2020年10月9日金曜日

岡本松造

 今日は岡本松造である。

岡本松造 (おかもと しょうぞう)1876年-1942年の略歴、

1876年(明治9)3月、岡本半四郞の長男として奈良県の上ノ郷村に生まれる。
1885年(明治18)、自転車部品の製造を始める。
1899年(明治32)、名古屋の古渡町に小さな工場を建てる。
1903年(明治36)、初の岡本製国産自転車を完成させる。
1909年(明治42)、ドイツ、イギリスへ渡航。現地の自転車工場などを視察。
1910年(明治43)、「岡本兄弟合資会社」を設立し、名古屋の御器所村に工場を建設して本格的に自転車の生産を始める。
1919年(大正8)、会社名を「岡本自転車自動車製作所」に改称。
1923年(大正12)、製造台数が年産5万台以上になる。
1924年(大正13)、多数あった車種を廃止し「ノーリツ号」一本に集中して大量生産体制を確立する。
1935(昭和10)、会社名を「岡本工業」と改称し、事業を拡大。オートバイ、飛行機車輪なども生産。戦時下では軍需工場となり、従業員3万人の大規模会社になる。
1939年(昭和14)、岡本航空機工業株式会社を設立。

岡本松造(1876年-1942年)

以下は昭和4年1月8日付け大阪毎日新聞の記事である。
(戦前の貴重な資料であり、全文を掲載)

自転車と自動車の功労者
岡本松造氏

我国自転車製作工業界の先駆者にして又恩人として筆者は輪業界に我が岡本松造氏あることを深く喜びとするものである。
氏は株式会社岡本自転車自動車製作所の創始者にして現に同社の社長である。
明治32年、氏によりて創始されたる自転車工場は誠に微々たる一小工場にすぎなかったが幾多の犠牲と努力の結果として今日東洋一を誇る岡本製作所たらしめるまでに至ったのである。
氏は弱冠にして郷里奈良県を出で名古屋に居所を定め自転車製造を目的とした一小工場を開設したが当時は、自転車といへば其殆どが輸入品にして日本製といへば自転車の一小部分品のみにして然も多くは使用に耐へない程度の幼稚なるものであった。自転車製作に手を初めた氏に取ってこれは甚だ遺憾のことであった。氏は如何にしても自己の手によって完全なる自転車を完成せんと胸底深く期するところがあり、日夜寝食を忘れてこれが研究に傾倒し、その結果同35年には1ヶ年240台の完成車を製作して市場に提供せしところ、非常に好評を以て一般に迎へられたのであった、こえて翌36年には1,000台を出し、漸次多きを加えるに至った。
然し、当時にありては依然として輸入品が非常に流行歓迎せられ、内地製品はほとんど顧みられない実状にあった。氏は産業発達上又国産奨励の見地より如何にしてもこのすう勢を打破するを最大の急務なりと信じ、これには品質において輸入品に代るべき内地製品を得るにあらざれば到底これに成功することは出来ないものであるとし、進んで斯業視察のため欧州諸国の著名自転車工場を歴訪して実地に彼の地の製作状況を研めていよいよ平素の信念を固め、且つこの視察に依って最新の知識と優良なる機械器具を携へて帰朝したのである。
ここに於て氏の工場は全く面目一新し、舶来品同様の製作方法に依ってしかも日本人向のいわゆる岡本式の自転車を完成したのである。
これが我国に於ける最も完全なる国産自転車として、又舶来品以上の日本人向の自転車として江湖の称賛を博した最初のものであった、このころ自転車の常用目的が娯楽用より全く実用的に使用される時代となり、岡本製の自転車は舶来品以上の丈夫な自転車として一般から多大の信用を得て需要に応じきれない程の盛況を呈したのである。がぜん大正8年の生産高 58,000台に上り、ますます注文殺到の有様で当時の全生産力を以てしても、これを満たすことは困難となって、いよいよ工場狭隘の急をつぐるに至り、株式会社と組織を変更の上一大資本を投資し大量生産設備を完成して規格を制定せる単式型ノーリツ号を製作して今日の如き東洋一の名実兼備の大量生産工場の建設を見るに至ったのである。
御大典には多年の功労者として緑綬褒章を拝受し、重々なる光栄に感泣して唯々業務に精励以って国産品の進展に努力する覚悟なりと、ますます国家産業のため氏の満進を祈るものである。

岡本自転車自動車製作所 1919年(大正8)
名古屋市御器所町