2代目の店主は自転車競技選手としても活躍したようで、④の写真には自転車と共に優勝旗も写っている。1964年の東京オリンピックの時は、競技役員もしていた。

ちょうど、私が店を訪ねた時は、アメリカ製のクルーザー型の自転車を修理していた。
忙しそうであったが、声をかけ「店内を見学してよいですか」と言ったところ、快く「どうぞ」と言ってくれた。さらに「店内の写真を撮ってもかまわないですか」と図々しくも聞いたところ、これも快諾してくれた。
写真を撮り始めて、一番関心を持ったものの一つがレトロな工具箱で、いまでも現役である。いつ頃から使っているのか質問したところ「もう80年ぐらいになる」とのこと。
まさにこれだけでも老舗である。

「次回来たときは壁にある写真のオリジナル写真をみせてください」と頼んだところ「それでは店の方に持ってきておく」とのこと、これで次回の”老舗さんぽ ”の楽しみがまた一つ増えたことになる。

①野地サイクル商会
ちょうどクルーザー自転車のお客さんがみえていた

②大正13年創業
震災後に始める

③自転車競技選手でもあった二代目店主の野地好幸さん

④全国総合自転車競技神奈川大会
10哩競争で優勝

⑤1964年 東京オリンピック
自転車競技役員時代

➅レトロな工具箱
いまも現役

●参考までに各年発行の自転車商名鑑を以下に載せる。
これらの資料はすべて国会図書館所蔵である。
野地サイクル商会は⑩と⑪の名鑑に出てくる。

⑦帝國輪商案内 明治44年発行
国会図書館所蔵(以下同じ)

⑧全国自転車商名鑑 大正3年発行

⑨日本輪界名鑑 大正5年発行

⑩全国自転車業組合聯合会会員名鑑
昭和4年発行

⑪全国輪界興信名鑑 昭和12年発行