2021年2月28日日曜日

1990年世界選手権

 書類を整理していたら1990年の世界選手権自転車競技大会の資料が出てきた。

いくつか紹介する。

既にこの大会から30年が過ぎた。
1990年9月2日に行われたプロ個人ロードレースを観戦するため現地を訪れた。スタート地点から離れた場所に陣取り、選手が来るのを待つ。本来なら急坂がある場所に移動して観戦したいところであるが、現地到着時間が遅れたため無理であった。残念ながら平坦路の場所で見ることになった。したがって、通過して行く選手のスピードが速く、撮影したほとんどの写真はピンボケであった。
お目当てのグレッグ・レモン選手も集団の中にいて、はっきりと確認できなかった。
日本人選手も奮闘したが、結果は最高が三浦恭資の51位で、森幸春は3周目でリタイヤしてしまった。
優勝はベルギーのルディー・ダーネンスで、タイムは6時間51分59秒の記録であった。グレッグ・レモンは4位に終わる。

日本人選手の活躍は全般的に期待外れであったが、グリーンドーム前橋で行われたアマチュア・タンデムで稲村成浩、齋藤登志信組が銀メダルを獲得したのが唯一大きな成果であった。


男子プロ個人ロードレース出場選手リスト

1990年9月2日、宇都宮周回コース 261Km

トラック競技が行われたグリーンドーム前橋
1990年8月25日撮影

2021年2月27日土曜日

松本自転車店

 松本自転車店へは、昭和58年に尋ねている。この時は既に自転車店は廃業していて、自転車店の面影はなかった。しかし、梶野仁之助の姻戚関係であった、松本春之輔氏にはお会いでき、仁之助にまつわるいろいろな話や貴重な資料を見せていただいた。

私より10年以上前にこの松本自転車店を訪ねて取材した人がいた。それは『神奈川のれん物語』の著者である田島 武氏である。この『神奈川のれん物語』は昭和45年~46年にかけて神奈川新聞に連載されたもので、その後、それをまとめて昭和47年に本として出版した。

その本の松本自転車店の部分をみると次のようにある。

自転車屋の草分け

松本自転車店<横浜>

空の青さを車輪に映しペタルを踏めば白い道 君の真赤なポロシャツが花びらみたいに飛んでいく……
という軽快なリズムの歌がある。これは昭和四十二年につくられた自転車産業振興協会選定歌だ。
 わが国の自転車業は神奈川県の歴史とともに走りつづけてきたといってもよい。しかし、そのスタートから歌の文句のように快適に突っ走ったわけではなかった。
 自転車業の幕開きは、西南戦争がおきた明治十年、横浜の港近くに輸入自転車の修繕所が開かれたことに始まる。そして、わが国初の国産自転車第一号が誕生したのもこの神奈川県で、その製作者が松本自転車店主・松本春之輔さんの先々代に当たる梶野仁之助である。
 仁之助は安政三年(一八五六)三月、現在の津久井郡津久井町に生まれた。物心がつくと、同地のしょうゆ醸造業の梶野敬之方に丁稚(でっち)奉公としてはいる。
彼は、細密な人であったらしく、機械いじりに興味を持っていた。十五歳のとき、店のしょうゆだるの木片を利用して、今の自転車と同じような木製自転車をつくったという。ひと昔前の中学生たちが部品を買い集めて、ラジオづくりに没頭したようなものだろう。 ほどなく”走る銀輪”にひかれてか、志を立て横浜へ。そして、灯台局に仕上げ職工となり、腕をみがく。小まめに働いたかいがあって、二十歳のとき蓬莱町四ノ三六に職工十二人を使う工場をつくった。
 そのころのアメリカ車の型をまねて、リム、ハンドルをはじめオール部品を自ら製作し、純粋な国産車を作り、あげて、これに「全日本号」「銀日本号」と名づけた。明治十年のことである。だが、満足の機械、道具もなかったころのこと、部品を一つ一つつくりあげるということは大変だった。たとえばスポークのニップルにみぞをつけるのに、一々ロク口で穴をあけ、タップでネジを切ったり、クランクの修理も、堅くて折れる心配があるので、フイ
ゴで赤めてなおしたりするなど大変な手間であった。
 翌年の明治十一年になると、有力な後援者が現われて事業を拡充することになり、高島町五ノ十に工場を移転し、一大自転車工場をつくった。明治十五年ごろには五、六十台を製造する設備と能力を誇ったものである。
やがて、彼はチェーン駆動の自転車(安全車)の試作にとりかかり、同二十二年度で開かれた勧業博覧会に出品して「有功三等賞」を受けた。この写真は、いまも彼のおいが継いだ松本自転車店 (松本次郎吉、現在はその子の春之輔さん)の店内にある。
 仁之助のすぐれた技術と製品は、その耐久力の強さとともに陸軍の嘱望するところとなり、陸軍御用商人としてその工場は陸軍の指定工場となる。そして憲兵隊、陸軍省、陸軍戸山学校などに納入することとなり、明治二十八年五月には当時の県知事中野健明から木杯一個を下賜された。
 これをきっかけに仁之助の事業はますます発展し、明治三十年ごろにはその製品は遠くロシア、アメリカなど、海外にまで進出するようになった。そのころ閑院宮載仁殿下がフランスから軍用縮折自転車を購入して帰国され、これを見本としてつくるように陸軍省から下命があった。彼は日夜研究苦心の末、ついに舶来品を上回るほどの立派な自転車を考案製作したものだ。同三十五年、仁之助は同業者を代表してアメリカ・ワシントンに行きアメリカ自転車発明銀婚式に参列する栄冠を得た。
 晩年他の事業をおこしたが、自転車ほど芽が出ず、昭和十七年八月、八十七歳の長命を完うした。南方戦線で、”銀輪部隊"が大いに活躍したころだった。
 次は仁之助のおい、松本次郎吉で、現当主は三代目の松本春之輔さん、六十一歳。
 自転車は、交通事情の悪化で安心して乗れない。そこに伸び悩みがあるわけだ。これからは自転車のほかに、オートバイ、軽四輪車などの修理をしながら、店を維持していくよりほかはない。

昭和47年6月20日発行『神奈川のれん物語 神奈川の老舗100店』田島 武著(昭和書院)

註、この記事をあらためて読むと、2,3異なるところがあるが、おおむね私が直接、松本春之輔氏からお聞きしたことと一致している。

主な異なる箇所
梶野敬之 → 梶野敬三
「全日本号」 → 「金日本号」
明治十年のことである → 明治12年の創業
明治22年に「有功三等賞」 →明治28年に「有功三等賞」を受賞

松本自転車店
『神奈川のれん物語』より

2021年2月26日金曜日

自轉車富士登山に就て

 以下の記事は雑誌「輪友」第1号 15頁 明治34年10月28日発行より

自轉車富士登山に就て

 本年は石川商会の連中が富士登山を試みられたが其率先者たる「ボオン」氏と鶴田氏の実験談を其時函根で両氏に出会って聞いたままにお話しましょう。

 先づ御殿場を發して登山に就た、所が合目(二合目か?)で暴風雨に遭った、絶頂に往つたのは丁度二日目のことであったさうだ。勿論往きには誰も乗昇することが出來ないので、合力に自轉車を担がして、登山したさうである。さて降りる段になって、ボオンの考案に成った彼の左官が土を捏ねるやうな舟、あのやうな物を持って往って(其の大きさは三尺四方丁度畳半畳敷位)それをどういう工合に使ったかと云ふに、何しろ彼等が降りたのは七合目からで、例の砂走りと云ふ所を降るのであるから、自轉車だけでは速力が早過ぎて、どうしても降下することが出来ない、そこで例の舟の上に、持って往った自分達の荷物を一杯載っけて、それへ綱を附けて、それを自轉車に結付ける。詰まり自轉車が、その舟の綱曳をするのである、其の時に鶴田はデートン、ボオンはクリーブランドに乗って居った、モウ一人同行の西洋人(デビン)があったが、其人が持って往った寫眞器で、寫撮った十数枚の写真が、同人から私の手許に贈越されてあるからして、孰れ其のうち、諸君に御覧に入れることに仕様と思ふ、デ登山の稽古をするには、どうしても前に話したやうな舟を持って往って、帰りには其の舟の上に荷物を載せて、そいつを自轉車で曳いて降りて来るのが、一番好い工風であると考へる。それからブレーキの付いた車が一番宜いやうである。其の時に鶴田がブレーキ無しで降りて来た所が、どうしても車が止められないので、己むを得ずサドルから尻を放して、自分の尻でタイヤヘブレーキを掛けて降りた。所がズボンも、厚い下着も破れて仕舞って、尻が出るという始末、それから彼等は御殿場から山伝ひに函根の小地獄(小涌谷か)を経て蘆の湯へ來た、其處で丁度私に会ったのです、話を聞いて見ると、随分登山中風雨の困難はヒドかったさうです。尚今年あたりもボオンが先達になって、自轉車講というものを造って、登山すると云う話は聞いて居ったが、ボオンは病気か何かの為にオジャンになったらしい。此時の寫真は昨年私が米國に往った時分に、始終外國人に見せて話をしたが、大分皆驚いて居つた様である。

富士山ダウンヒル
明治33年8月21日
「私は自分のクリーブランド号に乗り、
デビンは小橇(そり)に乗った」
(ヴォーガン紀行文より)

註、この富士山で撮影された写真は、以前に前田工業の河合淳三社長(故人)がアメリカから持ち帰り、下記の新聞や雑誌で紹介され、話題を呼んだ。

昭和56年5月号の「サイクルスポーツ」誌(八重洲出版)
昭和60年4月18日付の朝日新聞

しかし、この記事を読むと、既に明治34年には写真を撮ったデビンから十数枚の写真が送られてきたとある。この記事の筆者は記入されていない。誰なのか「輪友」の編集者の關巌二郎(関 如来)か?
明治34年の双輪商会の広告にもその写真の一部が使われている。

明治34年11月25日の『輪友』第2号51頁
双輪商会の広告

2021年2月25日木曜日

日本に於ける自轉車の沿革

明治34年10月28日発行「輪友」第1号に興味ある記事があったので、以下に紹介する。

 森村兄弟が初めてダルマ自転車で旅行した話や、その自転車のメーカーが米国シカゴのゴーマリー、アンド、ジェフリー社(Gormully & Jeffery) であったこと、鶴田勝三選手が横浜のクリケット俱樂部などのレースで活躍したことなどが明治期の小史として簡潔にまとめられている。

 日本に於ける自轉車の沿革

某 生

 日本に於ける自轉車の沿革と云ふやうなことに就て、私に話をしろと云うことですが、私は其の事に就ては余り詳しく知りませぬから、友人の森村開作君に依頼して、氏の日記中耳新らしい節だけを、お話することに致しませう。

