2020年10月22日木曜日

銀輪のわだち その8

 「知られざる銀輪のわだち」その8

小林作太郎と曲乗り

前回も触れたように明治の中ごろからは自転車に関する出版物はかなり多くなってくる。30年代には月刊雑誌で「輪友」、「輪界」、「自転車」などが発行されており、部数のほどはわからないが、今日の状況と似たかたちになっている。
それらの誌面には東洋史学の第一人者であった那珂通世、二六新聞の創刊者であり政治家である秋山定輔など当時の著名人がサイクリストとしてしばしば登場しているし、女性サイクリスト育成のための「女子嗜輪会」の催しがおこなわれていたようで、自転車の社会的地位が予想以上に高かったことがわかる。
中には「勇輪義会」という自転車グループの記事もあるが、これは、自転車走行により心身を強固にして、一たん緩急あるときは義勇奉公の実を尽すにあり、が目的で”軍事的練習操作の練磨”をおこなっていたらしい。そういう時代背景もあったのであろう。
東洋史学者の那珂通世が、文部省から宮城・福島・栃木の三県学校視察の出張命令を受けて、その旅程11日間のすべてを自転車で踏破する「奥州転輪記」が、快進社発行の「自転車」第9号(明治34年4月)に掲載されているが、3月はじめ雪と北風をつき、護身用のピストルを帯びてペダルを踏むレポートは、明治の学者の意気込みを感じさせる読物である。
当時、往路に野犬が多く追尾されて困惑すること、旅館を選ぶにはサイクリストがいる宿を探すべきこと(普通の旅館では旅人の靴を磨いてくれても自転車は粗末に扱う)などの記述は、往時を彷彿とさせて興味深い。

小林作太郎

自転車曲乗りの練習風景

自転車10傑投票の記録
東芝重役の若き日の名が
さて、この記事が載っている『自転車』の同号は、折りにふれて読み返している。
そのころ、これら自転車雑誌では”自転車のベテラン”を人気投票で選出する催しがさかんであった。それはしばしばおこなわれていたようである。
そこで「自転車」は従来の人気投票に新機軸を出すため、ただ一般的な自転車熟練度で人気投票をすることを改めて、部門別投票をはじめたのである。その部門とは、競走家、旅行家、曲乗り家などのほか技術家、自転車店などいろいろである。今日でいえばレーサー、ツーリストなどという分け方であろう。
「自転車界10傑投票」と呼んでいた。この雑誌の同号には、その「10傑投票」の第3回投票の結果が載っているのである。
旅行家では那珂通世が1.073票で第一位、競走家では鶴田勝三が892票で第一位、曲乗り家では1.560票という高点で小林作太郎という人が選ばれている。この小林作太郎は、技術家の部門でも、梶野仁之助についで第二位にランクされている。
私はこれを読み返すたびに、小林作太郎とはどういう人物なのかに長いこと興味を持っていたのだが、自転車史には他にその名が見えないのでわからずにいた。
その後、小林作太郎はわが国の電機産業史では著名な人で、明治時代の「東芝」(当時の芝浦製作所)では技術開発に生産管理に卓抜な手腕を発揮した功労者で、後に同社の常務取締役となる人物であった。
その方面の事情に暗い私が、このことを知ったのは昨秋、古書市で『小林作太郎伝』の一冊を探したことによる。気にかかっていた人名が書名になっていたのですぐに入手した。
この本は昭和14年、当時の東京芝浦電気株式会社が非売品として発行したもので、同2年に69歳で逝去した小林の生涯を物語風に綴った250頁にわたるものである。
したがって東芝における活躍を中心にした記述だが、幸い物語風なものだけに、多くのエピソードが盛り込まれており、小林と自転車の関係も書かれている。
ここに掲載した小林の曲乗りの写真も同書に収録されていたものからの複写だが、これが収録されていることを見ても小林作太郎の人生と自転車が切っても切れない関係にあったことがわかるであろう。
それよりも驚くべきことは、小林が東芝はにおいて飛躍的な抜擢をされる契機が”自転車の曲乗り”にあったという事実である。

