2020年10月28日水曜日

銀輪のわだち その11

 「知られざる銀輪のわだち」その11 

「自転車」とはブランド名であった!
製造・命名の始祖、寅次郎

自在車、自輪車から
自転車への名称変遷

自転車とは一般に「座席を持ち、乗員の手足の力により駆動操縦される、軌道によらない車両」と定義づけられている。
英語ではバイシクル、フランス語ではベロシペッドと呼ばれるこの定義の車両を、わが国ではいつ、だれが「自転車」と命名したのであろうか? 海外から渡来するとすぐに「自転車」と呼ばれたわけではなく、それはしばらくいくつかの異なる名称で呼ばれていたのである。
前々回に紹介した慶応元年刊の横浜開港見聞誌では「自輪車」であり、明治7年版の”智恵の環”には「自在車」とある。そのほか多くの錦絵には「壱人車」あるいは「一人車」という説明文がついている。また「乗っきり車」の名称で呼ばれていたことも知られている。
だとすると、そこには「自転車」という今日にいたるまで長く使われ、広く知られる名称を考え出した人が存在しなくてはならない。
このことに早くから着目し、研究をつづけてこられた人がいる。本稿の第6回でもちょっとふれた交通史研究家の齊藤氏である。その研究成果によると、「自転車の命名者は東京府南八丁堀(当時)の彫刻職人・寅次郎(後に竹内姓を名乗る)であって、時に明治3年4月である、という。
さらに、寅次郎はわが国における自転車の製造と販売をもっと早く手がけた人物だ、ともいう。
これがほんとうだとすると、日本自転車史はまた新しく書き直されねばならない。

交通史研究家、齊藤俊彦氏の
ユニークな錦絵の分析

実は齊藤俊彦氏のこの研究について筆者は同氏から早く内容を知らされていたが、氏が学会へ研究結果を発表する以前にはこのことについて言及することを控えざるを得なかったのである。
しかし、それは本年4月”交通史研究”誌上に「日本における自転車の製造・販売の始め一 (竹内) 寅次郎の事跡について」として公表された。もうこのことに触れてもよいと考え、齊藤氏の研究を引用させてもらいながら「自転車」誕生物語をご紹介することにする。
結論から先にいうと「明治三年に、寅次郎という彫刻職人が、外人が乗り回している一人車、壱人車と呼ばれているのと同じ構造の車をみずから製造し、それを独自の名称”自転車”と名づけて販売した」ということになる。
もちろん、これ以前のこととして、からくりや儀右衛門こと初世・田中久重が「明治元年のころ自転車、二輪車に三輪車を製造す」という記録があるが、これは久重の弟子であった川口市太郎が明治24年に記した回想録(智慧鑑)にあるもので、この時にはもう「自転車」が一般名称になっていたのである。久重がそれをつくったとしても「自転車」と呼んだ証拠はない。
そして製造はしたかもしれないが構造は不明の上、販売した形跡も見つからない。
そればかりか、明治3年以前には当時の錦絵などを見ても「自転車」という説明文は出ていないのである。
ここで、寅次郎が「自転車」の名づけ親であり、発明・考案ではなく外国の模倣であるにせよ、日本での製造・販売の始祖であったという証拠と検討は後にして、明治初期の錦絵に描かれた自転車の名称とその周辺の問題を考えてみたい。

「日本における自転車の製造・販売の始め一
 (竹内) 寅次郎の事跡について」より

齊藤氏はこんどの研究でそこから新事実を探し出している。上の表をご覧いただきたい。これは明治3年以後のいわゆる自転車を描き込んだ錦絵の一覧だが、表の註によって、分類を検
討してみると、初期は乗り手が外人である場合は「一人車」、「老人車」という説明がつけられ、日本人である場合は「自転車」と說明されている。明治4年に入ると外人が乗っている場合も「自転車」になる。
前にもふれたが明治以前の錦絵、橋本玉蘭斉の筆になる横浜開港見聞誌では外人のそれが「自輪車」であった。
これを考えると「自在車」、「自輪車」「乗っきり車」などは、来日外人が乗っている輸入車に対して日本人がつけた呼び名であり、それは時を経て「壱人車」、「一人車」に定着したことがうかがえる。そして明治3年以後、日本人が乗っている錦絵が登場し、それが「自転車」と呼ばれている。

