2021年2月25日木曜日

日本に於ける自轉車の沿革

明治34年10月28日発行「輪友」第1号に興味ある記事があったので、以下に紹介する。

 森村兄弟が初めてダルマ自転車で旅行した話や、その自転車のメーカーが米国シカゴのゴーマリー、アンド、ジェフリー社(Gormully & Jeffery) であったこと、鶴田勝三選手が横浜のクリケット俱樂部などのレースで活躍したことなどが明治期の小史として簡潔にまとめられている。

 日本に於ける自轉車の沿革

某 生

 日本に於ける自轉車の沿革と云ふやうなことに就て、私に話をしろと云うことですが、私は其の事に就ては余り詳しく知りませぬから、友人の森村開作君に依頼して、氏の日記中耳新らしい節だけを、お話することに致しませう。

 自轉車の日本に初めて輸入されたのは、勿論日本人がしたので、時は明治十四年、矢野次郎、中村康興、森村市右衛門の三氏が、初めて英国製の三輪車、皆さん御承知の背後に二つ車があって、前に一つ車のある、腰懸けがあって、詰まり椅子に腰を懸けて脚を動かして居るやうなのであります。それで其後例の森村開作君及び同君の亡兄などが稽古をしたのは、明治十九年の頃でしたようです。其時分には今の安全車と云ふやうな物は無くて、木製のガタクリ自轉車でありました。夫から俗に一輪半という前輪の非常に大きいやつもあつたのです。
それで其の時分に 神田の秋葉の原今の鉄道敷地になって居る所に、三軒貸自轉車屋があった、勿論これとても木製の自轉車と例の一輪半と云ふやつばかりでした。只今神田の一ッ橋外に自轉車屋をして居る吉村といふは其の頃秋葉の原に居ッた一人です。例の森村開作君などが稽古をした時分には、教える人もなければ又理屈も知らないので、殆ど十日間程かかって漸く乗ることが出来たと云ふ話です。今なら三日間位で出來るのに。
 それから其の時分に土曜とか日曜とか云ふ日には、能く函根其他鎌倉等へ遠乗りをされたさうです、共日記の中に書いてあるのに、函根の湯本に、森村開作君と其の亡兄明六君、それから大倉和親君、今の日本橋の大倉商會の息子さんです。其の三君で土曜日の正午に東京を發し、国府津で日の暮れ方になって、それから鐵道馬車に乗って、湯本まで行き、一泊して翌日曜日は早朝に湯本を立って、江ノ島で昼食をして東京へ帰って來られた。是等の人々が長距離の旅行をしたのは明治二十六年の五月だったさうです。自轉車は例の高いやつで、米国シカゴ、ゴマリー、アンド、ヂャフリー会社製で、今日なら古物展覧会へでも出るやうな品であったそうです。それで明治二十六年の五月十日に、高輪の八ッ山下を發して藤沢まで行ったそうですが、雨の降るのでやむを得ず汽車に乗って、名古屋まで往き、十三日に名古屋を發して大山に泊り、十四日に石山寺で開帳などを見物して居つた所が、友人に出會ったのでそれから汽車に乗って京都に往くことにした。是は皆な自轉車旅行というよりは寧ろ汽車旅行でありました。併ながら帰りは殆どぶっとうしに自轉車旅行をされたので、五月二十三日に神戸を発し、其の晩は京都に泊り、翌二十四日に京都を發して参宮街道の木樟駅(樟葉駅?)に泊り、廿五日には雨天であったので一行は各々番傘をさしかざいして乘りながら、伊勢の内宮外宮を見物して二見ヶ浦に泊り、二十六日は暴風雨で早朝出發するここが出來ず、午後小降りになるのを待って漸く出發、二里あまりで宮川に出た所が川止であったので、已むを得ず其の處に泊り、二十七日は快晴なので朝六時半に出發して、夕の六時四十分に , 鳴海について其の處に一泊、二十八日は浜松、二十九日は興津、三十日は函根の湯本に泊った。函根を上下するの時、何しろ例の高い一輪半でありますから、それを持ち運ぶのに非常に困難を極めたそうで、三十一日に湯本を發し、江の島で昼食をして、東京に帰られたそうです。