 自轉車の日本に初めて輸入されたのは、勿論日本人がしたので、時は明治十四年、矢野次郎、中村康興、森村市右衛門の三氏が、初めて英国製の三輪車、皆さん御承知の背後に二つ車があって、前に一つ車のある、腰懸けがあって、詰まり椅子に腰を懸けて脚を動かして居るやうなのであります。それで其後例の森村開作君及び同君の亡兄などが稽古をしたのは、明治十九年の頃でしたようです。其時分には今の安全車と云ふやうな物は無くて、木製のガタクリ自轉車でありました。夫から俗に一輪半という前輪の非常に大きいやつもあつたのです。
それで其の時分に 神田の秋葉の原今の鉄道敷地になって居る所に、三軒貸自轉車屋があった、勿論これとても木製の自轉車と例の一輪半と云ふやつばかりでした。只今神田の一ッ橋外に自轉車屋をして居る吉村といふは其の頃秋葉の原に居ッた一人です。例の森村開作君などが稽古をした時分には、教える人もなければ又理屈も知らないので、殆ど十日間程かかって漸く乗ることが出来たと云ふ話です。今なら三日間位で出來るのに。
 それから其の時分に土曜とか日曜とか云ふ日には、能く函根其他鎌倉等へ遠乗りをされたさうです、共日記の中に書いてあるのに、函根の湯本に、森村開作君と其の亡兄明六君、それから大倉和親君、今の日本橋の大倉商會の息子さんです。其の三君で土曜日の正午に東京を發し、国府津で日の暮れ方になって、それから鐵道馬車に乗って、湯本まで行き、一泊して翌日曜日は早朝に湯本を立って、江ノ島で昼食をして東京へ帰って來られた。是等の人々が長距離の旅行をしたのは明治二十六年の五月だったさうです。自轉車は例の高いやつで、米国シカゴ、ゴマリー、アンド、ヂャフリー会社製で、今日なら古物展覧会へでも出るやうな品であったそうです。それで明治二十六年の五月十日に、高輪の八ッ山下を發して藤沢まで行ったそうですが、雨の降るのでやむを得ず汽車に乗って、名古屋まで往き、十三日に名古屋を發して大山に泊り、十四日に石山寺で開帳などを見物して居つた所が、友人に出會ったのでそれから汽車に乗って京都に往くことにした。是は皆な自轉車旅行というよりは寧ろ汽車旅行でありました。併ながら帰りは殆どぶっとうしに自轉車旅行をされたので、五月二十三日に神戸を発し、其の晩は京都に泊り、翌二十四日に京都を發して参宮街道の木樟駅(樟葉駅?)に泊り、廿五日には雨天であったので一行は各々番傘をさしかざいして乘りながら、伊勢の内宮外宮を見物して二見ヶ浦に泊り、二十六日は暴風雨で早朝出發するここが出來ず、午後小降りになるのを待って漸く出發、二里あまりで宮川に出た所が川止であったので、已むを得ず其の處に泊り、二十七日は快晴なので朝六時半に出發して、夕の六時四十分に , 鳴海について其の處に一泊、二十八日は浜松、二十九日は興津、三十日は函根の湯本に泊った。函根を上下するの時、何しろ例の高い一輪半でありますから、それを持ち運ぶのに非常に困難を極めたそうで、三十一日に湯本を發し、江の島で昼食をして、東京に帰られたそうです。

是等は随分今日の自轉車乗りを偉若せしむる程の旅行であったと思ひます。それから其の次に我々の眼に映じたので、自轉車を実用に供して居られたのは、築地のゼームスサンマー氏である。同氏が慶應義塾に毎日通ふて行かれるのに、安全車に乗って居られました。是はモウ今日の安全自轉車と同じ物ですが、唯タイヤが空気入りでなかっただけで、この時分より漸く空気入りタイヤーが輸入されて、例の一ッ橋の吉村の店などでチョイチョイ見受けるやうになった。其の頃吉村へ来る人のうちで、自轉車乗りの一隊が組織されてあって、今の建物会社の木村粂市氏などが、餓鬼大将になって、王子の瀧の川などへ遠乗りをされた、それがそも今日の大日本双輪倶楽部の起りなのであります。其後に二六新報社の秋山氏などが乘るやうになつて、追々と今日の如き流行を見るやうになったと思ひます。

挿絵の一部

 初めて自轉車俱樂部と云うものが出來たのは、明治二十九年の十一月の天長節に、今の双輪倶楽部の元老達、即ち名前を挙げて言ふと、秋山、佐藤、玉置、脇屋、米津、三浦、加藤木、日比谷、小林作、鶴田、吉田、などと云う連中が、横浜の日本バイシクル倶楽部、是は西洋人と日本人との自轉車倶楽部で、横浜のクリケット俱樂部の中に立つて居るので、其の倶楽部の会員は、凡そ三十人程あった。之を招待して、俱に神田の濱田自転車店の所から、向島の小松園へ遠乗りをして、彼處で昼食の饗応に神楽か何かの余興があつたのが、そもそも団体の遠乗りの一番初めで、それが本となって今日の双輪倶楽部が出来た。それで其時分には重に、クリーブランド、デートン、クレセント、コロンビャ、ストーマ、アメリカ ン トラベラーと云やうな車が來て居つた。そこで日本人が自轉車の競争をしたのは、其の翌年の春でしたか或は亞利米加獨立祭の時でしたか、ドッチかであったと思ふが、初て鶴田君が横浜のクリケット俱樂部のトラックで競争をしたのが抑々初めで、其の時分に横浜には、スコット、ベーン、ビーメーソン、アーウィン兄弟、ストラッセル、是等の人が自轉車のチャンピョンであッた。其のうちでスコットにべーンの二人が何時でも頭角を争って居つた、それで三十年の秋のレースに鶴田君が出て二等賞か何かを取ったのが一番初めであったと思ふ。其の時のレースに横浜の四十二番館主からデートンの競走車を一台賞品として出した其のレースに、スコットとべーンの二人がフィニッシュラインで衝突して、何方が先に這入つたか大変な悶着が出来た。それから間も無くべーンは帰国することになって本國へ帰って仕舞った。三十一年の秋に上野の不忍地畔を借りて、双輪俱樂部で競争会をしたのが、日本人の自轉車競争会をしたのが一番初めで、其のレースに鶴田君が二十哩競争で非常な評判を取った。其の時に乗った車はクレセントの確かレーサーだつたと思ふ。

 それから三十二年の春のレースにまたビーメーソン兄弟、スコット、鶴田の四人が二十哩の競争を不忍畔でやつた。その時も非常な勢いで鶴田が勝つた。その後横浜のレースに於てアーウィンに勝ちボーンに勝ちしたので鶴田君は非常に名声を挙げることになった。それから其の時分に小野寺正一郎と云ふのが鶴田に続いての日本人中の選手であつたが、此人は始終車の故障などで、思はしき結果を得ることが出來なかった。デ最も自轉車の流行を仕初めたのは、三十二年の秋からッィ一兩年のうちに、此んなに盛大になって来たのである。それから大阪にも丗二年の頃から石井といふチャンピョンが現はれて来て、既に東西聯合の大競争をやったのが、今年の春のレースであった。その時の競争には例の中務と鶴田の二人が大阪に赴いて競争をした。其後鶴田はモウ競争に出るのをよすつもりで居るので、その後釜を見付けて居る時に、遂に選定されたのは中務である。中務は僅か半年そこらの間に、津田と鶴田の二人が熱心に教えた丈あって、東西のチャンピョンの一人と立派に成上つて仕舞った。何づれ来る十一月には石井と中務の競争があるだろう。その結果で何方が強勇か判然とするであろうが、今の所では何方がドウと云ふことも出来ないが。
 デ余り競争する人のことばかりしゃべって仕舞ったが、皆さんも御承知の通り、彼のブラックと云う亞米利加人が来てから、自轉車の曲乗りが非常に流行をして、此頃では日本人のうちでも小林作太郎氏などはなかなか彼にも負けぬ程の技量を練習せられた。先づザット自轉車の履歴は此位にして、是から後は一々其の人達のことに就いて、お話をすることにしましょう。

明治34年10月28日発行「輪友」第1号より

2021年2月24日水曜日

鳴呼無銭旅行

 先の自転車無銭世界旅行者中村春吉氏直話については、当時でも賛否両論があり、雑誌「輪友」にも次のような投稿がある。

●無銭旅行の輪客に付いて、 吉田眞太郎
明治35年2月13日発行「輪友」第4号 21頁~26頁

●鳴呼無銭旅行、松田歴山
明治35年2月13日発行「輪友」第4号 27頁~29頁

その一つ松田歴山の「鳴呼無銭旅行」を以下に紹介する。
かなり手厳しいことが書いてある。

鳴呼無銭旅行

 松田歴山

 牛の角に休んだ蚊が御邪魔だろうと云って、牛に笑はれた話がイソップにある。吾自身をあまり大きく見る人は世間に多い。自己の天職を果し當分の義務を盡すのはいいが、さればとて世間で要求もせぬのに、猥りに御膳を拵へられるには実に迷惑する。
 僕は紳士中村春吉君を謗るのではない。只自分の感じた儘を告白するのです。
 君は須らく左の三項を再考せんければならね。

一、社会は予の此行を必要とするや?
二、吾の社会より受くるものに對し吾は此旅行によって得たるサムシングを以て報ゆるを得るや?
三、社會人心に及ぼす結果如何。

 社會も要求せず、自分に何等報酬の見込も立ち兼ねるのに、彼處此處で食い倒し、貰ひッ放しにされては相手になるものが堪りません。
 無銭旅行、云ひ換ゆれば乞食旅行だ。已に紳士として好ましくない事だ。
風俗視察よろしい。語学研究大によろしい。以て世を利せんとす。至極よろしい。而し夫程の御決心があるならば、何故金を作ってから御出掛にはならなかったのです。或る小說家が乞食貧民などの真相を書かんが為にした無銭旅行とは大きな相違が其間にあります。

「天は吾に金を與へずして、風俗視察語學研究をせよとインスパイアした」と仰しやろうが、而し考へて下さい。何も無銭旅行をしてとの神様の御命令ではありますまい。私は社會が貴君の此行を要求せねとは云はぬが、御自分でも要求するとは云へますまい。こんな事は徒然草にある通り、大凡せぬがよいのです。矢鱈と膳を据へられると、客が飛んだ迷惑をします。
又貴君のやうな方が出て、無銭々々と騒ぎ立てると、若い者は無銭旅行と云ふ名さへ付けば、社會ではロハで其需要物を給する義務があるかの如く考へ違って、吾も無銭、彼も無銭と、徒歩や、自転車へ乗ってなら、何百里の旅でも、一文無して出来る気になって困ります。教育者の員に加はってたる人は此位の事は御考へ下さらなくては困ります。
本誌で貴君の直話を読みまして、勇気の程実に感じ入りました。而し如何に他の好意を無にする恐があればとて、そこここで、第一等の旅館へ泊ったり、福住なんかへ、只泊めてくれなんかとよく云って行けました。僕等のやうな、馬鹿正直なものはとてもそんな勇氣は出ません。京都の輪友に銭を出さして、上等旅館へ泊り込んで、四日市警察で宿銭を辞した君は之であっぱれ無銭旅行の積りですか?無銭旅行の定義も亦六ヶしくなつて来ます。天竜川の渡守も随分分からず家の無情漢だが、而し橋銭を払わずに、ツーと其儘とは教育者たる紳士としは如何はしい次第であった。

 仄に承はれば、御乗車はあまり精選した者ではないとの事です。何故ですかベルやポンプが三日と経たぬに壊れるとは、世界周遊せうとも云ふ人の用意とは思われぬです。噂に聞けば何処でも何かうまい事があれば、其處へ車を留める積りだとの事てすが、それでは風俗云々でも語学云々でもなくなります。つまり真面目になつて、世話をして上げた方々がいい馬鹿を見る事になります。同好の輪友は關はんです。まァいいとしなければならんのてすが縁も縁故もない宿屋なんかへは実に気の毒です。失敬てすが、若し上述三件に就て大なる確信と大なる決心がないならば、一日も早く此挙を中止せられん事を望みます 。Farewell,my pear 


