2020年10月4日日曜日

宮田の第1号車(試作車)について

 また、宮田の第1号車(試作車)について、である。

何度も日本自転車史研究会の会報や「自転車の歴史探訪」で宮田の第1号車(試作車)については指摘しているが、いまだに明治23年説がまかり通っている。

2年ぐらいの差はどうでもよいことと言えばそれまでだが、その本の信憑性を下げているように個人的には思っている。梶野仁之助が梶野甚之助等もいまだに散見される。

ささいなことかもしれないが、そのような本は買わないようにしている。おそらくそのような本は殆どが他の本の孫引きやひ孫引きで出来上がっているからである。


再度、宮田の第1号車(試作車)について、掲載する。

この記事は、

●「宮田の第1号(試作車)について」日本自転車史研究会 会報”自轉車”№57 1991年3月15日発行である。

宮田自転車は、創業 100年を記念して昨年記念誌を出版した。自転車業界で一世紀つづいたメーカーは、もちろん宮田が初めてである。
ところで、宮田の第1号車(試作車)については、同社の70年史によると明治23年に製造されたとある。しかし、これについては以前から疑問な点があり、日本自転車史研究会の機関誌の47号で、早くとも26年頃ではないかと推定した。
最近これを裏付ける資料が出てきた。名古屋の三輪氏が所蔵する本の中に『宮田栄助追悼録』があり、この本は、二代目栄助が亡くなった昭和7年に発行されたもので、当時故人と深く係わりあいのあった人々が、彼を偲び、いろいろと思い出を綴っている。またこの本の巻頭部分には、工場や栄助の在りし日の写真、それに例の70年史に掲載された試作車の写真もでてくる。
この写真の説明書きには「英式自転車 明治25年製銃所に初めて試作せした自転車 サドル、鋼球、スポーク等総て工場製品にしてタイヤーのみ三田土ゴム工場より買入れしものなり」とある。
同じ写真でありながらそれがどういう訳か70年史では、「初めて試作した自転車 明治23年製銃所時代に試作した自転車でサドル、鋼球、スポーク等すべて自製品、タイヤはソリッドの丸タイヤを使用」となり、明らかに矛盾している。
どう言う理由で70年史は説明書きを変えたのであろうか、一般的に考えられることは、1~2年でも創業を古く伝えることによって、自転車業界の老舗ということを強調することである。あるいはこのような意図的な理由はなく編者の単なるミスなのか、いずれにしても不可解である。それに70年史の編集後記に「・・・・手近かな資料としては宮田栄助追悼録 (二代目栄助の一周忌に宮田栄太郎が上梓)と社内発行の所報、ミヤタニュースだけで、その他は新聞社の年鑑、産業沿革史、業界紙、地方業界団体の刊行物等を参照致しました。」とあり、これでは、追悼録と70年史をすぐ対照すれば、わかってしまう。
いづれにしても、追悼録は昭和7年の発行であることからも、この試作車は明治23年ではなく、明治25年ということになる。これによって宮田の創業も2年遅くなる。
しかし、この追悼録の写真にしてもはたして明治25年の試作車であるか、疑問がないわけではない。
まず第一点は、英式自転車とあることで、我々が基本的に考えるところでは、日本に最初に影響を与えた自転車は米車であるからだ。宮田は、明治35年に米国製クリーブランド号 103型をモデルに、アサヒ号を作っている。
だが、英車が当時日本に入っていなかったとは断定できないので、これを最終的に結論づけることはむずかしい。この試作車のモデルとなった、英車か米車を探す必要がある。
それからもう一点は、機関誌の第49号で指摘したタイヤである。この写真の説明書きでは、三田土ゴム工場より買入れたとあるが、この時期三田土ゴムはこのようなタイヤを既に製造していたかである。概略的に知るところではろでは、当時まだ三田土は空気入りタイヤは製造しておらず、仮に製造していたとしてもそれは丸タイヤ(ソリッド)であったと思われる。
空気入りタイヤが輸入されたのは、明治26年頃であるから、この記述もおかしいことになる。
やはり、機関誌47号で述べたように早くとも明治26年ということになりそうである。明治27年8月2日付の東京日日新聞の「自転車製造起業1周年祝」の広告、及び同じく東京日日新聞の明治26年9月17日付の広告などからもその辺を裏付けることができよう。

参考資料:宮田栄助追悼録 昭和7年9月9日発行(非売品)
宮田製作所70年史 昭和34年4月1日発行
機関誌『自転車』47号 1989年7月15日発行
機関誌『自転車』50号、1990年1月15日発行
資料協力:三輪健治、齊藤俊彦、高橋 勇、須賀繁雄氏

『宮田栄助追悼録』の写真
1932年(昭和7)発行

『宮田製作所七十年史』1959年(昭和34)発行
宮田製作所七十年史編纂委員会編纂


ついでに、「自転車の歴史探訪」の記事も掲載する。殆ど内容は同じである。

自転車の歴史探訪
 
宮田の試作第1号車

 明治20年代に発生した自転車メーカーのうち現在まで唯一残っているのは宮田自転車だけである。創業は明治26年8月で、翌年の新聞広告に起業一周年の広告を出している。明治27年8月2日付けの東京朝日新聞には、次のように載っている。

