明治35年3月10日発行の「輪友」第5号に小田原に観梅遠乗会を実施した記事あり。
小田原の看梅遠乗會本會有志十数名は二月十六日午前八時横濱停車場を出發し東海道を順路小田原に赴き小峰の看梅を催したり早急の企てなると降雪後道路の悪しきとを氣遣ひ出乘者少なかりしも勇輪義會の有志之に加はりたるため一層の愉快を覚えたり
註、1902年であるから今から119年前の話である。最近なら曾我梅林の方が有名で、いまでは小田原の小峯へは殆ど観梅にいかない。本日念のために小峯を訪れたが、殆ど梅は見当たらず数本だけ水道施設の周辺にあっただけで、むしろ桜の木の方うが多く、花の咲くころにはちょっとした名所になっている。
当時は小峯と城址公園あたりがが有名だったのであろうか。
雪が降った後なので当然ながら当時の東海道の未舗装道路では泥濘に難渋したようである。
勇輪義會については、佐藤半山の輪界追憶禄の以下が詳しい。
●勇輪義会
この会は明治34年4月に結成された。東京バイシクル倶楽部や金輪倶楽部のように競走会を主たる目的とするのではない。自転車の普及発達をはかり国家に一朝ことあるときは自転車をもって国に奉公するを目的としたものである。
このため、その目的に共鳴する者が多く、盛岡、仙台、福島、水戸、土浦、結城、鹿沼、横浜、徳島など各地に会員が組織されて400人を超し、支部も多くできた。
勇輪義会は陸軍大尉・梅津元晴、東宮和歌丸、それに筆者も加わって組織したものである。会長には海軍少将・新井有貫君を戴き、副会長には陸軍戸山学校の体操科長である鵜沢総司(日露戦争に連隊長として出征、沙河会戦で戦死)君を推した。発会式は30余人で遠乗り会を催し、小宴を張った。
会員はみな制服、制帽、徽章を佩用するがその服も帽子も陸軍士官のものとよく似たもので、軍人とちがうのは佩剣がないだけであった。
ときどきは梅津大尉の指揮で青山練兵場で軍事操練をおこなったもので、そのときは陸軍払い下げの銃を帯用していた。
日露戦争がはじまると、各地の会員は召集令状を自転車を使って伝達するなど、各地町村役場の手伝いをして大いに賞賛された。
本部事務所は筆者宅に置き、雑誌「自転車」を会の機関紙としていた。
小峯の梅
2021年2月16日撮影