2020年10月24日土曜日

銀輪のわだち その9

「知られざる銀輪のわだち」その9 

自転車はやはり幕末期に渡来していた?
思い出してほしいのだが、この連載の第1回目で、私は下の図(自転車を見て驚く江戸市民)を掲げた。イギリスの画家チャールス・ワーグマンが横浜で発行していた『ジャパンパンチ』の明治2年1月号に掲載されたものであることをのべ、「少なくとも明治2年に自転車は東京の街上に姿をあらわしている」と書いた。


文献や資料のとぼしい自転車史では、こうした風俗資料もきわめて貴重な存在なのである。研究者の間でもこの『ジャパンパンチのスケッチにさかのぼる資料はないと思われていた。芳虎などが錦絵の開化風景にかなり自転車を描き込んでいるが、いずれも明治3年以降のものである。
伝承(いいつたえ)では「幕末から渡来していたらしい」、「慶応期に外人が持ち込んでいる」などといわれているものの、これを裏づける資料がない。いや、ないとされていた。
ところが、である。『横浜開港見聞誌』という本が数年前に名著刊行会から複刻されていることを知った。この本は文久2年(1862年)に第一編から第三編が、慶応元年(1865年)に第四編から第六編が刊行されている。その中に下の絵が入っている。”横浜絵”をよく描いた橋本玉蘭斎の筆になるものだ。


「横浜開港見聞誌」
この図、自輪車なり

一見してわかるように、外国の婦人が三輪の車両に乗り、洋犬がそれにつきそって走っている。「自転車」とは狭義に規定すれば直列二輪車であろうが、広義にいえば「座席を持ち、乗員の手足の力により駆動操縦される、軌道によらない車両」であるし、さきに挙けた『ジャパンパンチ』のものも三輪車だ。外国の文献でも二輪、四輪を自転車史に入れている。こうしてみればこの絵はまさに自転車である。
絵に書き込まれている説明には「此車ハ自りんの物にして前の車をめぐらせば自然として大車めぐり出し走るの図」とある。
だが読者も感じられたように、果してどのような駆動方式なのかがこの絵からはわからない。三輪車の駆動方式はテコによる手動式、踏み板式、ペダルクランク式などがあるが、これはそれらのいずれでもないようで、疑問が残るところである。
別に書かれている本文にはこうある。「この図は自輪車なり。これは乗りて細き組紐を持ちて前の輪に巻きつけあるを、腰のかげんにて、車の台、向う上がりになりたるとき、くるくると糸を巻上るなり。またゆるめするに前の車はげしくめぐれば自然と大車めぐり出して走ること最も早くして、小犬の付添来りてこの車とともにかけ出すに、車の方少し早し。車小なる作りにして大体一人のりなり。手ぎわよろしく奇麗なる車なり。多くは女性の乗るべきものと見ゆる」。
どうやらこの文章から察すると、前輪に巻いた組紐を巻上げることによって、前輪の中に組込まれたゼンマイ仕掛けが巻かれ、手をゆるめることによって動き出す方式のようである。あるいは他の方式なのだろうか? どうも「腰のかげんにて、車の台、向う上りになりたるとき」という文章の意味がわからない。

駆動装置はなお謎
三輪は女性用が多い
ゼンマイ仕掛けは勝手な想像だが、文章通り組紐(ロープ)を使う手動方式だとすればロープが輪ゴムのようにエンドレスにつながっていて、継続的にたぐりよせて前輪を回転させることになる。だとすればとても疲れて快適な乗りものとはいえなくなる。それとも組紐を引くのは向う上がり、つまり登坂時だけなのか? そうなると他の有力な駆動装置がなければならない。
もう一つ考えられるのは絵師がメカニズムのスケッチを誤ったということだが、乗っている婦人の服飾などはかなりリアルであって、判断に苦しむ。今後の調査が必要なところである。(注、その後、この絵は実物を見ないで描いたようで、当時の文献から模写したものか?)
ところで、「多くは女性の乗るべきものと見ゆる」の一節だが、これは西欧の文献に当時の三輪車にレディス用。と銘を打ったものが多い。たしかに女性が多く乗っていたようである。だが、そのことをこの文章を書いた人物はどこから知ったのだろうか。
一つ考えられることは、この絵のように、女性の乗っている風景を横浜でしばしば目撃していたのではないか、ということである。
こうしてみると、自転車は明治以前、すなわち幕末に日本の土を踏んでいたということがわかる。伝承が事実であったことがこの一枚の絵から裏づけられ、渡来の歴史は少なく見積っても4年以上はさかのぼったことになる。(注、いまのところ実車が幕末に渡来していたのかは不明である、だが可能性は否定できない)
いま、私どもの会では、自転車の歴史に関する資料をお持ちの方に、コピーでもよく、メモでもよいので、情報をお知らせいただきたいとアピールしている。幸い、フランスの初期の自転車のポスターの目録や明治期の自転車に関する実用新案登録の公報などをお寄せくださる方が出てきているが、まだけっして数は多くはない。誌上をお借りして恐縮だが、ご協力をいただければ幸である。


明治二年に二輪車も
ボーンシェーカーか?
私ごとはさておいて、もう一枚、知られざる絵をお目にかけよう。
上のものがそれである。筆致をご覧になれば「自転車を見て驚く江戸市民」と酷似しているように、やはり『ジャパンパンチ』のもので、それも、「江戸市民」の絵よりも一ヵ月あとの号、明治2年(1869年)3月のものに掲載されている。
富士山が見え、二人の外人が銃を構えている場所や二人の服装からわかるように狩猟大会のスケッチであって、一人が二輪の自転車にまたがっている。
この時期の日本に二輪の自転車の存在を裏づける資料はいままでに一つも見つかっていない。東京の土屋製作所に初期ボーンシェーカーが保存されており「慶応年間にアメリカ人が日本へ持ち込んだ」という伝承があるが、それを裏づける資料がない。
だからこの絵はその点で貴重なのだが、残念なことはスケッチがきわめてラフで、ハンドルが描かれていないし、フレームの構造もはっきりしない。
それに場所も丘陵のオフ・ロードのようである。
果してこういうところまで遠乗りして、この姿勢で座乗したまま銃が撃てるものか、大いに疑問を抱かざるを得ない。だが、こういう推測はできる。二輪の前輪駆動自転車は、1839年にマクミランがつくったとされているし、1840年には、ペダルで駆動する自転車がイギリスで走ったともいわれている。(注、いまではイギリスでも直列2輪車のマクミランは否定されている)やさらに、1862年にはフランスでミショーがペダル前輪駆動の車を142台も製作したという記録がある。だから、悪路を走り座乗して銃を構えることはしなかったにしても、居留地から狩猟地まで二輪車で出向いた外人がいたのかもしれない。画家のワーグマンはそれを題材としてイメージをふくらましたのかもしれない――と。
また、簡略化したスケッチにせよ、この絵の車輪径が人物の大きさと比較すると少し大きいのではないか。1865年ごろからのミショー車は車輪が大きくなるが、明治2年がそれに当るのだから即輸入でもしないかぎりこうならない。因みに前述の土屋製作所の車輪径は58.5センチである。
まだまだわからないことが多い。

季刊「サイクルビジネス」№21 陽春号、1985年4月20日、ブリヂストン株式会社発行、「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)