2021年2月23日火曜日

栃木中学校発火演習

栃木中学校発火演習記念絵葉書

 下の絵葉書は栃木中学校(現、栃木高校)の発火演習記念(大正期)のものである。なぜ栃木中学校発火演習関係の絵葉書が多く巷に出ているのか、定かではない。おそらく当時、栃木中学校と陸軍が共同で演習をしたことによるもので、葉書にも統監部という文字が見える。この学校は伝統的にも陸軍との関係が深く、或は軍人の養成所のような役割を担っていた可能性もある。
現在でも周辺には自衛隊の駐屯地などが点在する。

 栃木中学校は歴史も古く明治29年の創立である。
明治32年には、明治天皇が近衛師団演習を天覧し、この学校を臨時の行在所とした。また大正7年の陸軍特別大演習では大正天皇も行幸している。
そのようなことから、この絵葉書にあるような発火演習がたびたび行われたようである。自転車がこの演習でも伝令役などに利用された。このような軍事教練も授業の一環であったと思われる。

 確か明治25年の宇都宮での陸軍大演習に初めて自転車が登場し、伝令用としての利用されている。

①大正11年11月24日 栃木中学校発火大演習
大宮村にて

②場所と年月日は不詳

③大正6年12月1日 国府村南校付近

大正8年 発火演習記念

⑤大正9年11月19日 校門から演習地に向かう

➅現在の県立栃木高校正門
当時の面影を残している
Googleストリートビューより

2021年2月22日月曜日

三越の自転車隊

 下の絵葉書は三越の自転車隊、メッセンジャーボーイである。

 三越が明治後期に始めた新しいサービスで、顧客の買った商品を配達するというもの。昨今のコロナ禍でデリバリーサービスが当たり前のようになっているが、明治40年頃の自転車を使ってのこの配達サービスは、日本では新しい試みであった。

 制服制帽、白塗りの自転車、ざっと数えても整列している自転車は50台を超える。自転車のフレームをよく見ると、一見ミキスト型のような形状であるが、よく見るとトップチューブも前下がりに付いていてトラス構造のようになっている。フレームを堅牢にしていることが分かる。余計なものを取り付けていないところを見ると軽量化も図られている。自転車のメーカー名までは分からないが、宮田あたりが製造した国産車の可能性もある。

自転車での配送であるから当然近隣に限られていたと思うが、画期的なサービスであった。

 右上の楕円に囲まれた写真を見ると、日本髪の女性が衣類の前に殺到している。どうやら特売日のようだ。

絵葉書全体の意匠

自転車隊の部分

2021年2月21日日曜日

自転車無銭世界旅行者中村春吉氏直話、完

 自転車無銭世界旅行者中村春吉氏直話、完

 翌朝出発に際して岡崎飛輪会の会員諸君が写真を撮ろうと云うので、私も共に撮影して8時40分に岡崎を出発しました。其時飛輪会の会員諸氏が私を見送ろうということになったのを堅く辞退しました所が、副会長の千賀君、幹事の牛田君外2君が然らば吾々が会員全体の代表をして見送ろうと云って2里許り送って呉れました。別れに臨んで道程を精しく聞いて、そうして私はボツボツやって来て御油に着きました。警察署へ寄って一寸休憩をして、午飯を食べて行けというのを辞退して其處を立ったのが11時頃でした。それから豊橋に着いたのが丁度12時頃でありました。

 直ちに双輪会の会長の許を訪ねました所が生憎不在でしたから、空しく其處を去って今度副会長の宅へ参りました。所が副会長も折あしく名古屋へ行って居らねから幹事の所へ是非行って呉れということでありましたけれども、それを私は辞退して警察署へ参って名刺を置いて直ぐ立とうとして居るところへ参陽新報記者の河合弘毅氏が来られて、是非宅へ立寄って呉れというので、それではと河合氏の宅へ寄って色々な話をして午飯の御馳走に興かって、そうして其處を立ったのが午後の3時ごろでございました。所が追風でありましたから帆を巻いて遠州浜松迄無事に参りました。其途中に於て浜名湖を渡る時分に非常に風が強く吹いて、浅い所ですから渡船の舵が岩に引掛ったために船が横に傾いて既に侵水せんとした、そこで私は是は堪まらぬと思ったから、いきなり帆を下して一生懸命に漕いで漸く船を進めて向うに無事に着きました。其時に沖商会の林五十三という人が同船して居って、君が乗っておらなかったならば船を覆すところであった、君の尽力で吾々は助かったと大層喜んで礼を云われた。それから浜松に着いたのが午後の5時30分頃でした。警察署へ参って名刺を置いて旅店の世話を頼んだ所が警察ではそんな世話は出来ぬと断わられました。それから浜名湖の渡しで同船した彼の林五十三という人の宿屋へ尋ねて参りました。ところが能く来て呉れたというので晩餐の御馳走に興かった上其晩は其處に一泊しました。

 翌7日の朝8時に其處を立って天龍川の渡しに差掛かった所が、どうしても無賃で通して呉れませね、彼此れ事情を述べて頼んだが、頑として応じませぬから、自分は斯様な物の分らぬ人物を相手にして居ては果てしがないと思いましたから、いきなり自転車に乗って、ツーと其處を通ってしまいました。それから小夜の中山を通って飴と御守とを貰うて金谷峠も無事に通りました。そうして静岡に着いて、何んという名前でしたか一寸思い出しませぬが大きな旅館に行って無料宿泊を頼みました所快く承諾して大層丁寧に扱って呉れました。

 8日の午前7時30分に其處を出発して無事に沼津に着いて、松本和平という大きな旅舎へ参って宿泊を頼みました所が、此處でも快諾して大層待遇を好くして呉れました。
 9日の朝警察署を訪問しました所が署長さんが歓迎して呉れて無銭旅行であれば手紙を出すのに印紙が要ろうと云って、印紙を数葉恵んで呉れました。此處を辞退して一旦宿屋に帰て自転車を背負う物をば板で拵えて午前9時20分に出発して無事に箱根をば上りました。箱根を通り越す時に水が一滴もないので実に困難しました。漸く先きの接待茶屋に着いて茶をよばれて渇を癒しました。此處を無事に通り越して下る時には自転車を背負うて下りました。それは午後の4時でした。其中に日が暮れてしまうし非常に空腹で堪へられなくなりましたから其處の茅屋に這入って、私は無銭旅行者であるが空腹で困難であるから、どんな物でも厭わぬから一椀の恵みに興かりたいと頼みました所、それは御困りであろう、サー遠慮なく此方へ御上りなさいと云って、香の物と魚の焼いたのとで御飯を馳走して呉れました。其時の味いは未だに忘れませね、其時に若し通行の外国人が空腹を訴へて来たらどうするかと問いました所、それは日本人でも外国人でも異りはない自分で出来得るだけ便宜を興えると申しました。其心掛けの好いのに実に感服致しました。其茅屋の主人というのは神奈川県足柄下郡湯本村字須雲川安藤寅吉という人です。此人の好意に依って腹拵えも出来、勇気も付きましたから厚く礼を述べて湯本へ下りました。そうして福住という旅館へ参って一泊を請いしに、主人が不在であるし殊に今夜は取込んで居るから泊める訳にいかぬと云うて断られました。
「そこで私は仕方がなく巡査駐在所へ行って荷物を解いて居る所へ福住旅館の若者が尋ねて
来て、唯今主人が帰りまして何故あなたを御泊め申さなんだ行って御伴れ申して来いと云われましたから御迎に参りました。どうか御立腹なく御同行下さいと言う。イヤそれは折角のことであるけれども自分は後に還ることは嫌いだ殊に今此處で承ればお前の家に今夜婚礼の祝い事があるそうだ。そういう取込みの所へ行って厄介になるのは好まぬと辞退して直ちに小田原へ向けて出発しました。そうして着したのは夜の10時頃でございました。
旅館片野屋へ参って一宿を頼みし所、客が充満して非常に混雑して居るのにも拘わらず快く承諾して大層待遇を好くして泊めて呉れました。

 翌朝8時頃に小田原を立って無事に神奈川に着きました時に、油がきれて困りましたから或自転車を貸す家に行って油をさして貰うて、其處を去って東京に向う途中に於て、平岡宗之助という人に会うて、色々話をして平岡君と同行して、午後の3時に無事に双輪商会の練習所に着きました。此度の旅行の経験に依りますると朝8時から午後4時迄25里駛るのは易々たるものです。そうして長途の旅行には極く必要欠くべからざる物の外は携帯せの方が宣いと感じました。マア此位にして措きましょう。(完)

明治35年1月1日発行雑誌『輪友』第3号より

本文に出てくる福住旅館
大正期の絵葉書

2021年2月20日土曜日

老舗さんぽ㉛

 昨日の「老舗さんぽ」は、小田原に明治期にあった「旅館、片野屋」の場所を探す。

 片野屋旅館とは、中村春吉の自転車無銭旅行(下関~東京)で湯本の福住旅館とともに登場する旅館である。小田原の老舗旅館で有名なのは弥次喜多道中記にも出てくる「古清水旅館」であったが、残念ながらすでに廃業してしまった。そもそも「片野旅館」は初めて聞く名で、そのような旅館があったことも承知していない。片野という名前では老舗の片野呉服屋(明治創業)があるが、旅館は知らない。とりあえずその呉服屋を当たってみることにした。店を訪ねると、昼飯時なので生憎店にはだれもいなかった。また出直すことにした。

 帰路、浜町にある郵便局に寄ろうと思い、「かまぼこ通り」から国道1号線の方に向かう。たまたま道路を横断しようとしていると、正面近くに自転車店があるのを発見した。いままで気が付かなかった店で、急遽立ち寄ることにした。丁度、若い店主がいて、店内を拝見させていただいた。店内には子供車から最新のビアンキのロードレーサーまで幅広いを車種が展示されていた。少し話を伺ったところ、どうやら最近の傾向としてのスポーツ車には特化せず幅広い年齢層を顧客にしたい意向のようである。店をオープンしたのは昨年で、まだ1年とのこと。産声をあげたばかりの自転車店であった。店主の年齢も平成生まれで、以前はセオサイクルなどで仕事をしていたとも話してくれた。気さくな好青年であった。小田原でも廃業する自転車店が多い中、このように若い人が店を始めるのは嬉しい限りである。30分ほどこの店に居て、その後、郵便局には寄らずに帰る。

 国道1号線沿いから自転車で狭い路地を入る。どうもこの辺りは昔の抹香町界隈のようで、小説家の川崎長太郎を思い出す。

創業1年のサイクル・ハウント
小田原市浜町1丁目11
以前は「あらき電機店」

2021年2月19日金曜日

自転車日記⑪

 自転車日記⑪

1974年8月17日(土)雨

東京、浜松町駅から田町駅まで歩く。

この間に山王スポーツ(慶大前店)及びシミズ自転車店を覗く。2店とも店舗がこじんまりしていてなかなか良い。

銀座のイエナ書店にも行ったが、自転車関係の雑誌は少なく、殆どがモーターサイクル関係であった。

1974年8月18日(日)曇り

●茅ケ崎から厚木まで、ラレー・カールトンを飛ばす。家から30分ほどで到着した。
帰路は追い風の為さらに早く家に着いた。かなりのスピードが出た。

●ローラー練習台を久しぶりに使用。どうも音がうるさくていけない。
運動量は実走よりも大したことは無いが、とにかく汗はかく。

●トークリップが合わないせいかつま先が少し痛い。プライヤーで何とか足に合うように調整した。つま先が少し深く入るようなので、サイズがそもそも合わないのかもしれない。今後合うサイズのものを自転車店で探してみることにする。

1974年8月19日(月)晴れ

日本橋の丸善へ電話を入れる。「バイシクリング」米誌を1年間予約する。
年間3,600円。

明日は仕事の関係で静岡・清水へ出張予定。

1974年8月21日(水)曇り時々雨
昨日、ほぼ仕事はかたずけたので今日は休む。(本当はまだやることはたくさんあるが)
カールトンで走ったが途中雨に降られる。だいぶ濡れてしまった。

ラレー・ロードスターのBBを分解掃除する。左のコッターピンがどうしても抜けなかった。それでも何とかBBの調整はできた。

1974年8月22日(木)曇り

今後、購入を予定しているロードレーサーは?