明治三年の製造願書を
都の公文書館から発堀

さて、いよいよ明治3年という年に、日本の自転車史に何が起ったのか――という検討に入る。
齊藤俊彦氏はこの研究で東京都公文書館所蔵の”東京府文書”の中に埋もれていたいくつかの関係文書を探し当てた。
明治3年4月29日に、南八丁堀五丁目の寅次郎なる人物が東京府御役所に対して「恐れながら書付けをもって願い上げたてまつり候」という書き出して提出した「自転車製造・販売許可願」がその一つである。
その文中につぎのようにある。
「私どもは自転車と呼ぶ乗りものを考えました。 一人乗り、二人乗りを製造しましたが、交通の便に役立ち、人馬の労も助かると思いますので、販売したいと存じます」
そしてさらに「売るときには一台ずつ焼印を押すようにお定めください。焼印のないものは売買できぬと公布してください。私どもは車一台につき何ほどかの冥加金をお上にお納めしたいと考えております」と商売熱心なところを見せている(願書は現代文に意訳)
この願書に対する東京府の対応についても記録が発見されている。出願を受理した係官は5月に入って上司につぎのような決裁書を提出した。「現物を検査してみたが熟練者でないと走りにくい。したがって一般の者は乗らないだろうから通行人に危害を与えることはないだろう。とくに便利なものとは思えないが、近ごろは外人もこのような車を乗り回しているから許可を与えてもよいのではないかと思う」。
そして間もなく製造・販売許可が申し渡されるのだが、そこには焼印の件は不要、上納金の件は追って通達する、とある。
これがわが国に「自転車」という名称が登場した最初である。そのことは後に東京府が工部省へ提出した届書に「…初メテ三輪ノ自転車ト名付ルモノヲ製造シ…」
とあるのを見てもそれが確認でき、さらにその構造が三輪であったことがわかるのである。

彫刻職人・寅次郎の生涯
明治12年に計画は挫折
下の二つの絵は、明治3年以後の錦絵や挿絵によく見られるものだが、「壱人車」や「一人車」と説明されているものと「自転車」と説明されているものを比較すると、乗り手に差があり、乗りものの構造はほほ同じだが、材質のちがいで「壱人車」は細身、「自転車」は厚手なつくりになっている。


そして、この「自転車」の絵はどの錦絵もまったく同じであり、同一の製造者によってつくられていると推定できる。これはやはり彫刻職人であった寅次郎が、輸入された「壱人車」をコピーし、国産化したと考えていいであろう。
だが、こういう疑問を持つ人もあるかもしれない。「錦絵の一覧表では明治3年4月に”自転車”が描かれていることになっている。許可が下りたのが5月だとすると話の筋が合わない」と。
しかし、出願、許可の前に試作段階でテスト走行もかなりしているはずだから、早くから世間の目に広く触れる機会があったはず、時期的にはきわめて接近している。
少なくとも寅次郎の「自転車」以前に、自転車の名称を持つ車両は、まだ文献の上では皆無である。齊藤氏の研究成果は画期的なものだといっていいだろう。
以上のことからいうと、現在、一般名称となっている「自転車」とは、初期は寅次郎がつくった車両のブランドだったのである。自転車業界は”寅次郎まつり”(?)ぐらいやってしかるべきではないか。これは冗談だが。
鈴木三元、梶野仁之助の以前に自転車へ手をつけた、この寅次郎とはどのような人物だろうか?わかっているのはつぎのようなことである。神奈川県生まれであり、鈴木や梶野のような資産家ではなく職人であること。彼は明治3年から一年の間に「自転車」に関する事業出願を3回しているが、いつも出資者と思われる人物との共同出願であり、転居も多く、時には共同出願者宅の同居人となっていることがあるから生活にはめぐまれなかったらしい。
東京都公文書館に残されている彼の最後の記録は、仙波太郎助なる人物とともに大型の「自転車」で運送事業(貨客運送用)を計画し、出願するが、明治12年3月の東京~高崎間往復テスト走行で成果が上がらず、出願取下げにいたるのである。

錦絵に登場する壱人車
正式名は「ラントン」

ところで、この「自転車」という寅次郎の命名はまったく彼のオリジナルなものかどうか? これについてわが会員の真船氏はつぎのような見解を示している。
それは、こういう車両にはじめて「自転車」という命名をしたのは寅次郎であろうが、「自転車」ということばは車両以外の機械の分野でそれ以前から使われていたのではないかというのである。
真船氏によると「明治四年ごろ、人力によって回転する機械を自転車と呼んでいた可能性がある」とし、洋学史辞典(日蘭学会発行)に、当時「後踏自転車」、「前踏自転車」の名が挙げられており、それは糸をつむぐ繰糸機の名称とされているという。
このあたりはもう少し調べてみたいと思っている。

ラントン車

さて、この「壱人車」、「自転車」の構造だが、錦絵やスケッチ以外にそれを示す資料が長いあいだ見当らなかったが、前記の真船氏が所蔵する1869年ロンドン発行の『ベロシペッド』という本にその絵があり、車名が「ラントン」と名づけられている。また在仏の自転車史研究家・小林恵三氏によると、1863年にイギリスで、翌64年にフランスで特許が得られており、発明者名はジョセフ・グッドマン、当時ロンドンでは人気のあった車種だという。
1864年とはわが国が明治に改元する4年前である。明治初期に「ラントン」がわが国に持ち込まれて当然なのだ。
『ベロシペッド』の説明を読んでも操縦法はいまひとつ不明瞭であるが、足と腕を使って駆動させるものらしい。寅次郎はこれの国産化をはかったのである。

季刊「サイクルビジネス」№22 涼秋号、1985年10月20日、ブリヂストン株式会社発行、「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)