2021年2月21日日曜日

自転車無銭世界旅行者中村春吉氏直話、完

 自転車無銭世界旅行者中村春吉氏直話、完

 翌朝出発に際して岡崎飛輪会の会員諸君が写真を撮ろうと云うので、私も共に撮影して8時40分に岡崎を出発しました。其時飛輪会の会員諸氏が私を見送ろうということになったのを堅く辞退しました所が、副会長の千賀君、幹事の牛田君外2君が然らば吾々が会員全体の代表をして見送ろうと云って2里許り送って呉れました。別れに臨んで道程を精しく聞いて、そうして私はボツボツやって来て御油に着きました。警察署へ寄って一寸休憩をして、午飯を食べて行けというのを辞退して其處を立ったのが11時頃でした。それから豊橋に着いたのが丁度12時頃でありました。

 直ちに双輪会の会長の許を訪ねました所が生憎不在でしたから、空しく其處を去って今度副会長の宅へ参りました。所が副会長も折あしく名古屋へ行って居らねから幹事の所へ是非行って呉れということでありましたけれども、それを私は辞退して警察署へ参って名刺を置いて直ぐ立とうとして居るところへ参陽新報記者の河合弘毅氏が来られて、是非宅へ立寄って呉れというので、それではと河合氏の宅へ寄って色々な話をして午飯の御馳走に興かって、そうして其處を立ったのが午後の3時ごろでございました。所が追風でありましたから帆を巻いて遠州浜松迄無事に参りました。其途中に於て浜名湖を渡る時分に非常に風が強く吹いて、浅い所ですから渡船の舵が岩に引掛ったために船が横に傾いて既に侵水せんとした、そこで私は是は堪まらぬと思ったから、いきなり帆を下して一生懸命に漕いで漸く船を進めて向うに無事に着きました。其時に沖商会の林五十三という人が同船して居って、君が乗っておらなかったならば船を覆すところであった、君の尽力で吾々は助かったと大層喜んで礼を云われた。それから浜松に着いたのが午後の5時30分頃でした。警察署へ参って名刺を置いて旅店の世話を頼んだ所が警察ではそんな世話は出来ぬと断わられました。それから浜名湖の渡しで同船した彼の林五十三という人の宿屋へ尋ねて参りました。ところが能く来て呉れたというので晩餐の御馳走に興かった上其晩は其處に一泊しました。

 翌7日の朝8時に其處を立って天龍川の渡しに差掛かった所が、どうしても無賃で通して呉れませね、彼此れ事情を述べて頼んだが、頑として応じませぬから、自分は斯様な物の分らぬ人物を相手にして居ては果てしがないと思いましたから、いきなり自転車に乗って、ツーと其處を通ってしまいました。それから小夜の中山を通って飴と御守とを貰うて金谷峠も無事に通りました。そうして静岡に着いて、何んという名前でしたか一寸思い出しませぬが大きな旅館に行って無料宿泊を頼みました所快く承諾して大層丁寧に扱って呉れました。

 8日の午前7時30分に其處を出発して無事に沼津に着いて、松本和平という大きな旅舎へ参って宿泊を頼みました所が、此處でも快諾して大層待遇を好くして呉れました。
 9日の朝警察署を訪問しました所が署長さんが歓迎して呉れて無銭旅行であれば手紙を出すのに印紙が要ろうと云って、印紙を数葉恵んで呉れました。此處を辞退して一旦宿屋に帰て自転車を背負う物をば板で拵えて午前9時20分に出発して無事に箱根をば上りました。箱根を通り越す時に水が一滴もないので実に困難しました。漸く先きの接待茶屋に着いて茶をよばれて渇を癒しました。此處を無事に通り越して下る時には自転車を背負うて下りました。それは午後の4時でした。其中に日が暮れてしまうし非常に空腹で堪へられなくなりましたから其處の茅屋に這入って、私は無銭旅行者であるが空腹で困難であるから、どんな物でも厭わぬから一椀の恵みに興かりたいと頼みました所、それは御困りであろう、サー遠慮なく此方へ御上りなさいと云って、香の物と魚の焼いたのとで御飯を馳走して呉れました。其時の味いは未だに忘れませね、其時に若し通行の外国人が空腹を訴へて来たらどうするかと問いました所、それは日本人でも外国人でも異りはない自分で出来得るだけ便宜を興えると申しました。其心掛けの好いのに実に感服致しました。其茅屋の主人というのは神奈川県足柄下郡湯本村字須雲川安藤寅吉という人です。此人の好意に依って腹拵えも出来、勇気も付きましたから厚く礼を述べて湯本へ下りました。そうして福住という旅館へ参って一泊を請いしに、主人が不在であるし殊に今夜は取込んで居るから泊める訳にいかぬと云うて断られました。
「そこで私は仕方がなく巡査駐在所へ行って荷物を解いて居る所へ福住旅館の若者が尋ねて
来て、唯今主人が帰りまして何故あなたを御泊め申さなんだ行って御伴れ申して来いと云われましたから御迎に参りました。どうか御立腹なく御同行下さいと言う。イヤそれは折角のことであるけれども自分は後に還ることは嫌いだ殊に今此處で承ればお前の家に今夜婚礼の祝い事があるそうだ。そういう取込みの所へ行って厄介になるのは好まぬと辞退して直ちに小田原へ向けて出発しました。そうして着したのは夜の10時頃でございました。
旅館片野屋へ参って一宿を頼みし所、客が充満して非常に混雑して居るのにも拘わらず快く承諾して大層待遇を好くして泊めて呉れました。

 翌朝8時頃に小田原を立って無事に神奈川に着きました時に、油がきれて困りましたから或自転車を貸す家に行って油をさして貰うて、其處を去って東京に向う途中に於て、平岡宗之助という人に会うて、色々話をして平岡君と同行して、午後の3時に無事に双輪商会の練習所に着きました。此度の旅行の経験に依りますると朝8時から午後4時迄25里駛るのは易々たるものです。そうして長途の旅行には極く必要欠くべからざる物の外は携帯せの方が宣いと感じました。マア此位にして措きましょう。(完)

明治35年1月1日発行雑誌『輪友』第3号より

本文に出てくる福住旅館
大正期の絵葉書