①ルジュン(赤)、149.000円

②チネリ、280,000円

③レニアーノ、250,000円

④メルシェ、250,000円

⑤ウラゴ、185,000円

➅ゼウス、135,000円

⑦デローザ、330,000円

⑧アンドレイ・バルタン、78,000円

⑨ゴルナゴ、330,000円など

横浜の野口サイクルで、ハンガー廻し、ヘッド廻し、チェーン切りを購入する。

店内にはロードレーサーのウラゴ、レニアーノなどが展示されていた。


2021年2月18日木曜日

自転車無銭世界旅行者中村春吉氏直話③

 自転車無銭世界旅行者中村春吉氏直話③

 4日の朝京都を去って四日市に向いました。其途中大津から鈴鹿峠迄自転車に帆を懸けて通りましたが非常な速力でした。それから水口という所の警察署へ寄って一寸休憩をして、其處で例の饅頭を出して食べた。其處を立ったのが午後零時20分でした。 立つ時に署長さんがビスケットを澤山呉れました。それから丁度3時に鈴鹿峠を下りて大に驚きました。
 上る時には何とも思わずに上ったので一向汗も出ませなんだが、下りしなに斯ういう急坂が日本にもあるかと思って実に一驚を吃しました。ボツボツ下りかけた所が二人の男が4間位の竹を車に着けて大きな石を車の後に付けて平気で坂を下りて居りましたのを見て私は其大胆に実に驚き入りました。斯くて先ず私は無事に其坂を通り越して伊勢の四日市新町に着いたのが午後の7時でした。日は暮れて居るし別に便る所もございませぬから警察署へ行って事情を述べて一泊を請いましたが許して呉れませぬ、それで仕方がないから市役所へ参って、台所の隅へでも宣いから寝かして呉れと懇願しました。けれども此處は役所だから泊める訳にはいかね併しあなたの事情を聞いて見れば誠に御気の毒である。失敬だけれども私は宿銭を差上げるから宿屋へ行ってお泊りなさいと斯う親切に言うて呉れましたが、私は素より無銭旅行の目的であるのですから銭を受けることは出来ぬと申して其厚意を謝して立去ろうとした所が、当直の役人が、それならば仕方がないがマア少し待て呉れと云ってピンヘッドを20ばかり買ふて来て私に与えました。一旦は辞しましたけれども折角の厚意黙止し難く其中ただ1つだけ貰ふて市役所を去って、偶と思い当る所がありましたから、私立三重唖学院主の高松清作氏の宅を訪ねました。所が高松氏が能く来たマア此方へ上れと云うて親切に扱って呉れましたので其時の心持というものは実に地獄から極楽へ来たような心持でした。それから風呂に這入って御飯を喫べて、そうして色々な話をして 12時30分に愉快に寝に就きました。

 翌5日の朝高松院生主の案内に依って唖生の教授の仕方を参観して、実に其教育法の総ての点に行届いて居るには感服致しました。
 そうして午前9時に厚く謝礼を述べて其處を出発しました。午前 11時に木曽川の渡場に着いて、自分は無銭旅行の者であるがどうか渡して呉れと頼みましたところ渡守が快諾して早速渡して呉れました。所が又向うに川がある。生憎船が彼方へ行って居ってナカナカ戻って来そうもありませぬので到頭其處に1時間程休憩して其處で弁当を食べて漸く渡して貰いました。そうして警察署へ参って茶を一ぱい御馳走になり、又飲料水を貰うて其處を立って安全に名古屋に着きました。それが午後の3時40分でした。それから電気器諸機械製造及輸入金物木材雑貨商の角田福次郎という人の紹介でアンドルス、チョルジ商会に参りましたる所、非常に歓迎をして呉れまして、旅館も取って呉れました。其晩洋食を御馳走になって旅館へ帰って一泊した。翌6日の、早朝自転車の掃除をして、それから憲兵屯署に参って話をして居りました折に、近藤代三郎という人が来て自分の自転車を検査して、少し「スポーク」が悪いから修繕して置くと云ってスポークを修繕して呉れました。
其上ランプの油や機械の油を貰って立とうとした所が、山中鍋太郎という人が来て、煙草を御持ちなさいと云って巻煙草を沢山呉れました。けれども私は煙草の貯えは要しませぬからと申して辞退をして其中1つだけ貰って其處を立ちましたのが午前11時30分頃でした。3里程行きまして鳴海へ着くと腰掛の螺條が折れて乗ることが出来なくなった。それを俄に繕うって岡崎に故障なく着きました。直ちに岡崎飛輪会副会長の千賀千太郎氏方を訪問致しました所が、丁度其處へ会長並に幹事諸君が来られて私を料理店に案内して大層な御馳走をして呉れました。そうして其晩飛輪会諸君の好意に依って岡崎 1等の旅館に泊ることを得ました。其時に私は非常に感じた。私のような者が斯様に諸所で歓迎を受けて有志諸君にわからぬ失費を掛けるのは実に相済まぬことである。以後は一切斯様なことは謝絶して成るだけ自分の知己を便ろうという決心を致しました。
(つづく)

明治35年1月1日発行雑誌「輪友」第3号より

2021年2月17日水曜日

自転車無銭世界旅行者中村春吉氏直話②

 自転車無銭世界旅行者中村春吉氏直話②

 翌30日早朝須貝君初め学校の人々に好意を謝し、訣別を告げて出発しましたのが午前7時20分頃でした。そうして神戸に向う途中、高畑という所迄参りました所が、其処で1人の猟師が二連銃を擔いで一頭の逞しき猟犬を伴れて来るのに出会いました。所が其猟犬が私の姿を見ると実に非常な勢で吠え掛かった、途端に不将にも其猟師が縄を解き放して犬を私の車体に喰い付かした。私は実に危険極まる、不都合な人間だと思いましたから、いきなり飛降りて、此犬は尋常の犬でない、狂犬だから撲殺してしまう。さあ一緒に警察まで来いと言って大に責めました所が、猟師が青くなって切りに謝罪をするのです誠に恐入りました。どうか御勘弁を願います。此犬は誠に大切な猟犬です。自分は免状を取上げられても一向厭ひませぬから、どうか此犬を撲殺することは許して下さいと切りに謝罪しますから、一時自分は非常に立腹しましたけれども、終ひに可哀想になりましたから、深く将来を誡めて其儘別れて神戸に無事に着きました。早速元町の長尾商店に尋ねて参って、自分が此前車から落ちたときに帽子がメチャメチャに壊れましたから、帽子の古いのを呉れぬかと言ったところが、幸い此処に帽子の新らしいのがあるから之を持って行けと云って快く夏帽子を呉れました。 それから橋本商館を訪ねて参りました所が其店に十七、八の少年が居って頻りに私に対して英語で話しかけるのです。其時私はカゼを引いて居って声がすっかりかれて話も出来ぬ位でした。そこで私は此奴自分がかって通弁をして居ったことを聞いて子供の癖に生意気に英語で話すのだと思ったから、癪に障って、お前は日本人であるのに何も必要のない場合に英語で話すなどとは生意気千萬だ。子供の癖に余計な文句は言わねで仕事をせいと言って怒ってやりました。そうして奥の方へ来ました所が店の者が、今あなたは大変怒ったが彼は子の時から外国へ行って居って漸く此頃日本に帰ったので日本語は少しも解せぬものですから御気に障ったらどうか御勘弁を願います。と斯う言われたので私は大きに赤面致しました。イヤそれは大きに失敗した私はまた彼は日本語を知りつつ生意気に英語でうるさく話すのだと思ったから癪に障って怒ったのです。それは私が大きに悪かった。と言って復び彼の少年の傍へ行って、今甚だ失礼なことを申して済まなかったと申して詫びました。すると少年が、あなたが今黙って仕事をせいと言ったのではないか、私はあなたの言葉を聞く耳を持たぬ、と斯う言って怒っている。そこで私が成程それは其通りだ。お前が日本語を知らぬものであるとは知らなかったから左様なことを申したのだ。実に済まぬことを言った。どうか勘弁して呉れ、そうして将来心易くして呉れと詫びたので少年も機嫌を直して、私は幼年の時から英国へ参って居ったために日本語は一向知らね、あなたの来たのを見て実に懐かしく思ったから思わず英語で話をしたのです。アーそうであったかというような訳で、それから互に愉快な話をして別れました。そうして橋本商店で昼飯を御馳走になって、午後の1時に其処を立って2時30分大阪に着きました。途中の渡場は無賃で故障なく通して呉れました。大阪に着くと直ちに大阪朝日新聞社に立ち寄って旅行の話などをして、其処を辞して橋本出張店を尋ねて難波へ行く道を問うて、8時に其処を立って難波の自分の親戚の鉄工所の飾秀という者の宅へ着いたのが 30日の8時40分でした。久し振りで親戚に会うたので一家団欒して夜更けまで愉快なる話を致し其夜は心持能く寝ました。翌日は12月の1日で男正月であるというので雑煮を拵えて馳走して呉れました。それを自分1人で八百目程の餅を平げてしまったので、親戚が君は実に能く食うじゃぁないかと云って驚いた。満腹したので昼飯は食べずに余所へ遊びに行って帰った所が又種々な御馳走を拵えて待って居ったので、早速それを又悉皆平げてしまった。家の者は実にあなたは能くどうも食べられるものだと呆れて居りましたが、自転車乗は澤山食べなければ身体が続かぬと言って遠慮なく腹一ぱい詰め込みました。

 1月2日と其処に滞留して居って、3日の朝其処を出発致しましたが、朝飯の代りに又雑煮を拵えて呉れましたから三百目程食べました。
そうして立つ際に餅を八百目許り貰ってそれを自転車のカバンの中に入れ、また其処の職工長をして居る自分の親戚に当る者から1銭の饅頭を50程貰って、それをカバンに括り付けて其処を出発したのが丁度午前の9時でした。そうして復た大阪に来て橋本支店に寄った所が非常に歓迎されて高谷と云う其処の支店長が西京に行く道を二里許り送って呉れました。西京に着いたのが午後の2時でございました。所が此処で京都友輪クラブ員諸君の歓迎を受けまして、諸君の御配慮に依りて上等旅館に投宿致しました。(つづく)

