2021年2月26日金曜日

自轉車富士登山に就て

 以下の記事は雑誌「輪友」第1号 15頁 明治34年10月28日発行より

自轉車富士登山に就て

 本年は石川商会の連中が富士登山を試みられたが其率先者たる「ボオン」氏と鶴田氏の実験談を其時函根で両氏に出会って聞いたままにお話しましょう。

 先づ御殿場を發して登山に就た、所が合目(二合目か?)で暴風雨に遭った、絶頂に往つたのは丁度二日目のことであったさうだ。勿論往きには誰も乗昇することが出來ないので、合力に自轉車を担がして、登山したさうである。さて降りる段になって、ボオンの考案に成った彼の左官が土を捏ねるやうな舟、あのやうな物を持って往って(其の大きさは三尺四方丁度畳半畳敷位)それをどういう工合に使ったかと云ふに、何しろ彼等が降りたのは七合目からで、例の砂走りと云ふ所を降るのであるから、自轉車だけでは速力が早過ぎて、どうしても降下することが出来ない、そこで例の舟の上に、持って往った自分達の荷物を一杯載っけて、それへ綱を附けて、それを自轉車に結付ける。詰まり自轉車が、その舟の綱曳をするのである、其の時に鶴田はデートン、ボオンはクリーブランドに乗って居った、モウ一人同行の西洋人(デビン)があったが、其人が持って往った寫眞器で、寫撮った十数枚の写真が、同人から私の手許に贈越されてあるからして、孰れ其のうち、諸君に御覧に入れることに仕様と思ふ、デ登山の稽古をするには、どうしても前に話したやうな舟を持って往って、帰りには其の舟の上に荷物を載せて、そいつを自轉車で曳いて降りて来るのが、一番好い工風であると考へる。それからブレーキの付いた車が一番宜いやうである。其の時に鶴田がブレーキ無しで降りて来た所が、どうしても車が止められないので、己むを得ずサドルから尻を放して、自分の尻でタイヤヘブレーキを掛けて降りた。所がズボンも、厚い下着も破れて仕舞って、尻が出るという始末、それから彼等は御殿場から山伝ひに函根の小地獄(小涌谷か)を経て蘆の湯へ來た、其處で丁度私に会ったのです、話を聞いて見ると、随分登山中風雨の困難はヒドかったさうです。尚今年あたりもボオンが先達になって、自轉車講というものを造って、登山すると云う話は聞いて居ったが、ボオンは病気か何かの為にオジャンになったらしい。此時の寫真は昨年私が米國に往った時分に、始終外國人に見せて話をしたが、大分皆驚いて居つた様である。

富士山ダウンヒル
明治33年8月21日
「私は自分のクリーブランド号に乗り、
デビンは小橇(そり)に乗った」
(ヴォーガン紀行文より)

註、この富士山で撮影された写真は、以前に前田工業の河合淳三社長(故人)がアメリカから持ち帰り、下記の新聞や雑誌で紹介され、話題を呼んだ。

昭和56年5月号の「サイクルスポーツ」誌(八重洲出版)
昭和60年4月18日付の朝日新聞

しかし、この記事を読むと、既に明治34年には写真を撮ったデビンから十数枚の写真が送られてきたとある。この記事の筆者は記入されていない。誰なのか「輪友」の編集者の關巌二郎(関 如来)か?
明治34年の双輪商会の広告にもその写真の一部が使われている。

明治34年11月25日の『輪友』第2号51頁
双輪商会の広告