2020年10月19日月曜日

銀輪のわだち その5

 知られざる銀輪のわだち(その5)

三元とその時代周辺

初代鈴木三元のことは、”三元車”の出現によって各方面からしだいに注目をあびてきた。ご覧になった方もあるであろうが、この3月9日から4月1日まで、東京・赤坂の自転車文化センターで『明治自転車文化展』が催され、日の目を見た” 三元車”を中心に数多くのミショー型、オーディナリー型の自転車が展示された。が、やはりメインは鈴木三元の業績を語る展示物であった。
この展覧会には私たちの会も協力団体ということで名を連らね、文献資料を出品したが、三元については熱心な研究者が新しく貴重な資料を発堀して提供され、おかげで三元の輪郭がしだいに明らかになってきたのである。
そればかりか、日本の自転車産業の草創期にはかつて採録した梶野仁之助やこの鈴木三元のほかに、同じ志をもつ人びとが存在したことまでわかってきた。
一つには、前回のべたように五代目三元氏によって初代三元の明治7年から3年にわたる日記が発見され、科学技術史博物館準備委員会の東野氏によってその解読が少しずつ進みはじめたこと、もう一つにはNHKの資料部主査で交通史や生活史の研究者でもある齊藤俊彦氏によって、いくつかの関係ある公文書が発堀されたことである。
以下、それらをもとに、いままでにわかってきたことを紹介してみたい。

一人乗り三元車
左、孫の房次郎(三代目三元)、真ん中
初代鈴木三元(顔が極めて不鮮明)
右の人物は不明、二代目三元か?

四人乗り三元車

ゼンマイの補助動力?
四人乗りの輸送手段も
第二回内国勧業博覧会(明治14年)へ三元が出品したのは、二人乗りの三元車、だけではなかった。二人乗りと一人乗りの二種を出品していた。そればかりではなく、三元は、ここへ出品はしなかったものの、四人乗りの自転車までを製造していて、同年の10月28日に、その発売願書を東京府に提出していたのである。
これらは東京都公文書館所蔵資料の中から齊藤氏が探し当てたもので、一人乗り、二人乗り、四人乗りを全国的に発売したい旨がのべられている。願書はこれらをすべて ”三元車”としているところを見ると、”三元車”とは鈴木三元の発明にかかわるすべての自転車を総称する統一ブランドであるらしい。前回紹介した二人乗りのものは、日記等によると、どうやら、”大河号”と命名していたようである。そして、この発売願書には二つの添付資料がついている。一つは四人乗りの写真であり、もう一つは「新発明、自走三元車」という広告文であって、それは一人乗りから四人乗りまでを発売するというものである。
これより前、明治12年に三元は横浜の石川町に「三元車売捌所」を設けているが、この発明を全国に告知するには、本拠地を東京に置くべきと考えて東京府に願書を出したようだ。
その願書や日記を見ると三元は「自転車」というよりも、人力を労さず、経費をかけず、合理的な交通手段の発明に意をそそいでいたらしい。
「歩輓車 (人力車) ノ甚ダ人力ヲ労シ、国民ヲシテ奴隷ヲ甘セシムル、マタ馬車ノ馬力ヲ誤リ往々良馬ヲ斃ス、マタ蒸汽車ノ鉄路ヲ造リ巨万ノ資ヲ費スニアラザレバ乗ル能ザル等ノ弊害ヲ除キ、冗費ヲ省キ、我三千有余万同胞兄弟ノ便利二供シ、国恩万分ノ一報セント欲ス」と願書にある。
人が人を乗せて走る奴隷的労働に嫌悪感を抱き、国力が豊かでないときに鉄道事業にぼう大な経費がかけられることを案じているあたりに、今日では考えられない明治の地方素封家の姿勢を見ることができる。(三元は福島県随一の資産家であり、後には明治三大銀山の一つであった半田銀山の経営に携わり、きわめて多忙な身であった)。
日記を読むと四人乗りのものにはゼンマイ式の補助駆動装置をも採り入れていたらしく、ゼンマイづくりに奔走している記述が出ており、地元の鍛治職や大工のところへ労を惜しむことなく足を運んでいる風景や、試運転をくり返している情景がうかがえる。
「人力車と並び駈け致し候。八幡より滝川の坂まで参り、なお八幡の鍛冶源蔵殿まで参り、車は一里近くまで登りて帰る首尾よく回り皆皆一同祝い候事」(日記)
願書をもう少し見てみよう。