明治35年1月1日発行雑誌「輪友」第3号より


 この写真は明治40年頃に撮影されたものと思われる。大きな看板には神戸橋本自転車商会大阪出張店とある。住所は「大阪京町橋西詰北へ入」と書いてある。
 この時期、橋本商会は、本店が神戸三宮町二丁目に、九州支店が博多川端町にあった。
 明治43年のカタログを見ると、次のような銘柄車を販売していた。
 ハンバー、インペリアル、センター、ノートン、スターレー、ラピッド、アライアンス、スタンダード、プリティー、サンシャインなど。
 橋本商会は、英国製ハンバーの東洋総代理店でもあった。

 中村春吉の直話の文中に出てくる橋本商会の大阪出張店(大阪市京町橋)はここである。

2021年2月16日火曜日

小田原の観梅遠乗會

明治35年3月10日発行の「輪友」第5号に小田原に観梅遠乗会を実施した記事あり。

小田原の看梅遠乗會
本會有志十数名は二月十六日午前八時横濱停車場を出發し東海道を順路小田原に赴き小峰の看梅を催したり早急の企てなると降雪後道路の悪しきとを氣遣ひ出乘者少なかりしも勇輪義會の有志之に加はりたるため一層の愉快を覚えたり

註、1902年であるから今から119年前の話である。最近なら曾我梅林の方が有名で、いまでは小田原の小峯へは殆ど観梅にいかない。本日念のために小峯を訪れたが、殆ど梅は見当たらず数本だけ水道施設の周辺にあっただけで、むしろ桜の木の方うが多く、花の咲くころにはちょっとした名所になっている。
 当時は小峯と城址公園あたりがが有名だったのであろうか。
雪が降った後なので当然ながら当時の東海道の未舗装道路では泥濘に難渋したようである。

勇輪義會については、佐藤半山の輪界追憶禄の以下が詳しい。

●勇輪義会
 この会は明治34年4月に結成された。東京バイシクル倶楽部や金輪倶楽部のように競走会を主たる目的とするのではない。自転車の普及発達をはかり国家に一朝ことあるときは自転車をもって国に奉公するを目的としたものである。
 このため、その目的に共鳴する者が多く、盛岡、仙台、福島、水戸、土浦、結城、鹿沼、横浜、徳島など各地に会員が組織されて400人を超し、支部も多くできた。
 勇輪義会は陸軍大尉・梅津元晴、東宮和歌丸、それに筆者も加わって組織したものである。会長には海軍少将・新井有貫君を戴き、副会長には陸軍戸山学校の体操科長である鵜沢総司(日露戦争に連隊長として出征、沙河会戦で戦死)君を推した。発会式は30余人で遠乗り会を催し、小宴を張った。
 会員はみな制服、制帽、徽章を佩用するがその服も帽子も陸軍士官のものとよく似たもので、軍人とちがうのは佩剣がないだけであった。
 ときどきは梅津大尉の指揮で青山練兵場で軍事操練をおこなったもので、そのときは陸軍払い下げの銃を帯用していた。
 日露戦争がはじまると、各地の会員は召集令状を自転車を使って伝達するなど、各地町村役場の手伝いをして大いに賞賛された。
 本部事務所は筆者宅に置き、雑誌「自転車」を会の機関紙としていた。

小峯の梅
2021年2月16日撮影

2021年2月15日月曜日

自転車無銭世界旅行者氏直話①

 自転車無銭世界旅行者中村春吉氏直話①

 日本人初の自転車世界一周旅行を行った中村春吉の直話で、これは世界旅行出発前に山口県下関から東京までの自転車無銭旅行の話である。これを読むと中村春吉の常識はずれで図々しさも感じるが、登場する人々のおおらかな人情にも触れることができる。

 押川春浪の冒険小説『中村春吉自転車世界無銭旅行』はかなり脚色が多く、楽しめるが、この記事は直接本人から聞いた話しで信憑性もあり興味深い。因みに、日本自転車史研究会では以前に押川春浪の『中村春吉自転車世界無銭旅行』を復刻出版している。
 下の写真は御手洗の天満宮境内に設置された顕彰碑で、碑の中の写真は当研究会が提供した。

明治35年1月1日発行、雑誌「輪友」第3号より転載。

 私は風俗視察、語学研究のために自転車の無銭世界旅行を企てたのです。

 11月15日正午12時に下ノ関を出発し午後6時40分無事に三田尻に着きましたそれから直ちに久賀郡という所にあって私の旧主人の宅を訪ねて其処に一泊しました。

 17日の朝8時に其処を出発して広島に向い午後1時に着きました。大手町の鳥飼繁三郎という人の宅へ寄ってベルを修繕して貰い、又空気を入れるポンプが損じましたから、赤谷という人からポンプを貰って、其晩は深越村の大下龍之進という人の宅に一泊しました。

 18日の朝7時30分に其処を出発して、自分の故郷御手洗を指して参りました。
其途中に於て四日市西條という所に一つの急坂がある。其坂を下りしなに牛飼が一頭の牛を牽いて上って来るのに出会いました。そこで私がベルを鳴しますと牛が驚いて網を放れて暴れ出しました、其時に車の泥除が取れて、スポークの中へはまり込んだので、自転車が転覆して私は田の中に投げ出されて、左の面部を打った。痛さをこらえて早速田からはい上って、復び自転車に乗って竹原町の警察署に参って色々な話を致し、それから写真屋を訪うて写真を撮ってもらって、そうして明神の鼻という所でよき便船を1艘借受けて、自分の故郷御手洗と申す所へ行きました。

 故郷の御手洗に11日程滞在をして、27日の朝7時30分に其処を出発して尾の道に参りました。尾の道では十四日町の鉄砲屋兒玉という人の宅へ1泊しました。

 翌28日早朝尾の道を出発して、福山という所へ参りまして、自分の親族の所に一寸立寄って、それから岡山市に向けて進行致しました。其途中笠岡の手前に於て非常に劇しく犬に吠えられたので驚いて車から跳ね下りて、犬を逐いましたけれどもナカナカ逃げね、そこで仕方がなく空砲を放ちました。ところが却て私の方へ牙をむき出して向って来た。そこでまた1発打ったがまだ逃げね、益々激し、吠えつく、都合4発打って漸く犬を逐払って自転車に乗ろうとすると、其附近の家から人が出て来て、今の銃丸が俺にあたったと言って非常に怒って私に談判をしかけました。馬鹿なことを言うな犬を逐うために空砲を打ったのだからお前にあたる訳はない。何処にあたったかと詰問すると、其男がイヤ銃丸ではないが砂が顔にあたったから勘弁は出来ぬと言って幾ら説得しても頑として聞入れませぬ、そこで仕方がなく笠岡の警察署に同道して参って、自分が空砲を打った事情を述べ警官に説諭して貰って其男を帰した。其事が済んでから署長さんと色々な話をして居る中に、丁度正午になったので昼食を馳走にあずかりました。そうして其処を立ったのが午後1時30分頃で、岡山に着いたのが午後5時頃でした其晩は岡山の双輪会に於て内山下の平松君外数名の歓迎を受けて同会に一泊しました。

 翌29日早朝に起きて自転車の損じた所に修覆を加へ、厚意にあずかった諸君に決別を告げて岡山を出発したのが、午前11時40分でした。そうして姫路に向いました。道中何等の故障なく姫路に安着したのが午後の7時30分であった。所がモウ日が暮れて何処と云って便る所もなし仕方がなく警察署へ参って、当所に何処ぞ英語を教える学校のようなものはないかと尋ねましたところが、大工町に須貝潜という人の主幹している「ディレクトル、オフ、ロジカル、イングリッシュ、スクール」という学校があるというて教えてくれましたから、直ちに警察署を辞して其学校を尋ねて参って、須貝という人に会いまして、私は下の関に於て通弁をして居るものであるが今日世界の風俗並に語学研究のために自転車で無銭旅行を企てて御当所に参ったのであるが斯様に遅く着いて別に宿泊を求める所もなく、困難至すに依て御迷惑であろうが、どうか一泊を許して貰いたい。ということを申せし所、私の所では家内が多くて泊める訳にはいかぬ、折角の御求めであるがどうも御望みに応ずる訳にはいかぬと情なくも拒絶しました。そこで私が併し君も苟も英語の教授をしてる人ではないか、僕も不肖なりと雖も多少英語を研究した者で、今度無銭世界旅行を企てたのも語学研究というのが一つの目的であって、詰り君が英語を教授して其普及を計るという目的と帰する所同一になるのであるから、どうかそう言わぬで同学の縁故を以て御迷惑ながら一泊を請いたいものである如何であるかということを英語で話しました。所が須貝君がイヤそれは甚だ失礼なことを申した。如何にも君の仰っしゃる通りである。私の前に申したことは誤りである。マア此方へ上りたまえというので自分は満足して上った所が、其処に生徒も澤山居り、教師も居りました。其席で2時間許り英語で色々な話を致しました。然るに其時須貝君が真面目に1人の教師にむかって、私を紹介して言うのに、此人は西班牙人(スペイン人)である。今夜泊めて呉れと言うて来たから一泊せしむるのであるということを言った。ところが其教師がアー左様であるか、英語はナカナカ巧であるが西班牙人とは思わなかった。一寸と見ると日本人としか見えぬが、そう言われて見ると成程少々異るところがある、それは珍客であるというので共々に英語で彼方此方の話をして愉快を盡して居ましたが、終ひに須貝君が笑うて、実は此人は西班牙人ではない。下の関の中村春吉と云う人で、此度自転車の世界無銭旅行を企てた人であると本統のことを告げましたので、一同哄笑をして、そうであろう、どうも日本人に相違ないと思った、と大笑を致しました。そこで其晩はイングリッシュ・スクールに於て非常なる歓待を受けて実に愉快にヌクヌクと寝に就きました。 (つづく)

広島県呉市豊町の顕彰碑
御手洗天満宮境内
写真提供:「重伝建を考える会」

2021年2月14日日曜日

空中自転車と水上自転車(最終回)

 空中自転車と水上自転車(最終回)

 9回にわたって連載したこのテーマも、そろそろこの辺で終りたいと思う。ご覧のようにたんなる新聞記事等の羅列に終わり、中味の無いものになってしまったが、なにかの参考にはなろう。

 エピローグとして、藤沢の齊藤俊彦氏(近代道路交通史研究家、著書に「人力車」などがある)からも、ロシア語の新聞雑誌から集めた、空中・水上自転車の記事をお送りいただいたのでそれを掲載する。

齊藤俊彦氏からの資料

2021年2月13日土曜日

日本自転車史に影響を与えた自転車

 日本自転車史に影響を与えた自転車(暫定)

 先の米国の「バイシクリング」誌の自転車史に最も影響を与えた自転車ベスト25の日本版を以下に独断で決めた。
異論はあろうが、とりあえず暫定である。別に25にこだわる必要もないが、「バイシクリング」誌を尊重してあわせた。

歴史的自転車(一部パーツを含む、年数は単なる一つの目安で前後数年の幅あり)