 自転車製造起業一周年祝
 弊所義自転車製造起業以来日尚ほ浅きにも拘はらず非常の高評を博し難有奉鳴謝候就ては本月を以て起業一周年に相当致し候間為御禮五十輌を限り特別大勉強にて価格の等級に依り相当の付属品相添へ可申候大方諸君此の期を失せず陸続御申込あらん事を乞ふ
 但し御申期限は来る八月十五日限りとす
 本所区菊川町二丁目五十二番地
 猟銃自転車製造所 宮田栄助


 この写真(上掲)は「初めて試作した自転車 明治23年製銃所時代に試作した自転車でサドル、鋼球、スポーク等すべて自製品。タイヤはソリッドの丸タイヤを使用」と『宮田製作所七十年史』にある
 宮田の試作車については、いつのまにか明治23年が通説となり、例外なく上の写真が添えられている。この原因は、1959年に同社の宮田製作所七十年史編纂委員会編纂の『宮田製作所七十年史』の影響である。しかし、これについては以前から疑問に思っていた。日本自転車史研究会の会報”自轉車”№47(1989年7月15日発行)で私は、次のように指摘した。

 今年(1989年)の4月でミヤタ自転車は一世紀を迎えた。明治23年(1890年)東京、本所菊川町で初めて安全型自転車の試作に成功。以来、100年続いた訳である。勿論自転車業界では唯一である。日本国内の他の製造業でも100年も続いている企業は少ない。
 ところで、以前からちょっと気になることがある。それは、ミヤタが初めて試作した自転車の写真である。よく見ると明治23年に試作した自転車にしては随分洗練されているからである。特にタイヤなどは空気入りを思わせる。写真の注書きには、ソリッドの丸タイヤを使用となっているが、ソリッドにしては随分太く感じられる。サドルもなかなかモダンである。恐らく推測だが、これは早くとも明治26年頃のものではなかろうか。明治27年の新聞広告(東京朝日、明.27.8.2付)では、自転車製造起業を明治26年としている。

 この記述の後、これを裏付ける資料があることが分かったのである。その資料とは『宮田栄助追悼録』であり、この本は、二代目栄助が亡くなった昭和7年に発行されている。当時、故人と深く係わりあいのあった人々が、彼を偲び、いろいろと思い出を綴っている。またこの本の巻頭部分には、工場や二代目栄助の在りし日の写真、それに、例の七十年史に掲載されている試作車のまったく同じ写真もある。そしてこの写真の説明書きには「英式自転車 明治25年製銃所時代に試作した自転車でサドル、鋼球、スポーク等すべて自製品にしてタイヤーのみ三田土ゴム工場より買入れしものなり」とある。

 同じ写真でありながらそれがどう言う訳か七十年史では「初めて試作した自転車 明治23年製銃所時代に試作した自転車でサドル、鋼球、スポーク等すべて自製品。タイヤはソリッドの丸タイヤを使用」となり、明らかに矛盾している。どういう理由で宮田製作所七十年史編纂委員会は、この説明書き変えたのであろうか。一般的に考えられることは、1~2年でも創業を古く伝えることによって、自転車の老舗ということを強調することであるが、これでは改ざんということになってしまう。あるいは、そのような意図的な理由なく、たんなるミスプリントなのかもしれない。何れにしても不可解である。

 更に信憑性の高い、資料として当時の自転車雑誌『輪友』第6号、明治35年4月4日発行に「宮田工場主宮田栄助氏の談話」がある。二代目栄助本人から記者が直接聞いて記述しているので、先の『宮田栄助追悼録』よりも確かである。それを箇所書きにすると次のようになる。

●本所区菊川町二丁目52番地に猟銃製造の工場を建てたのは明治23年4月であった。

●明治26年に猟銃をつくる傍ら自転車を1台つくりかけたが、出来上がらない内に明治27年になった。

●日清戦争が始まると陸海軍から大量の鉄砲の注文があった。戦後も猟銃が非常に売れた。1ヶ月400挺もつくるそばから売れたが、明治34年の狩猟法改正により売れ行きが止まった。

●そこで10月から自転車製造を始めた。明治35年1月に1台見本品をつくり、その自転車を戸山学校の梅津大尉に試乗してもらった。

●タイヤ、リム、スポーク、ボールの4品はまだ外国製を使っていた。その他は全部私の工場で製造することが出来るようになった。

●パイプは銃の製造と同様繰りぬいてつくっていた。

●唯一難しいのはチェーンであった。評判の良かったクリーブランドのチェーンを見本に真似てつくった。

●スポークもボールもそのうちつくるつもりである。タイヤは一種独特のもので、既に東亜護謨会社で研究中である。

●今のところまだ1ヶ月に20台~30台しか製造できない。

 この談話から推察すると、初めての試作車を製造したのは、どうやら明治25年よりも更に遅くなりそうである。談話を100%採用すると、この写真にある試作車は明治35年1月ということになる。それから、タイヤ、リム、スポーク、ボール(鋼球)なども輸入品を使用したようである。「サドル、鋼球、スポーク等すべて自製品」という説明書きも怪しくなる。