辛酸ありありと日記に
横浜に売捌所設置の記録
「千心万苦シ、種々ノ車ヲ製シ、シバシバ路上二試ムルニ自在二迅走スル能ハズ、或ハ礫途二破レ、或ハ坂ノ上下二撓ムハ無数、堅固ナル車ヲ製スレバ其機重クシテ軽便ナラズ、此ノ如ク失敗スルコト数十回二及ブモナオ緩怠ノ念ヲ生セズ、世務ヲ捨テ、三昧工夫ヲナスコト明治九年立志ノ初ヨリ本年二至ルマデ、既二六年ノ久シキニ渉ルモ更ニ屈撓スルコトナク、終ニ凸凹峻坂ヲ嫌ハズ、前後左右自由自在ニシテ、一時間三里程ヲ走ルノ良車ヲ発明セリ」

この苦労は許可を得るための誇張や、修飾でもないことは日記の記録で裏づけられる。
この願書は同年11月14日に許可を受けている。この年、横浜の三元車売捌所にはつねに20台の在庫があったこと、そして翌15年の売価は一人乗(並)26円、(上)30円、二人乗(並)30円、(上)35円、四人乗(並)40円、(上)45円であったこと、上と並との差は塗装や金具、幌の仕様が異なる外見上のちがいであることが日記からわかる。
そして明治16年に横浜の売捌所が火災で焼失して再建されたことも記録されているのだが、東京を本拠としての事業はどうなったのか、反響はどうだったのかがよくわからない。
日記の解説は東野氏らによって進行中だが”三元車”のことにはその後あまり触れていないようで、謎はまだ解けていない。

福島県には三元以外に
斎藤、坂口の発明家も
”三元車”が財を傾けての三元の苦労にもかかわらず、結実しなかったと仮定すると、その理由は何か。実は前記の齊藤氏の発堀したものの中に、第二回内国勧業博覧会の審査官である浅見忠雅という人の”三元車”への審査報告書がある。そこではこの発明への高い評価とともに「足が疲れる」ことをあげ「人力車に代って役割りを果すにはこの点を改良しなければ目的を達せない」と指摘しており、追記のようなかたちで、鉄道馬車の有利さをのべている(鉄道馬車はこの翌年、東京で開通)。三元車、が普及しなかったのはこのへんの事情があるのではなかろうか。これは推測に過ぎないが……。
わからないことがもう一つある。三元が明治12年に横浜に売捌所を開いたとすると、これは梶野仁之助と同じ年、同じところで自転車の製造・販売をやっていたことになるが、この両人の間に何らかの交流はあったのであろうか。
いまのところ三元日記からはそれについては何の発見もないようである。交流がないことのほうが不自然に思えるのだが……。
つぎに、今回の『明治自転車文化展』で思いがけない発見は、三元が出品をした第二回内国勧業博覧会に、同じ福島県から三元以外に二人の人物がそれぞれ自転車を出品していた、という事実である。これも齊藤俊彦氏が東京都公文書館の資料の中から探し出したもので、同博覧会の「出品目録」にそれが記録されている。
出品者は、磐城国東白川郡関岡村・斎藤長太郎と、磐城国玉山村・坂口清之進である。
この二人については、いままでの自転車史にまったく名が見えず、福島県の資料にも見当らない(福島県の県資料は火災によってかなり焼失していると聞く)。意外な発見に現在、有志の方がたが資料収集をはじめているが、斎藤長太郎については、安政5年(1858年)生、昭和5年没で、現在の福島県東白河郡矢祭町の出身者であることだけがわかっている。坂口清之進は現いわき市の出身者らしい。
鈴木三元、斎藤長太郎、坂口清之進、なぜかいずれも福島県人である。しかし居住地は相互に遠く離れており連絡があったとは思えないのに、期せずして明治14年に揃って自転車を博覧会へ出品している。そして梶野仁之助はこのときは出品の名が見えず、第三回(明治23年)になって出品をしているのである。
日本の自転車の歴史はこうして少しずつ新しい発見がなされているが、まだまだ不明の部分が多過ぎて、限りなく不透明に近いのも事実。まだまだかなり流動的なのである。

季刊「サイクルビジネス」№17 陽春号、1984年4月25日、ブリヂストン株式会社発行、「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)