①ラントン車 1869年

②寅次郎の木製三輪車 1870年

③シンガー三輪車 1882年

④コロンビアのオーディナリー 1886年

⑤オバーマン・ホイール株式会社のビクター号 1889年

➅梶野製国産自転車 1895年

⑦伊勢善販売の米国製クリーブランド号 1899年

⑧横浜の石川商会販売の米国製ピアス号 1900年

⑨東京の双輪商会販売の米国製デートン号 1900年

⑩宮田製作所の旭号 1902年

⑪日米商店販売の英国製ラーヂ号 1906年

⑫大日本自転車株式会社の国産ラーヂ号 1916年

⑬日米富士の覇王号 1930年

⑭三菱十字号 1947年

⑮岡本ジュラルミン製ノーリツ号 1947年

⑯志村精機のロード・パピー号 1950年

⑰仏のルネ・エルス 1950年

⑱山口自転車のスマートレディー 1956年

⑲英国モールトン車 1960年

⑳チネリのロードレーサー 1964年

㉑クワハラのBMX 1972年

㉒シマノのパーツ 1972年

㉓東叡社ランドナー 1976年

㉔土屋製作所エバレスト 1977年

㉕アラヤのマウンテンバイク 1982年


番外、

平石久平次時光の新製陸舟奔車 1732年

三元車(大河号) 1876年

ジェラールの折畳自転車 1895年

富士ダンディ 1961年

セキネのフラッシャー付自転車 1977年

ブリヂストンサイクル株式会社のベルトドライブ車 1982年

ヤマハ・パス電動自転車 1994年


2021年2月12日金曜日

史上最高の自転車べスト25

史上最高の自転車べスト25

 少し古い情報だが、2017年にアメリカの「バイシクリング」誌が、自転車発明200年を記念して、自転車史に最も影響を与えた自転車ベスト25をリストUPした。

以下の自転車(タイヤも含む)である。

①ドライジーネ Draisienne or Laufmaschine

②ミショー・ベロシペード Michaux Velocipede

③ペニー・ファージング アリエル号 Ariel Penny Farthing

④コロンビア Columbia High-wheeler

⑤ハリー・J・ローソン Harry J. Lawson

➅スターリーローバー Starley Rover

⑦ダンロップ・ニューマティック・タイヤ Dunlop Pneumatic Tires

⑧ライト・ブラザーズ・ヴァン・クリーヴ Wright Brothers' Van Cleve

⑨フランセディアマント Francais Diamant

⑩ポール・ド・ヴィヴィエ Paul de Vivie

⑪シュウィン・パラマウント Schwinn Paramount

⑫シュウィン・ヴァーシティ Schwinn Varsity

⑬ボーデンスパランランダー Bowden Spacelander

⑭シュウィン・スティング・レイ Schwinn Sting Ray

⑮プジョー Peugeot PX10

⑯テレダイン・タイタン Teledyne Titan

⑰ブリーザシリーズ1 Breezer Series 1

⑱スタンプジャンパー Stumpjumper

⑲スポルディング 軍用自転車 Spalding Military Special

⑳フライングピジョン Flying Pigeon

㉑ロータス108 Lotus 108

㉒トレックオクルフ Trek Oclv

㉓スペシャライズド FSR Specialized FSR

㉔コルナゴC40 Colnago C40

㉕サリーパグスリー Surly Pugsly

関連サイトは → こちら

リストアップされた自転車を見ると、どうもアメリカ製に偏っているように思える。シュインなどは3台も上がっている。米国誌であれば当然であろう。

何時か日本の自転車史に影響を与えた自転車も掲載したいと考えている。たぶん私の独断で決めることになると思う。


2021年2月11日木曜日

空中自転車と水上自転車⑧

 空中自転車と水上自転車⑧

 かなり古い情報だが、1986年1月号の日経「サイエンス」誌に人力飛行機の特集があった。それによると、人力飛行機は技術上の観点から3つの世代に分類できとある。

第1世代の機体は木製トラス構造である。これらの機体は重くてきゃしゃで、直線飛行しかできなかった。

第2世代の機体はアルミパイプを骨格とし、外部張線構造をとっている。この種の機体ではじめて、直線以外の飛行ができるようになった

第3世代の機体は、カーボンファイバーなどを使うことによって、単純片持ち梁構造のスマートな機体となった。
 
 現在はもちろん第3世代に属しているが、しかし、まだ自由に飛べる訳ではない。大気の状態が非常におだやかな時でないと操縦は不可能であるし、だれもが乗れると言うものではない。今後も一つ一つ課題を解明し、実用に向けて挑戦がつづけられて行くものと思われる。
 ところで、ここで扱っている空とぶ自転車は、上記の第1世代にも属さない、全く初期の時代のもので、想像から試作の段階といったところをテーマにしている。しかし、既にそこには次の時代への萌芽が現われていることを読み取れる。

明治26年1月18日付の毎日新聞に“空中自転車の発明”と題して次のような記事がある。

 合衆国オレゴン州ユーゼンと呼べる処のジョーヂ・ミラーと云う人は此頃空中自転車なるものを発明し将に完成に至るべしと云へり而して空中自転車は人類に飛鳥の能力を与えるものにして大なる飛高力を起し此の力を保持し此力を前進せしむるを主とす去り作ら斯く言うは易しと雖ども之を行うは容易に非ず氏は此の器械に向って先づ器械学に行わるる規法を用いたり先ず第1の目的は一種の器械をして地上を離れしむるに在り氏は此目的を遂げんとするに要用なる力は是非共力の前進力及保持力を表わすべしと主張せり空中自転車は一の平板が1時間 60哩の速力を以て後部分は1インチの14分の12高く水平的に過ぐるものとせば将に14 ポンドの重を持つ可く之を前進するには僅に1ポンドの力を要すれば其速力を減ずるとなしと云えり空中自転車は車の中心より脚板を隔てて殆んど12尺の間に一直線に上進する鋼鉄の軸を存すべし而して2個の指若しくは扇の如きものありて平行線的に且つ交互に入分れたり1は2の中に入るべく2は3の中に入れ得べし而して大車輪即ち作動車輪は歯を有し脚板を動かす事と手にて方向を定むる事に依りて動かさるべし作動車輪は2個の小車輪の上に動くべし1は鋼鉄軸の基礎に密着し他の1は作動車輪の頂に於て他の軸に密着せり作動車輪が其作動を起す時に2個の扇は直に旋転し甲乙各反対の方向に動くべし斯くて内部の歯輪は外部に向って1時間60哩の速力を以て旋転するの力を羽翼に与えるなり此の自転車を上進せしめんとせば羽翼の旋回速力を増加すべて下降せんとせば其速力を減少すべし羽翼は接続所及曲墝点を有し居れば之を前進せしむるには頗る錯雑せる方法を以て之を動かすにあり羽翼を90度の角度に曲げなば後進するを得べし之を左右に曲げんとせば2個の羽翼中他の1個を多く転ずるにあり若し長途の旅行を為さんとせばガス若しくは電気の力を借るを要すと発見者は云えり扇の羽翼若しくは指と称するものは竹と縄とを以て造り歯輪のアルミを以て造れり発明者は農夫の子にして斯の如き大発明を為すの素養ありとは見えざれども教育あり資金あるが為め不遠此の事業を完成するに至るべしと云えり若し一朝此器械にして成功するが如きとあらば社会の光景如何に変化せんか殆んど想像すべからざるものあらん読者は水上自転車なるものは既に発明せられ居るを記憶すべし然らば空中自転車の発明も敢て希望すべからざる事には非るなり。

本文を読んだだけではどのような構造のものかまったく分らないが、幸い挿絵がある。それによるとどうやらヘリコプターのような駆動方式である。恐らく考え方としては正しいのであろう。しかし、この構造で人力だけによる浮揚、飛行は不可能と断言できる。現に今になってもそのような形態での空中自転車は現れていない。 

空中自転車
明治26年1月18日付の毎日新聞

2021年2月10日水曜日

老舗さんぽ㉚

 老舗さんぽ㉚

今日の「老舗さんぽ」は、国府津、二宮方面である。

 国道1号線を親木橋から国府津駅方面に向かう。旧石田自転車店の前を通過して、前回の探査で写真が撮れなかった、大川自転車店(大川輪業)へ。ここは数年前までは倉庫があったが、現在は新築された普通の住宅に変わっている。あの懐かしい看板建築の店舗はその面影もすべて完全に消えてしまった。

 国府津には、他に加藤自転車店と内田自転車店も戦前にあったが、現在はまったく場所も情報もつかんでいない。機会があったら次回その辺も探ってみたいと思っている。

 国府津駅を左に見て、押切方面に向かう。押切で昭和40年頃まで営業していた山田自転車店は前回の調査でもまだ正確な店の位置を確認できていなかった。押切郵便局の手前を通過した時に、年配のご婦人がいたので、ぶしつけに訪ねてみたが、分からないとのこと。まだこちらに越してから8年だと言っていた。分からないはずである。

 結局、山田自転車店のあった場所は分からず、押切の坂を上って二宮方面へ。二宮町梅澤にも杉崎自転車店があったが、この場所も探す。梅沢の橋を渡った左側に以前から気になっていた店がたまたま開いていて店主がいた。この店は自動車の販売店であるが、店主は以前から自転車が好きで、外国製の自転車を何台も所有している。現在は店の内装工事が始まったようで、店内を片付けていた。たまたま一台のクラッシック自転車が目に留まり、写真を撮らせていただいた。親切に店の前にその自転車を引っ張り出してくれた。この自転車は英国のベイツで、フロントフォークが特徴のある自転車である。後輪のハブには懐かしいスターメイアチャーの内装ハブがついていた。数枚写真を撮らせてもらう。

 この店主から詳しく杉崎自転車店を聞き出すことができた。若い頃にこの店でセキネの自転車を購入したとも語ってくれた。

 杉崎自転車も既に廃業していて、現在はまったくその面影はない。いまは小さな名入れタオルの販売店に変わっている。この店を覗いたのだが、誰もいない。結果何も話を聞くことができなかった。ただ店の場所を確認できたことが唯一の成果であった。杉崎自転車店は戦前は2店舗を構えていて、今回訪ねたのは梅沢の本店の方である。

旧大川自転車店(大川輪業)の跡

ベイツのクラシック自転車

旧杉崎自転車店 梅沢の本店跡

この辺りに山田自転車店(押切)があったが?
再調査が必要である

全国輪界興信名鑑 昭和12年発行


会員名簿

 先日、書類を整理していたら日本自転車史研究会(輪史会)初期の名簿が出てきた。

会員名簿 <順不同>1986年8月現在(昭和61)
(氏名と住所が書いてあるが、氏名のみ掲載する、敬称略、物故者を含む)

氏名         住 所
高橋 勇 
三輪 健治
齊藤 俊彦 
井上 重則 
植原 郭 
佐野 裕二
高橋 達
八神 史郎
斧 隆夫
中野 保男
高木 六弥
真船 高年
須賀 繁雄
谷釜 了正
中村 安良太
小川 正仁
岡田 素男 
大津 幸雄
河原 正
寺島 常蔵
小林 恵三
中川 忍
山添 喬正

以上 23名

2021年2月9日火曜日

空中自転車と水上自転車⑦

 空中自転車と水上自転車⑦

 人類の永年の夢であった、空を飛ぶということは、今や実現され、月まで行く時代となった。しかし、ライト兄弟がキティホークの風に彼らの飛行機をフライトさせるまでには多くの先人達があらゆる工夫と努力を重ねてきたのである。

