私がサイクリングの途中でよく訪れる店がある。それは、山北町にある「緑茶カフェ茶ぁぼう」である。以前、この店のマスター(日本茶アドバイザーでもある)に古い自転車が写っている写真はないかお伺いしたところ、探してみるといわれた。その後、数日を経て、大正時代の子供用三輪車の写真が3枚、Facebookのメッセンジャーで送られてきた。3人の子供が交代で1台の三輪車に乗っている写真で、この時期の三輪車の写真は珍しい。以前、昭和天皇が幼少期に乗っていたとされる三輪車の写真を思い出す。
その後、マスターに会ったところ、三輪車だけで自転車は無かったと言われた。私は三輪車でも十分満足であった。なぜなら三輪車は日本の自転車史において、最初に登場した自転車だからである。陸船車から始まり、久平次の新製陸舟奔車、春嶽のビラスビイデ独行車、自輪車、そしてラントーン車である。すべて三輪車だ。交通史研究家の齊藤俊彦氏によれば、竹内寅次郎が考案した木製三輪車(ラントーン型)の名前も寅次郎が「自転車」という商品名を付けた。それから自転車という名称が定着し、現代に至っている。
数日たったある日、またマスターから数枚の写真がFacebookのメッセンジャーで届いた。三輪車だけと思っていたら、今度は自転車の写真が送られてきた。
その中の1枚は戦後の写真だが、他の3枚は戦前の写真で、戦時下のものであった。
やはり、旧家であるマスターの家には、古い自転車の写真が残っていた。
武という苗字は三浦半島の武郷からきている。マスターの苗字は武さんといい、山北でも旧家で、鎌倉時代の後期に河村氏とともに秦野の波多野氏がいた領地から恐らく河村氏の家臣として、山北に流れてきた一族で、元は三浦一族である。秦野市の寺山が根拠地である。鎌倉時代に政子の北条氏に追われて、三浦一族であった武 常晴と大津兵部が実朝の首とともに波多野氏をたよって来たという古事が残っている。そして秦野市の寺山に土着した一族である。
明治22年に、横須賀の須軽谷・武・林・太田和の4ヶ村と長井村の飛地が合併して武山村になった。現在は字名で残っている。里山の武山(標高206m)や陸上自衛隊武山駐屯地などがある。
山北町には武という苗字の家が数軒ある。商店街にある武書店もその1軒。
今週の10月11日(日)に、やはりサイクリングの途中で「緑茶カフェ茶ぁぼう」に立ち寄った。その時にマスターが古い写真帳を3冊持ってきてくれた。④~⑦の写真はその中にあった。写真のサイズは小さく、約5㎝角の大きさである。貴重な文化財を見せていただいたような思いがした。
武さんから送られてきた写真は以下のもの、
④一番古い日付が昭和26年3月で一番新しい日付が昭和29年6月でした。他の写真に写っている場所がほとんど山北の家周辺なので、たぶんアイスキャンディーの写真もそうだと思われます。後ろの山も山北の家周辺の山のように見えます。近所のお年寄りに見てもらえば場所が特定できるかもしれません。
武さんから送られてきた写真は以下のもの、
解説は武さんがしてくれた。
①この3枚の写真は、年代も名前も書いてあります。撮影場所については、
祖父自身の書いた記録や戸籍の記録を再確認したところ、最初の転居は昭和二年十一月の沼津でした。父は九月に山北で生まれてすぐに沼津に移ったようです。明治四十年代祖父は八王子や国分寺などで勤務していましたが、山北から通勤していたようです。
ということで、三輪車の伯父たちの、この大正十二年の写真は山北で間違えないようです。
②
③
⑤若者5人が歩いている写真は、同じアルバムの写真から判断すると昭和19年の晩夏~初秋で、茨城の小美玉にあった百里原海軍航空隊周辺だと思われます。海軍にいた伯父たちが、芋買いの帰りで自転車を引いているところのようです。
➅明治節大運動会の自転車競走は昭和14年11月3日です。