是等は随分今日の自轉車乗りを偉若せしむる程の旅行であったと思ひます。それから其の次に我々の眼に映じたので、自轉車を実用に供して居られたのは、築地のゼームスサンマー氏である。同氏が慶應義塾に毎日通ふて行かれるのに、安全車に乗って居られました。是はモウ今日の安全自轉車と同じ物ですが、唯タイヤが空気入りでなかっただけで、この時分より漸く空気入りタイヤーが輸入されて、例の一ッ橋の吉村の店などでチョイチョイ見受けるやうになった。其の頃吉村へ来る人のうちで、自轉車乗りの一隊が組織されてあって、今の建物会社の木村粂市氏などが、餓鬼大将になって、王子の瀧の川などへ遠乗りをされた、それがそも今日の大日本双輪倶楽部の起りなのであります。其後に二六新報社の秋山氏などが乘るやうになつて、追々と今日の如き流行を見るやうになったと思ひます。

挿絵の一部

 初めて自轉車俱樂部と云うものが出來たのは、明治二十九年の十一月の天長節に、今の双輪倶楽部の元老達、即ち名前を挙げて言ふと、秋山、佐藤、玉置、脇屋、米津、三浦、加藤木、日比谷、小林作、鶴田、吉田、などと云う連中が、横浜の日本バイシクル倶楽部、是は西洋人と日本人との自轉車倶楽部で、横浜のクリケット俱樂部の中に立つて居るので、其の倶楽部の会員は、凡そ三十人程あった。之を招待して、俱に神田の濱田自転車店の所から、向島の小松園へ遠乗りをして、彼處で昼食の饗応に神楽か何かの余興があつたのが、そもそも団体の遠乗りの一番初めで、それが本となって今日の双輪倶楽部が出来た。それで其時分には重に、クリーブランド、デートン、クレセント、コロンビャ、ストーマ、アメリカ ン トラベラーと云やうな車が來て居つた。そこで日本人が自轉車の競争をしたのは、其の翌年の春でしたか或は亞利米加獨立祭の時でしたか、ドッチかであったと思ふが、初て鶴田君が横浜のクリケット俱樂部のトラックで競争をしたのが抑々初めで、其の時分に横浜には、スコット、ベーン、ビーメーソン、アーウィン兄弟、ストラッセル、是等の人が自轉車のチャンピョンであッた。其のうちでスコットにべーンの二人が何時でも頭角を争って居つた、それで三十年の秋のレースに鶴田君が出て二等賞か何かを取ったのが一番初めであったと思ふ。其の時のレースに横浜の四十二番館主からデートンの競走車を一台賞品として出した其のレースに、スコットとべーンの二人がフィニッシュラインで衝突して、何方が先に這入つたか大変な悶着が出来た。それから間も無くべーンは帰国することになって本國へ帰って仕舞った。三十一年の秋に上野の不忍地畔を借りて、双輪俱樂部で競争会をしたのが、日本人の自轉車競争会をしたのが一番初めで、其のレースに鶴田君が二十哩競争で非常な評判を取った。其の時に乗った車はクレセントの確かレーサーだつたと思ふ。

 それから三十二年の春のレースにまたビーメーソン兄弟、スコット、鶴田の四人が二十哩の競争を不忍畔でやつた。その時も非常な勢いで鶴田が勝つた。その後横浜のレースに於てアーウィンに勝ちボーンに勝ちしたので鶴田君は非常に名声を挙げることになった。それから其の時分に小野寺正一郎と云ふのが鶴田に続いての日本人中の選手であつたが、此人は始終車の故障などで、思はしき結果を得ることが出來なかった。デ最も自轉車の流行を仕初めたのは、三十二年の秋からッィ一兩年のうちに、此んなに盛大になって来たのである。それから大阪にも丗二年の頃から石井といふチャンピョンが現はれて来て、既に東西聯合の大競争をやったのが、今年の春のレースであった。その時の競争には例の中務と鶴田の二人が大阪に赴いて競争をした。其後鶴田はモウ競争に出るのをよすつもりで居るので、その後釜を見付けて居る時に、遂に選定されたのは中務である。中務は僅か半年そこらの間に、津田と鶴田の二人が熱心に教えた丈あって、東西のチャンピョンの一人と立派に成上つて仕舞った。何づれ来る十一月には石井と中務の競争があるだろう。その結果で何方が強勇か判然とするであろうが、今の所では何方がドウと云ふことも出来ないが。
 デ余り競争する人のことばかりしゃべって仕舞ったが、皆さんも御承知の通り、彼のブラックと云う亞米利加人が来てから、自轉車の曲乗りが非常に流行をして、此頃では日本人のうちでも小林作太郎氏などはなかなか彼にも負けぬ程の技量を練習せられた。先づザット自轉車の履歴は此位にして、是から後は一々其の人達のことに就いて、お話をすることにしましょう。

明治34年10月28日発行「輪友」第1号より