 その一つに、自転車の動力を使って、いかに空を飛ぶことが出来るかというテーマで、当時の好奇心ある人々の関心事であった。この挑戦は現代にも受け継がれ、研究機関や大学で試みられている。しかし、人力による完全なる飛行は、残念ながらまだ成功していない。ハングライダーによる飛行がある程度の可能性を暗示しているが、これとても、地上から完全な形で飛翔することはできない。このハングライダーと自転車の動力をうまく組み合わせて、人力飛行機ができそうに思えるが、そう簡単には行きそうにない。

 これから紹介する空とぶ自転車も、当時の好奇心ある発明家達が残した足跡の一つである。こうした先人達の一歩一歩の努力が人間を月に送り込んだ原動力であることを忘れてはならない。

明治29年10月21日付けの毎日新聞に、次のような記事と画がある。

●羽翼輪
 左の図は露西亜(ロシア)人フリーマンと云える人の発明にて目下新約克(ニューヨーク)にて製造中なりフリーマン氏は欧州米国各政府より発明専売の特許を得る迄は之を世に公にせずと云い居り此製造監督の為め氏は現に新約克に滞在すという。

 水上自転車の時もそうだが、こういう記事を読む時常に感ずることは果して成功したのかという疑問である。
 新聞記事というものは、とかく読者の興味を引きつけるあまり、むしろその結果よりもこれから挑戦しようとすることに視点を置いているように思える。
 結果は成功した時のみ大々的に報道し、失敗した時は知らない、という姿勢である。確に読者は失敗した記事など読まないし、当然かもしれない。したがって、このフリーマンの人力飛行機も、恐らく試作されただけで、フライトには失敗したものと思われる。
 ところで話しが前後するが、人類初の飛行を成し遂げたライト兄弟は、ライトサイクルという自転車店を経営していた。自転車の技術が人類を飛翔させたと言っても過言ではない。

羽翼輪
明治29年10月21日付け毎日新聞

ライト兄弟が初めて飛行に成功した時の歴史的写真
1903年12月17日

2021年2月8日月曜日

自転車日記⑩

 自転車日記⑩

1974年8月4日(日)晴れから曇り
午後から自転車散歩、
湘南遊歩道から江ノ島まで走る。滝口寺付近で引き返す。
自動販売機でジュースを購入、一時休憩する。
汗が流れ目に入る。でも汗をかき気分は爽快である。
自転車に乗り、汗をかくことは、一種の快感でストレスもこの汗と共に流れる感じがする。

1974年8月7日(水)晴れ
茶屋町郵便局から丸善に自転車雑誌代を振り込む、赤紙で手数料は不要であった。
午前中は茅ケ崎から大磯海水浴場まで走る。かなり飛ばす。
午後からは寒川、赤羽根、堤方面を走る。
だいぶ日焼けをしてしまった。
今日は茅ヶ崎海岸で花火大会が行われる。

1974年8月10日(土)曇り
海外ニュースより、オーストラリアのシドニーにて自動車の排気ガス公害反対運動で自転車によるでデモンストレーションが行われる。

自転車で湘南平へ。途中の急坂も自転車から下りずに登りきる。でも疲れた。
山頂のテレビ塔より大磯海岸、平塚市内、大山・伊勢原方面を一望する。

1974年8月11日(日)曇り
今日も自転車散歩。小出から辻堂(小和田方面)に抜ける。素晴らしいルートを見つける。競輪選手と思われる男性がこの道路で練習をしていた。自転車は勿論トラックレーサー。山の裏側の宅地造成地にもよいルートがあった。このルートも練習にはもってこいの道路である。それに引き換え、県道の寒川・藤沢線は自動車の交通量が多く、排気ガスも酷い。走りたくない道の一つである。これからも自転車が安全でのんびりと走れるルートを探したいものである。ただ行き当たりばったりではなく、事前に地図で調べる必要もある。また、それもサイクリングの楽しみの一つだ。

註、小出から辻堂(小和田方面)に抜ける道とは「赤羽根通り」である。当時はまだこの道が完成したばかりで、交通量は殆どなかった。よい練習コースであった。懐かしい思い出の道である。
(2021年2月8日、記)

1974年8月16日(金)曇り時々雨
東京銀座のイエナ書店に電話を入れる。
自転車関係の雑誌について照会、
「ロードとトラック」(オーストラリア)は扱っていない。
「サイクル」及び「バイシクリング」(米)は扱っているとのことであった。
「バイシクリング」は年間3,880円。これを注文する。代金は現金書留で送金。

フランスの「ルシクル」、「ミロワール」、イギリスの「スポーティングサイクリスト」も今後購入予定。

「ミロワール・ド・シクリズム」はイエナ書店に行けば置いてあるのではないかと思う。
こんど自転車の練習ができない雨の日にでも、丸善とイエナ書店を訪ねてみたい。

●Campeonato del Mundo de Ciclismo 1973.
昨年、スペインのバルセロナで行われた自転車世界選手権を雑誌等で眺める。
ここで使用されてた自転車のパーツは、
クランクは170mm以上、フリーは6段が多い、クロスレシオ(13~21)、フロントは54、53と42、タイヤはクレメン・クリテリウム セタ エキストラ(200~240グラム)あとは総てカンパニョロのようである。


2021年2月7日日曜日

空中自転車と水上自転車➅

 空中自転車と水上自転車➅

 これも先に紹介した同じような錦絵に描かれた空中自転車である。名前は「空車」と書いてある。この錦絵は、国政、国貞作の"往来車づくし”(明治3年7月)であり、原図はトヨタ博物館(愛知県長久手市横道41−100)などに所蔵されている。

 空車の他にも、水溺車(先に紹介した水上自転車)とか、蒸気車、後押自転車、人力車、馬車、自転車など、車輪の付いた乗り物がたくさん描かれている。これらの車のほとんどは実際にあったものであるが、この空車とか水溺車は想像により描かれたものである。

 あえてこの空車を解説すると、一見当時の黒船(外輪船)に似ている。どのようにして飛ぶのかさっぱり想像できないし、また考える必要もいない。まさに空想そのものである。黒船に似たものを空に描いたにすぎない。

 別の錦絵(東京繁栄車往来之図)には気球も描かれているものもあり、それには「風舩」と書いてある。或はこの画を見て空車を思いつき描いた可能性もある。空にも賑やかに何か描きたかったに相違ない。

「空車」 往来車づくし
国政、国貞作 明治3年7月

全体図
中央上のくずし字には「品川宿の景」とある

「風舩」錦絵の一部分
東京繁栄車往来之図 芳虎
天理参考館所蔵 明治3年

2021年2月6日土曜日

空中自転車と水上自転車⑤

 空中自転車と水上自転車⑤

また今回も水上自転車、いつになったら空中自転車が出てくるのか?
もうしばらくお待ちを、後半に出てくるので。

これは錦絵に登場した水上自転車である。発行年は分からないが、この手の構図から判断して、明治3年頃の錦絵、この原画は天理大学附属天理参考館(奈良県天理市守目堂町250)などが所蔵している。

画を見ると、これが水に浮くとはとても思えない代物である。構造もさっぱり分からない。あえて解説すれば外輪船に近い構造のようである。日除け或は幌付きに注目すれば小型帆船にも見える。いずれにしても不可解である。たぶん想像で描かれたものと思われる。名前は水溺車、名前からして溺れそうである。

ラントーン型の木製三輪車が登場してから、いろいろな形の乗り物が錦絵に描かれるようになった。この画もその一つ。

水溺車

全体図
当世い車づくし
辻岡屋亀吉 明治3年頃

2021年2月5日金曜日

空中自転車と水上自転車④

 空中自転車と水上自転車④

 ドーバー海峡を泳いで渡ったというニュースは、以前なら話題になった。しかし、最近ではトライアスロンが盛んになったせいか、余り珍しいことでなくなった。
ところで、今回の記事は、水上自転車でドーバー海峡を渡らん、という話しである。

明治27年8月5日付けの毎日新聞に、次のような記事がある。

「自転車を駆りてドーヴァー海峡を横ぎらんとす。
 自転車の欧州に流行するもの、今や実に滔々、而して曼国のジオルジー、ピンカルトが、最近此器を利用して、英国ドーヴァー海峡を横ぎらんと企てたるに至りては、最も新聞紙の好資料たるに適す。
 自転車は、簡単に其構造を述ぶれば、非常に浮泛性に富める材質を以て、其双車輪の中体を改造し、恰も凸鏡の看をなさしめ、而して其上より直径4フィートに余る大車輪をはめ、なを外周に、水かきを装置したるものなり、(此自転車が陸行に用ゆべきは勿論なり)自転車の特許を受けたるは、1883年のことにして、発明者は、同じく曼国のヘル・ピンカルトなり、而して速力は、1時間6マイル、今回の渡航の如きも、実にわずか5時間余を以て了するはずなりと、先年英国カプテン、ウェッブが辛うじて測量し得る所によれば、ドーヴァー海峡には、少くとも20余の潮流あり、水勢もまた一般に急激なりと云う。
 ジオルジー、ピンカルト果してよく其奇異の渡航を成功し得るや否や」

 新聞のイラストを見る限り、この水陸両用自転車はものになりそうである。このような形のものをどこかで見たような気がする。しかし、これだけのもので潮の流れが速いドーバー海峡を渡るのは大変なことであろう。はたして成功したのであろうか。
水上自転車は他にも当時の雑誌などに見えるが、どれも実用になりそうもないものばかりである。

註、曼国とは日耳曼国で、旧ドイツのことである。

自転車を駆りてドーヴァー海峡を横ぎらんとす
明治27年8月5日付けの毎日新聞

2021年2月4日木曜日

自転車日記⑨

 自転車日記⑨

1980年9月19日(金)曇り

 月刊雑誌サイクルスポーツの広告欄に、「自転車に関する珍品、奇品、古道具及び昔の自転車製造工具、警番、木製ポンプ、竹製荷掛、ノーパンクタイヤ、明治時代の自転車等を蒐集しているので、ご存じの方は連絡下さい。
「レジャーランド、フジサワ」というのが載っていた。
 古い物を集める方法として、このように雑誌で探求するのも良いと思うが、果してどれ程の効果があるであろうか。サイクルスポーツ誌は、どちらかと云えば読者層が中学生や高校生などの若い世代なので、あまり期待できないのではないか。それならばむしろマス・メディアの筆頭である新聞に掲載した方が効率的であろう。
 しかし、話しは簡単なのだが掲載料がバカにならない。それに一回や二回の掲載では反応は余りない。ある程度間隔を置いて定期的に掲載する必要がある。 そうなると、余程カネに余裕のある人でないと長続きしない。効率的でしかも安上りの方法でなければダメだ。
 以前、職業別の電話帳を引っぱり出して、近いところの自転車屋さんから片っ端に「お宅には古い自転車やパーツ、カタログ等はありませんか?」と電話をかけた事がある。しかし、全く無駄に終ってしまった。むしろ、いたずら電話でないかと誤解され、相手にされなかった。それに、日本の自転車屋さんは、一般に奇麗好きなので、戦災をくぐりぬけた貴重なものでも、古いものは焼却してしまったか、ゴミとして出してしまっている。だが、田舎のあまり繁盛しない古ぼけた自転車屋さんには、今もあるかもしれない。クモの巣のはった天井に、埃をかぶった古い自転車が吊り下がっていることだろう。壁には赤く日に焼けた古いポスターが貼られ、棚には乱雑に工具や部品類が積んであるかもしれない。
 それでは、どうしたらこの様なものを集めることができるか。一人だけで探していては、自ずから限界があり、結果的にもたいしたものは集まらないであろう。最善の方法は、やはり一人でも多くの同好の士を募り、情報の輪を広げて行くことではないか。


