2020年10月26日月曜日

老舗さんぽ ④

 この記事も1983年(昭和58)3月15日発行の日本自転車史研究会の会報からのもの。
既に取材してから37年も経過している。残念ながらこの瀬戸自転車店も昨年の3月で歴史を閉じてしまった。1901年~2019年3月(118年間営業)であった。

小田原の老舗
小田原で一番古い自転車店はどこであろうか。明治45年5月発行の「全国自転車商名艦」には、足柄下郡小田原町 香川自転車商会、同幸町 瀬戸自転車商会、同萬年町 大西捨吉という3軒の店がでている。
この中で瀬戸自転車店のみ現在も引き続き営業しており、二代目にあたる瀬戸幾三氏(明治38年生)より当時の様子を伺うことができた。それによると、先代の伊予吉氏は明治8年鴨宮村で生まれ、瀬戸家には養子として入籍している。旧姓は横田という。瀬戸家に来る以前は神戸の外人商館で貿易の仕事に携っていた。当時の神戸は横浜同様開港地として栄え、居留地には外人商館が建ち並び、他の商品とともに自転車も盛んに輸入された土地柄であった。
明治34年外人商館を辞した伊予吉氏は小田原に帰り、そこで結婚。神戸時代の経験を生かして自転車店を開業した。そのころまだ自転車といえば輸入車が主で、瀬戸でも明治期はほとんど外国車、特にイギリス製のスパーク号を販売した。その後第一次世界大戦が始まると輸入車が途絶えたことから販売は国産車に変わり、主に丸石自転車を扱うことになった。
大正10年ごろからはオートバイにも目を付け、これを販売している。この頃の国産オートバイは、イギリス製のエンジンであるビリアースとかジャップエンジンを国産フレームに搭載したもので、瀬戸で販売したオートバイはダイヤモンド号という名前であった。このオートバイは大阪の工場より仕入れ、船積みして海路小田原まで運んだという。輸入車としては、トライアンフ、ネラカー、インディアン、BSA、アリエルなどを扱っている。
この頃から瀬戸では自店のオリジナル自転車として、ジャイアント号、優勝号を販売している。オリジナル自転車といっても単にトレードマークを考案し、無印の部品で組立てた自転車にマークを貼りつけて販売するもので、ちょっと大きな自転車店では一般的に行なわれた。
昭和に入ると顧客に対するサービスとして、富士山富士五湖一周競走を企画主催している。
当日は朝早くからトラック 2台を仕立て、1台には自転車を積み、他の1台には参加者が分乗し出発。籠坂峠を越えたところでトラックより降り、山中湖、河口湖、西湖などを巡りながら遠乗りとしゃれこみ、白糸の滝からはいよいよメインレースが始まり、沼津の千本松原まで一気に下ったという。現在も店内には、その日のレースで優勝したという自転車のフレームが天井より下がっている。沼津からはまたトラックに乗り込み、三島より箱根を越えて小田原に帰って来た。
その他、瀬戸自転車店が企画主催した行事は、小田原城のお堀り近くでの平面トラックレース、伊豆下田一周競走などがある。
幾三氏はまた明治の頃のおもしろい話しとして、自転車を1台売る場合でも客を料亭に連れて行き、床の間に自転車を飾って酒を飲みながら商談したという。それでも採算がとれたのであるから当時の自転車はいかに高価で、一般庶民にとってほど遠い存在であったことが伺える。
現在の店舗は関東大震災直後に建てたもので、すでに60年の風雪に耐えている。
瀬戸自転車商会とともに「全国自転車商名艦」に記載されていた、香川自転車商会及び大西捨吉は、すでに大正初期には廃業している。

瀬戸自転車店の店舗
1983年の取材時に撮影

店舗前に居る人は私の知人で
三代目店主とは小田高の同窓生
2008年6月27日撮影

昨年撮影 廃業の旨の張り紙がでていた
2019年12月11日撮影