あらためてこれを読むと、かなり誤謬もあり違和感を感じるが、当時はこれが「自転車の歴史」についての最新情報であった。
自轉車の歴史
今日では、どこにでも自轉車が走っているから、今更、自轉車の起源を訊ねる者も殆どないが、この自轉車の物語りは一篇のロマンスでもある。
古い彫刻などを見ると、妙な自轉車らしいものがあつて、古代バビロニャ王國の人々も、事実、自轉車に乗っていたことが解るのであるが、これは例外として、われわれが自轉車と云ふ考へに似通ったものに出会うのは、スチュアート王朝時代の頃である。それは奇妙な考へであつた。2個の車の前後に置いて、足場とする棒のやうなものでつなぎ、その上に乗るのであった。左右の身體を動かせて、足で「押し出す」のである。昔の版画を見ると、紳士達がシルクハットを被つて、村はずれを滑っている図がよくあるが、これはこうした発明を諷刺したものである。一本の棒に跨っていて、然も威厳を保つて滑るなどとても容易な業ではなかったらう。その後、やや改良されて、車も輕くなり、また、以前は、前輪を左右に曲げることが出來ず、そのために、曲り角に來る毎に、乗りては降りねばならなかつたのであるが、その前輪を自由に曲げられるように発明された。そして乗り手が特に「押し出し」の出來るうに、スパイクのついた特殊な長靴が作られた。初期の自轉車は「ダンディー」とか「ホビー・ホース」(木馬)などと稱せられていたが、今日では博物館でも滅多に見られない程、風変りなものであつた。當時はこれに乗る乗り方教授の学校さへ開かれたのである。
然し、本当の自轉車の元祖といふのは今からほぼ一世紀ほど前にスコットランドに住んでいた鍛冶屋のカークパトリック・マクミランと云ふ男で、彼はこの「ホビー・ホース」に1個の曲柄を取り付け、全然地上に足を触れずに、ペダルで車輪を動かすようにした。
今日では、どこにでも自轉車が走っているから、今更、自轉車の起源を訊ねる者も殆どないが、この自轉車の物語りは一篇のロマンスでもある。
古い彫刻などを見ると、妙な自轉車らしいものがあつて、古代バビロニャ王國の人々も、事実、自轉車に乗っていたことが解るのであるが、これは例外として、われわれが自轉車と云ふ考へに似通ったものに出会うのは、スチュアート王朝時代の頃である。それは奇妙な考へであつた。2個の車の前後に置いて、足場とする棒のやうなものでつなぎ、その上に乗るのであった。左右の身體を動かせて、足で「押し出す」のである。昔の版画を見ると、紳士達がシルクハットを被つて、村はずれを滑っている図がよくあるが、これはこうした発明を諷刺したものである。一本の棒に跨っていて、然も威厳を保つて滑るなどとても容易な業ではなかったらう。その後、やや改良されて、車も輕くなり、また、以前は、前輪を左右に曲げることが出來ず、そのために、曲り角に來る毎に、乗りては降りねばならなかつたのであるが、その前輪を自由に曲げられるように発明された。そして乗り手が特に「押し出し」の出來るうに、スパイクのついた特殊な長靴が作られた。初期の自轉車は「ダンディー」とか「ホビー・ホース」(木馬)などと稱せられていたが、今日では博物館でも滅多に見られない程、風変りなものであつた。當時はこれに乗る乗り方教授の学校さへ開かれたのである。
然し、本当の自轉車の元祖といふのは今からほぼ一世紀ほど前にスコットランドに住んでいた鍛冶屋のカークパトリック・マクミランと云ふ男で、彼はこの「ホビー・ホース」に1個の曲柄を取り付け、全然地上に足を触れずに、ペダルで車輪を動かすようにした。
自轉車はその後二十五年足らずのうちに、急速な進歩を遂げ、パリのコンベントリー会社が、一層軽快な自轉車を売りだした。所謂「鐵輪の自轉車」が出現、一八七〇年代までには想像以上に改良が加へられた。木に代り針金の輪止めが使用され車輪は金属製となり、狭い鉄製タイヤが用ひられた。車輪も変化して前輪が大きく、後輪が小さくなった。この種の自轉車は屡々「ペニー・ファージング」と稱せられている。