註、現在は便利な時代になった。ヤフオクなどで簡単に探しだすことができる。
ただし、歴史的に価値のあるものは、殆ど不可能に近い。いまだに50年以降のクラッシクパーツなどが中心になっている。それもほとんどが外国製のブランド物に集中している。国産のパーツや完成車はいまだ人気がない。戦前の国産完成車や国産パーツ類に興味が向かうとよいのだが、無理であろうか。
おそらく現物はゴミとして既に捨てられている可能性が高い。
(2021年2月4日、記)

2021年2月3日水曜日

空中自転車と水上自転車③

 空中自転車と水上自転車③

 これも水上自転車の話し、雑誌「輪界」(第11号、明, 42.7.25 発行)に、石山式水上自転車発明談と云う次のような記事がある。

 石山式水上航行器の発明者埼玉県熊谷町48番地平民石山善太郎氏が今回其筋の特許を得たる水上自転車に付き一言せん

 石山氏の経歴
 石山氏は今年26才の青年にして熊谷町に生れ幼にして熊谷小学校に学び明治32年進んで熊谷中学校に入り同校卒業後は専ばら商業により身を立てんと欲し出京の上早稲田大学商科に学びしが中途にしてやめ郷里に帰臥し居たり茲に氏の厳父新蔵氏は幼より発明を好み家事一切は父ならびに家内等に任せ専ら諸種の発明に腐心し従来其功を完うしたる者尠からざりしとなるが明治17~8年の頃より水上航行器を発明せんと心懸け種々苦心する処ありしも不幸にして最新の科学的素養なきため之が発明を善太郎氏に依頼したり然るに善太郎氏も中学こそ卒へたれ工芸科学に関する素養なきより爾来独学にて此等の研究に従事し専念苦心の結果漸々一昨年末に至りて略々理論に合致したる考案成りたるより再び之を持参し上京したり。

 実験の困難
 石山氏は之を友人等にもかたく秘し成功の暁発表せんと思い居りしが如何にせん之が実験の頗る困難にして若し公衆に悟らるるが如きことあらば折角の苦心も他に占領さるるの恐れありとて自身は製図等にも熟練し居ざるより止むなく一友人に託して製図し且つ芝浦製作所理事石川角造氏の経営せる芝区三田四国町の特許模型品製作所に至り石川氏に事情を打明けて製作方を託したるが如何なる事情や伏在しけん石川氏は受託後半年を経過するも之が製作を完成せざりしため昨夏には其筋の特許をも受けんと楽しみ居たることも水泡に帰し焦心憂慮屡々催促をなし漸く昨年 41年 10月頃に不完全ながらも工を竣れり

 実験の結果
 芝浦製作所に於て製造せる同器を以て品川湾にて実験したるが其結果は製作所にて工を粗雑にせるため二、三の欠点はありたれども理論上に於ては全然成功を見るに至りたるを以て直に特許局にも申請し之が特許を求めたるに幸にも特許を得るに至りたり

 価格と製造
 石山氏は熊谷町に於て製造所を有するにあらざるより之が製造販売は直ちに実行するは困難なる由にて氏は今や終生懇命の大発明に腐心し居ることとて之が特許権を譲渡さんとの考えを有し居れりと尚を製造費は全部鋼鉄製として130円ないし180円位にて製作し得る見込みなりと。


以上の記事であるが、
 この水上自転車も図面もイラストが無いため全くどのような形のものか分らない。
芝浦製作所でもまともなものが出来なかったところを見ると、かなり複雑な構造のようである。あるいは理論的にはすばらしい乗物かもしれないが、実用にならない代物かもしれない。
 いずれにしても、これだけの記事から推論することは不可能に近い。ここではただ、石山式水上自転車なるものがあったと云うことを、頭の片すみにでも入れて置きたい。
今後文中にあるような設計図が出て来るかもしれない。


2021年2月2日火曜日

自轉車の歴史

 以下の記事は「科学画報」昭和21年10月1日 発行より。

あらためてこれを読むと、かなり誤謬もあり違和感を感じるが、当時はこれが「自転車の歴史」についての最新情報であった。

自轉車の歴史
 今日では、どこにでも自轉車が走っているから、今更、自轉車の起源を訊ねる者も殆どないが、この自轉車の物語りは一篇のロマンスでもある。
 古い彫刻などを見ると、妙な自轉車らしいものがあつて、古代バビロニャ王國の人々も、事実、自轉車に乗っていたことが解るのであるが、これは例外として、われわれが自轉車と云ふ考へに似通ったものに出会うのは、スチュアート王朝時代の頃である。それは奇妙な考へであつた。2個の車の前後に置いて、足場とする棒のやうなものでつなぎ、その上に乗るのであった。左右の身體を動かせて、足で「押し出す」のである。昔の版画を見ると、紳士達がシルクハットを被つて、村はずれを滑っている図がよくあるが、これはこうした発明を諷刺したものである。一本の棒に跨っていて、然も威厳を保つて滑るなどとても容易な業ではなかったらう。その後、やや改良されて、車も輕くなり、また、以前は、前輪を左右に曲げることが出來ず、そのために、曲り角に來る毎に、乗りては降りねばならなかつたのであるが、その前輪を自由に曲げられるように発明された。そして乗り手が特に「押し出し」の出來るうに、スパイクのついた特殊な長靴が作られた。初期の自轉車は「ダンディー」とか「ホビー・ホース」(木馬)などと稱せられていたが、今日では博物館でも滅多に見られない程、風変りなものであつた。當時はこれに乗る乗り方教授の学校さへ開かれたのである。
然し、本当の自轉車の元祖といふのは今からほぼ一世紀ほど前にスコットランドに住んでいた鍛冶屋のカークパトリック・マクミランと云ふ男で、彼はこの「ホビー・ホース」に1個の曲柄を取り付け、全然地上に足を触れずに、ペダルで車輪を動かすようにした。

 自轉車はその後二十五年足らずのうちに、急速な進歩を遂げ、パリのコンベントリー会社が、一層軽快な自轉車を売りだした。所謂「鐵輪の自轉車」が出現、一八七〇年代までには想像以上に改良が加へられた。木に代り針金の輪止めが使用され車輪は金属製となり、狭い鉄製タイヤが用ひられた。車輪も変化して前輪が大きく、後輪が小さくなった。この種の自轉車は屡々「ペニー・ファージング」と稱せられている。
この型で、後に「オーディナリー」と云はれたものうちには、非常に背丈の高いのがあつて、乘り手は、五十四インチもある前輪の上に座り、その心棒についている曲柄を踏むのである。これは亦非常に危険であつて、 スピードを出すと、よく後方の小さな車輪が、上に持ち上ることもあり、そのために、乗り手は落ちて顔面をたたきつけられる。
 自轉車はその後も絶えず進歩改良が続けけられたが、鉄のタイヤが堅いゴムに代り、更に、はづみの付いたタイヤとなり、一八八八年に、空気入のタイヤが誕生して、現在の自轉車に至つてゐる。この間、車輪の配列も変化し、サドルが後方に移り、危険な前輪も小さくなった。ペダルも、もはや以前のように直接前輪を動かすことなく、後輪につながるギヤ付きの鎖によって、間接的に動かすやうになった。かくして遂に所謂「セイフティ」型の自轉車が出現した。これは旧「オーディナリー」型とは全く反対である。
「セイフティ」型の到来と共に、自轉車乘りは一躍、殆ど世界中に普及され、自轉車やタイヤを製作する会社が続々と現はれて、各々競争し、かくて、自轉車競争時代が始まった。スピードの試験は常に行はれ、自轉車競争を専門職業とする者さへ出て來た。そして、各会社では、これらの専門職業家を雇用し、給料を払って、訓練し、競争場で從來の記録を破らせるのである。
 これらの記録には驚くべきものがあつた。競争が激しくなつて、一人では足りず、二人乗り、三人乗り、果ては十人乗りの自轉車さへ作られた。彼等が一斉にベダルを踏むのである。
 今日では、こんな見世物式自轉車行列もすたったし、自轉車競争職業家を雇うこともしない。もはや、自轉車はわれわれ日常の必要物と化しておるのである。そして更にオートバイが普及されつつある。オートバイも最初は奇妙な形をしていたが、除々に完成され、超スピードをもって、何百哩もの旅行を平気でやれる。然し、如何にオートバイが発達しても、自轉車が全然無用になるということは、先づ考へられないのである。

挿絵
「科学画報」昭和21年10月1日 発行



2021年2月1日月曜日

老舗さんぽ㉙

 秋山サイクルは、40年以上前に尋ねた店である。
その後、ご無沙汰している。

このブログの「自転車日記」にも登場した、藤沢の秋山サイクルだが、知人の渋谷さんの話では数年前に廃業したとのこと。2015年の頃はまだ営業していたから、ここ3,4年の間に店を閉めたようである。
私は46年ほど前に3回この店を利用したが、どういう訳か違和感があり、その後プッツリと疎遠になってしまった。
或日の自転車日記には次のように書いてある。

1974年5月19日(日)晴れ
●ラレー・カールトンで藤沢市の本鵠沼近くの「秋山サイクル」へ行く。
店内にはデローサ、チネリ、ラレー・マークⅣ、ゼウス、メルシェ、プジョーなどが置いてあった。オレンジ入りのデローサは、これ見よがしに、入って右側の壁に掛けられていた。価格は30万円。ただ眺めるだけ。
横浜のシマダや金沢文庫の木下よりも世界の有名レーサーがそろっている感じがした。
店主が私のラレー・カールトンを見て「あんたのカールトンはホイールベースが1メートル以上あるのでよくない。コーナーリングなどでハンドルの切れが悪い。あそこにあるデローサなどを見てみなさい。みんなホイールベースは1メートル以下である。だからうちではこのような自転車は置いていない。カールトンはラレーに吸収されてから一般的になってしまった。まだプジョーの方がいい」こうまで言われると反論したくなるが「ああそうですか」と、生返事をしておいた。
いろいろな自転車店を数多く回っていると、店主の性格もわかり、なかなか面白い。
この店主もある面親切なのかもしれない。初心者には向いていると思う。
このラレー・カールトンは木下で購入したのであるが、乗り心地がよく気にいっていた。ホイールベースやトップチューブは多少長めだが、直進安定性が非常によく、長く乗っていてもあまり疲れなかった。競技向きではないが、よい自転車である。
ご高説を聞いた後、この店で自転車油、ベアリング・グリス、ソービッツのダイナモランプを購入する。

いろいろな自転車店を過去に尋ねたが、人によってその店の感じ方はさまざまであろう。対人関係同様、その店に合う合わないがある。確かに他の人に聞いてみると秋山サイクルは結構評判もよいと聞いている。私の場合は、たまたまそのような印象を受けたと思える。おそらく私の対応にも問題があったのであろう。他店で購入した自転車で訪れたのがまずかったようだ。
いずれにしても廃業は残念であるが、高齢と後継者がいないのであればやむ負えない。
また、自転車の専門店がこれで幕を閉じてしまった。
ちなみに創業は戦後の昭和30年代と聞いている。半世紀以上続いたりっぱな老舗であった。

廃業した秋山サイクル
Googleストリートビューより