2020年10月16日金曜日

銀輪のわだち その4

「知られざる銀輪のわだち」その4

鈴木三元と三輪車
今回の原稿を書くのは少し気が重い。
実は前回、「梶野仁之助の生涯」の原稿を編集部に渡すとき「次は三元車のことを書きましょう」と約束をしていたのである。
三元車については私たち日本自転車史研究会のメンバーの何人かが、一年ほど前から連絡を取り合って資料を集め調べていたから、まだはっきりしない部分はあるものの、未公開の事実が発表できる――と思っての約束であった。
だが、雑誌『サイクルスポーツ』9月号にとつぜん「三元車物語」というのが掲載されたのである。読んでみると、ほぼ私たちのメンバーが調べたことが出ているのだ。どういう経路でその資料が出たのかはすぐにわかった。
何も特別な著作権のあるものではなし、文句をいう筋合いではない。多くの人に「知られざる銀輪のわだち」を知ってもらうための研究会なのだから、どこで発表されようと結構なことなのである。
しかし、メンバーの何人かは、自分たちが苦労して収集した資料が、断わりなく先を越されて使われたことが愉快ではない。「三元車のことはいまさら研究会の機関誌にも載せたくない」ということにさえなってしまった。
とすれば、二番煎じになってもこの誌上で三元車のことを書いておかねばならない。まして編集部へのお約束でもある。
三元車とは何にか?聞きなれないことばだがそれは読み進んでいけばおわかりいただける。
まずは私たちの会と三元車の出合いから話をはじめよう。

「東野氏の三輪車から三元という文字が出た」
昨年夏のはじめ、わが会の顧問でもありクラシック・オートバイの研究家としても著名な、名古屋市の三輪さんから拙宅へ電話があった。
「例の大阪の東野氏の木製自転車だが、手入れをしているうちにフレームにキズのようなものがあり、そのキズが”三元”という字に見える。刻印かもしれない。明治期に三元という名の製造所があったかどうか知らないか?」
というのである。突然だったが一つ思い出したことがあるのでこう答えた。
「鈴木三元という人が明治の初期に自転車を研究していた、という記録を見たことがあります。果してその木製自転車の三元と結びつくかどうかはわかりませんが……」と。そして、私の手持ち資料をコピーして三輪さんへ送った。
この電話にある "大阪の東野氏の木製自転車”について説明しなければなるまい。東野氏はレストラン経営のかたわら、わが国古来の科学機器の収集家であって、伊能忠敬の方位儀、平賀源内の徒歩計などを数多く集めてきた。将来、有志とともに日本科学史博物館をつくろうと設立準備委員会を結成している。
その東野氏が一昨年の夏、山形市で木製の三輪車を発見した。直径70センチの前輪が二、同1メートルの後輪が一つ、フレーム、スポークは木製だが車輪のタイヤに当る部分は鋼板が張ってあり、前輪にはブレーキもついていて、ペダル駆動式である。
これが”東野氏の木製自転車”であり、発見後しばらくしていくつかの新聞でも報じられたからご存知の方もあろう。このことは発見に一役買った日本自転車史研究会顧問、高橋 勇さんによって私たちに知らされていた。だが、この木製三輪車の素性はただ相当に古い、という以上にはわかっていなかった。
三元という字らしいものが見つかったと聞き、私が鈴木三元の名を思い出して三輪さんに送った資料は『ふくしま一世紀』など福島県の郷土史に類するもののコピーで、鈴木三元とはそこに登場してくる素封家の名である。しかし、そのときには、まさかこの木製三輪車が鈴木三元とズバリ結びつくとは思ってもいなかった。

初代 鈴木三元(1814年ー1890年)

二人乗りの「奇器」が走る福島ー東京を二日半
『ふくしま一世紀』にはこう出ている。
「明治14年、上野で開かれた第二回内国勧業博覧会に二人乗りの自転車が登場し、江戸っ子を驚かせた。東北の伊達郡から16才の少年が三日で走ってきたと聞いて二度びっくり、福島から東京まで歩いて半月かかった時代である。この二人乗り自転車の発明者は伊達郡半田村(現桑折町)の鈴木三元で「三元車」として発表した。16才の少年は三元の孫である」また同じく郷土史の『三郷史実』には「三元氏が最初に考案したのは一人乗り三輪車であったが、当時としては破天荒で人はみな、”奇器”と称した。次に二人乗り、四人乗りに改善し、明治9年やや完成し、国見峠において試験をし、さらに改良、同12年初めて福島県庁に出願し、山吉県令より称賛の辞を賜わる。明治14年の第二回内国勧業博覧会への出品には氏と孫の房次郎、抱大工とも四人にて出発、二日半にて上野へ到着。4月25日、皇后陸下の御前で三元父子にて運転し尊覧に供したが陸下よりお言葉を賜る光栄に浴した」とある。
父子とあるが祖父と孫ということであろう。つまり二人乗りの車なのだ。とすると、発見された木製三輪車は一人乗りなのだから、博覧会に出品されたものより古いものというわけだが?
三輪さんから鈴木三元の存在を知らされた東野氏はすぐ福島へ調査の手を伸ばした。またわが会員で福島県の真船さんも調査をはじめた。すると意外にも、桑折町に現在も鈴木三元氏が健在であることがわかった。

イギリスのシンガー社製三輪車 1879年

新発明か否か完成まで10年の証言
つまり鈴木家は代々襲名制で、現・三元氏は五代目、自転車を開発したのは初代三元だったのである。やがて五代目は大阪へ飛び、ご先祖がつくった三輪車と対面――というドラマチックな展開となった。
博覧会へ出品した二人乗りの車がどのようなものか手がかりはないが、発見された三輪車は前述のような構造でペダルを踏むとクランクが後輪を動かす。車輪径こそちがうものの発想自体は上図の1879年製シンガー社製(英国)のものと酷似している。
1879年は明治12年である。新しいものが好きな日本人はこのころ貿易商を通じ自転車を手に入れていた人も多いから、三元はそれらからヒントを得ていたかもしれないし、創作がどうかはまだ何ともいえない。しかし、博覧会へ出品されたという二人乗り車が欧米で見られるのは1880年代以降ではなかったか、明治14年以前にわが国にそれが輸入されたらしい痕跡はまだ見つかっていない。
ただ鈴木家の四代目夫人であったタネさんが家につたわる話として『福島百年の人びと』という本の中で語っている記録には「三元車は完成までに10年以上かかったといわれている。上野の博覧会では大評判で、私の父が当時16才で上野まで走ってたいへん驚異の目で見られたと聞いている」とある。これが事実なら初代三元は明治初年から自転車の研究をしていたことになり、独自の発明とも考えられる。
鈴木三元は文化4年、福島県随一の素封家に生まれ、この研究に巨額の資産を投じ狂人よばわりをされたという。博覧会の時は67才、その9年後に世を去っている。その若々しいエネルギーには脱帽のほかない。

季刊「サイクルビジネス」№16 新春号、1984年1月20日、ブリヂストン株式会社発行、
「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)