この頃の自転車の通史的な資料としては、かなり正確に書かれている。
参考までに全文を掲載する。
日本自転車の由来 一記者
一、自転車輸入の嚆矢
自転車は明治20年前後に始めて輸入したり、其のときは今日の自転車の様に完全なるものにあらず、只ダルマと称する鎖りなく前車大にして、後車は小さき二つの車をつけたり。而して米国より輸入し来りたるものは其不定全なるダルマ比較的歓迎を受け、好評を得自転車流行の端緒開けり。
二、我国自転車製造の始め
故に我国にても自転車を製造せんと苦心し、終りに木製の自転車を拵へるに至れり。而して此自転車は多くは三輪車なれども、たまには四輪車を見たり、是等は20年後間もな<製造したるものにして、元よりダルマを模型として製造したるものなれば、タイヤは勿論、鎖りなどの存することなく、最も不完全なるものなりしものなり。
三、安全車の輸入
それより斬く進歩し、明治24年頃には安全車なる自転車の輸入を見るに至れり、此の安全車には鎖等もあり、略ぼ今日の自転車に類似し、ダルマに比し稍安全なれば、軽快の点は勿論乗り具合ひ甚だよろしく、又便利なる点に於てもダルマの比にあらざりしなり
四、タイヤの輸入
日本に自転車の始めて輸入せしときには、タイヤなるものなかりしなり、然るに英国よりニューマチックシングルタイヤ即ち空気入りタイヤ輸入したりこれまでタイヤの附しある自転車なきを以て其乗り心地甚よろしく、自転車界の一進歩と云ふべし、故に一般乗用者に於てもこれを歓迎せり。
五、自転車製造業
我国の自転車製造に従事せしものは、目下本所菊川町の宮田自転車製造所なり、其の当時は明治25年頃なりしが神奈川に於て梶野なるもの又是を始めたり、其後明治26年頃の本所にて蝙蝠傘製造者森田某なる人自転車の製造に従事せり然るに今日にては神奈川の梶野、本所の森田は其製造を止め、宮田自転車製作所のみ本所に於て増々盛んに製造をなせり、されば今後一層発展すべきなり。
六、西洋人タイヤの修理を依頼す
其当時自転車を用ふるものは、西洋人か或るは洋行帰りの紳士なり、而して其当時は自転車の代価非常に高く殊んど三百円以上なり、故に普通の人士はこれを用いること能わざりき、されば自転車商人の如きは勿論東京に一人もなき有様なり、一日西洋人タイヤのパンクをなしたりとて其の修繕を東京市本所区菊川町宮田工場に依頼せり、然れども宮田工場にても、これが修繕なす能わず、依って工場にてはこれを引き請けたれども、自ら修理をなさずして、これをゴム屋に依頼せり。されどゴム屋にても完全にこれが修理をなすことは、能うところにあらず、故に不完全に其修理をなし、これが代価として金参円を請求せり、それよりパンタの修理は参円と云ふことになり。されど如何にとも仕様なければ安価なりと称して、喜んで其委託をなす。これを今日の進歩せる諸子の頭脳を以てすれば、実に滑稽の感あらむ。
六、西洋人タイヤの修理を依頼す
其当時自転車を用ふるものは、西洋人か或るは洋行帰りの紳士なり、而して其当時は自転車の代価非常に高く殊んど三百円以上なり、故に普通の人士はこれを用いること能わざりき、されば自転車商人の如きは勿論東京に一人もなき有様なり、一日西洋人タイヤのパンクをなしたりとて其の修繕を東京市本所区菊川町宮田工場に依頼せり、然れども宮田工場にても、これが修繕なす能わず、依って工場にてはこれを引き請けたれども、自ら修理をなさずして、これをゴム屋に依頼せり。されどゴム屋にても完全にこれが修理をなすことは、能うところにあらず、故に不完全に其修理をなし、これが代価として金参円を請求せり、それよりパンタの修理は参円と云ふことになり。されど如何にとも仕様なければ安価なりと称して、喜んで其委託をなす。これを今日の進歩せる諸子の頭脳を以てすれば、実に滑稽の感あらむ。
七、其当時の自転車使用の目的
目下我国にては都たると鄙たるとを問わず、自転車と云ば一般に交通に最も便益なるものとし、これを使用するものなり。故に士農工商の区別なく、いやしくも迅速を貴ぶ事業には此自転車を用ひざるはなき有様なり。
然れども最初自転車の輸入当時は、一人の実用的使用者なく、殆んど貴族の遊びものとして、贅沢品となり終れり。それ故実利を喜ぶもの及び富貴ならざるものは、使用を欲するも、価甚高きため其実利ならざるを信じ、これを使用するものなかりしなり
八、自転車使用の例
それ故自転車使用と云へば西洋人か、又は西洋帰りの所謂ハイカラ連中なりしなり。此連中が今日は横浜へ日帰りをせしとか、明日は日光へ行くとか、それ位が自転車の主たる業務なりしなり。然して価格の如きもほとんど三百円以上ばかりにして、実に高価の贅沢品なりしなり
九、宮田工場
前述の本所の森田工場も、神奈川の梶野工場も、宮田工場と同じく自転車を盛んに製造せむとせしが、今日にては森田・梶野の二工場は其業を止め、独り宮田工場のみ本所にて旺んに自転車の製造をなせり
十、日清戦争と自転車
斯くして日清戦争は開かれ、贅沢品は其費用を避くる趣きあり依て日清戦争以前は、多少の使用者を出せしも、開戦と同時に市中に其乗用を見ざるに至れり。而して一面は宮田工場は政府用の御用を命ぜられ、戦時の用品を製造せざるべからず、ために自転車製造の余暇なし、二十七八年より三十四年までは宮田工場に於ても全く全製造を中止し、一般には全く其乗用を中止する有様となれり
この記事について、少し私見を述べると、
一、明治20年前後にダルマ自転車を輸入・・・明治19年に来日したトーマス・スティーブンスの影響で、このころからダルマ自転車が輸入されるようになった。梶野も恐らくコロンビア製のダルマ自転車をアメリカから輸入して、更に自社でも木製のダルマ自転車を製造した。よって、この20年前後に云々という見解は妥当である。
一、明治24年頃に安全車の輸入・・・これも適切な年代である。梶野や大倉組銃砲店などがこの頃からセーフティ型自転車の輸入販売を始めている。
一、明治25年頃から国産製造が始まる・・・これも適切な年代で、梶野、宮田、森田もこの頃から国産車を製造し始めている。
一、文中に森田某とあるが・・・これは東京・本所の森田自転車製造所で、明治28年11月23日付け東京朝日新聞に広告を載せている。明治30年7月24日付け時事新報には、国産自転車、清国へ初輸出 森田自転車製造所とある。
一、パンクの修理の状況についても、当時の現状を適切に現わしている。
以上のようなことで、記事としては短文だが、史実に極めて近く、よくまとめられている。
(明治時代の人が明治期のことを書いているから、当然だと言えなくもないが)