天才的な技術少年と
自転車との出会い
”曲乗りと抜擢”の話は後にして、まず小林作太郎と自転車のかかわり合いを同書から見てみよう。小林は明治2年に長崎市で生まれる。幼少時から新しいものへの興味を強くもち、細工ごとが好きであったという。11歳で独習で時計の分解・組立てをしたという話、ほうぼうから時計の修理が小林少年のもとへ持ち込まれたという話は真偽の確かめようがないが、13歳の時に蒸気機関で走る汽車の模型をつくり、16歳で同じ機関運転で航行する汽船の模型をつくったことは写真もある上、この汽船はたまたま長崎市へ立寄った伊藤博文の目にとまり、皇太子(後の大正天皇)に献上されているので、少年時代から天才的な技術家であったことはまちがいない。
同じく独創的な潮を吹いて遊泳する鯨の模型が有栖川宮家へ献上されたのもこのころで、同宮家の受領文書も残されている。
これらは明治17年前後である。そのころ長崎市に貸自転車店が開業されるのだが新しい技術に興味を燃やす小林少年はすぐにこれに飛びつくことになる。そのころ小林は叔父の陶器店で働いているのだが、暇を盗んでは1時間25銭の自転車を借り練習していたらしい。
近親者の証言では、練習場のまん中に反り橋があったが、その橋を自転車で乗り越せる者はいなかったという。小林少年はそれを乗り越せることが自慢で、しばしば賞品を獲得していた。
これが小林作太郎と自転車の出会いだが、その後、三菱造船所勤務などを経て上京、伝手を求めて東芝へ入社することになる。
その間も自転車への興味はつきず、乗りつづけていたようだ。

曲乗りの練習ぶり見て
大田黒翁が異例の抜擢
小林は自転車について、今日の常識とは少し異なる意見を持っていたらしい。ただ走るだけでは全身運動にはならぬー身体各部の運動のためには新しい自転車運動法が必要―と考え、外国雑誌などで見た曲乗りをはじめたようである。毎朝、会社への出勤前に会社付近の空地で猛練習をつづけ、一技を仕上げると次の技に移り、寒暑を問わず練習をつづけていた。
明治32年、31歳になった小林は、一労働者として入社した東芝で工場主任にまで昇格していた。当時五つあったうちの一工場の工場長のような地位にあった。そのころの東芝は赤字の連続でその建直しをはかるため三井の大番頭であった大田黒重五郎を迎えることになった。
この大田黒翁が小林作太郎を経営刷新人事の決め手として抜擢するのである。その契機となったのが自転車の曲乗りであった。
大田黒は自身の懐古談の中で、要旨つぎのように語っている。
「そのころ私は芝浦にあって毎朝、海岸を運動のために散歩するのを常としていた。
ところがその埋立地に毎朝自転車の練習をしている人がいる。ただの練習ではない。曲乗りであり、失敗すればできるまで何度でも同じことを繰返す。工場が始まるころになると汗びっしょりのまま自転車で去っていく。実に努力家である。この人にはエライところがあるようだ。それから調べてみると、小学校を出ただけだが、機械に対する天才とでもいうべき人であった。頭が緻密で何かやり出すと完成まで力を抜かない。工場改革に手をつけるには断然こういう人を登用しようと考えた」。

いまも残る小林記念室
その妙技は後年も披露
かくして小林作太郎は全工場の総取締りの担当者になり、その結果、一年間で会社は黒字に転ずるのである。
自転車の曲乗りは一つの契機に過ぎない。やはり小林の機械的天才、努力家の資質が彼を東芝の重鎮にするのではあるが、この出会いは自転車史にとってやはり興味深いものがある。
その前後、小林は東京バイシクル倶楽部から曲乗り一等賞を得たり、輪友会から数回にわたって妙技賞を授けられたりしているから、事業の多忙な中でも自転車への愛着は絶たれなかったようである。
「自転車界10傑投票」の技術家部門でも第2位に選ばれているのは、自転車技術面でも注目される存在だったのか、機械技術者として著名だったからか、よくわからないが、小林作太郎が電機産業でいかに卓抜した人物であったかは、現在も東芝の鶴見工場内に小林記念室があると知らされて不明を恥じた次第である。
小林は後年も乞われて自転車の妙技を慶応大学の校庭で披露し、観る人を驚かせている。また東芝で社員の自転車遠乗り会ではいつも団長として活躍したという。

季刊「サイクルビジネス」№20 新春号、1985年1月25日、ブリヂストン株式会社発行、「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)