この型で、後に「オーディナリー」と云はれたものうちには、非常に背丈の高いのがあつて、乘り手は、五十四インチもある前輪の上に座り、その心棒についている曲柄を踏むのである。これは亦非常に危険であつて、 スピードを出すと、よく後方の小さな車輪が、上に持ち上ることもあり、そのために、乗り手は落ちて顔面をたたきつけられる。
自轉車はその後も絶えず進歩改良が続けけられたが、鉄のタイヤが堅いゴムに代り、更に、はづみの付いたタイヤとなり、一八八八年に、空気入のタイヤが誕生して、現在の自轉車に至つてゐる。この間、車輪の配列も変化し、サドルが後方に移り、危険な前輪も小さくなった。ペダルも、もはや以前のように直接前輪を動かすことなく、後輪につながるギヤ付きの鎖によって、間接的に動かすやうになった。かくして遂に所謂「セイフティ」型の自轉車が出現した。これは旧「オーディナリー」型とは全く反対である。
この型で、後に「オーディナリー」と云はれたものうちには、非常に背丈の高いのがあつて、乘り手は、五十四インチもある前輪の上に座り、その心棒についている曲柄を踏むのである。これは亦非常に危険であつて、 スピードを出すと、よく後方の小さな車輪が、上に持ち上ることもあり、そのために、乗り手は落ちて顔面をたたきつけられる。
自轉車はその後も絶えず進歩改良が続けけられたが、鉄のタイヤが堅いゴムに代り、更に、はづみの付いたタイヤとなり、一八八八年に、空気入のタイヤが誕生して、現在の自轉車に至つてゐる。この間、車輪の配列も変化し、サドルが後方に移り、危険な前輪も小さくなった。ペダルも、もはや以前のように直接前輪を動かすことなく、後輪につながるギヤ付きの鎖によって、間接的に動かすやうになった。かくして遂に所謂「セイフティ」型の自轉車が出現した。これは旧「オーディナリー」型とは全く反対である。
「セイフティ」型の到来と共に、自轉車乘りは一躍、殆ど世界中に普及され、自轉車やタイヤを製作する会社が続々と現はれて、各々競争し、かくて、自轉車競争時代が始まった。スピードの試験は常に行はれ、自轉車競争を専門職業とする者さへ出て來た。そして、各会社では、これらの専門職業家を雇用し、給料を払って、訓練し、競争場で從來の記録を破らせるのである。
これらの記録には驚くべきものがあつた。競争が激しくなつて、一人では足りず、二人乗り、三人乗り、果ては十人乗りの自轉車さへ作られた。彼等が一斉にベダルを踏むのである。
今日では、こんな見世物式自轉車行列もすたったし、自轉車競争職業家を雇うこともしない。もはや、自轉車はわれわれ日常の必要物と化しておるのである。そして更にオートバイが普及されつつある。オートバイも最初は奇妙な形をしていたが、除々に完成され、超スピードをもって、何百哩もの旅行を平気でやれる。然し、如何にオートバイが発達しても、自轉車が全然無用になるということは、先づ考へられないのである。
これらの記録には驚くべきものがあつた。競争が激しくなつて、一人では足りず、二人乗り、三人乗り、果ては十人乗りの自轉車さへ作られた。彼等が一斉にベダルを踏むのである。
今日では、こんな見世物式自轉車行列もすたったし、自轉車競争職業家を雇うこともしない。もはや、自轉車はわれわれ日常の必要物と化しておるのである。そして更にオートバイが普及されつつある。オートバイも最初は奇妙な形をしていたが、除々に完成され、超スピードをもって、何百哩もの旅行を平気でやれる。然し、如何にオートバイが発達しても、自轉車が全然無用になるということは、先づ考へられないのである。
挿絵
「科学画報」昭和21年10月1日 発行