2021年1月31日日曜日

自転車日記⑧

 自転車日記⑧

 1974年7月27日(土)晴れ
ラレー・カールトンの後ブレーキを調整したところ、この調整が悪く、すぐにロックするようになった。ブレーキは少し片ききぐらいのほうがよいのかもしれない。それにレバーの遊びも必要である。

今後訪ねたい自転車店は、
● 世田谷区駒沢5-26-8のサイクルセンター・エノモト
取扱自転車は、VELO・ロードレーサー、ルジュン、メルシェなど。
(註、2015年11月30日に閉店)

●野口サイクル、横浜市中区花咲町1-48(桜木町駅そば)

 1974年7月28日(日)曇り
茅ヶ崎駅南口の総合輸入商へ。店内を覗いてみる。
自転車はモトコンフォール(仏)、それとアメリカのビーチクルーザーなど。
この店は外国雑誌などから自分の気に入った自転車を依頼すると、例えばアメリカなら1ヶ月で手元に届くそうである。当然、すべての自転車ということではないと思うが。
具体的には分からないが、かなりの手数料をとられることは確かのようだ。
ちなみに店に置いてあった自転車の価格を聞いてみたが、ラレー・ロードスター程度で6万円以上とのことで、とてもこの店では買う気にならない。

●海外の自転車雑誌、
ラッド・マルクト(独)、ル・シクル、ミロワール・ド・シクリズム(仏)、アメリカンサイクリスト&モーターサイクリスト、モーターサイクリスト&サイクルトレーダー、インターナショナル・サイクルスポーツ(英)など。

 1974年7月29日(月)曇り
自転車広報センターに、海外の雑誌に付いて照会したところ、次のような回答があった。
「うちの方では分からないので、日本自転車競技連盟(FJC)の一条さんに聞いてみてください」

その後、FJCに電話したが一条という人は休みで、海外事業部というところに電話はまわされた。なんとかここで聞き出せたが、あまり詳しいことは分からなかった。

註、(2021年1月31日、渋谷氏のコメント、「一条さんは、JCFができるまで形式的にUCIの窓口団体の実質トップの役員でした。亡くなって競技大会のプログラムや記念品のバッチなどが自転車文化センターに寄贈されたはずです」とのこと。) 

 1974年7月31日(水)曇り
東京、日本橋の丸善へ。
洋書の注文をする。
インターナショナル・サイクルスポーツ(英)を依頼したところ、この雑誌は自己注文ということで、ダメであった。
「それでは、こちらで扱っている自転車雑誌を教えてください」と言ったところ、
サイクル(米)、サイクリング(英)、ル・シクル(仏)とのこと。
そこで、サイクル(月刊誌3.000円)とサイクリング(週刊誌8.000円)の2雑誌を注文することにした。いずれも12月から入荷予定。

丸善からの帰路、横浜桜木町の野口サイクルを訪ねる。
ブレーキばさみ、リムセメント、を購入。
38,000円のカールトンのフレームが置いてあった。他に、レニアーノ、サンノー・ロードレーサー、メルシェ(ツーリング車)、ビセンザ製プロ・ロードフレーム、ゼウス・トラックフレーム、ルジュン・ロードレーサーなど。

註、ビセンザ製とは、聞かない名前である。日記の書き間違えか?イタリアにヴィチェンツァ(Vicenza)という街があるが、そのことだろうか?)

2021年1月30日土曜日

地震と自転車

忘れたころに大地震は発生する。

近いところでは、東北地方太平洋沖地震や兵庫県南部地震など、まだ記憶に新しい、それ以外にも大きな災害をもたらした地震は多い。

下の記事は輪史会の会報「自轉車」第10号、昭和58年7月15日発行より。(一部修正)

地震と自転車

 東海地震はいつ起こるのであろうか。はたして地震予知は可能なのか。
昨年の12月未から今年の1月にかけて、伊豆大島近海では無気味な群発地震が続いた。
そして、2月27 日には東京、横浜で震度4の地震が発生し、新幹線や首都圏の国電が一時ストップした。気象庁では、これらの地震は直接東海地震との関連はないと言っているが、何んとなく不安が残る。巨大に発達した都市での災害は、我々の想像をはるかに越えるものであろう。
 昭和 55年8月、静岡市内の地下街でガス爆発があり、多数の犠牲者を出したことは、まだ記憶に新しい。地震の二次災害を考えたとき、恐らく都市のほとんどは壊滅状態になるに違いない。あらゆる交通機関は寸断され、破壊され単なる瓦礫の山と化すであろう。
 大正12年 9月1日、関東地方を襲った大地震はマグニチュード7.9という巨大なエネルギーを放出した。死者は10万人、全滅または倒壊した家屋は 50万戸にものぼった。
ところで、この地震の際、思いがけなくも威力を発揮したものに自転車があったということは余り耳にしないかもしれない。

 渡辺承策著"自転車の経済と其活用”大正14年発行によれば、
「此時唯一つ彼等を助けて偉大なる効験を実地に表した文明の利器があった。それは即ち自転車である。自動車はあってもガソリンが無くなっては最早無用の長物である。自転車のみは身軽に何等の助けをも借りずに障害物の多い道をも燕の様に飛び回って交通通信の連絡を完全につとめたのである。之れを以って見るに、自転車は平時に於ける経済的生活の必要機関たるのみにあらず、亦非常の際に於ける活動機関として備付けて置かねばならぬものなることが明らかである。」

はたして60年前に威力を発揮したという自転車が、現在の複雑化した社会での災害にそのまま当てはまるかどうかは疑問だが、他の交通機関である自動車や電車などと比較して考えた場合、その可能性は十分あるのではないかと思われる。
防災グッズと伴に、是非自転車も非常用に備えておいてはいかがであろうか。

震災後の東京・京橋通り
右側に自転車に乗る人物がみえる

2021年1月29日金曜日

大日本自轉車會社の勃興

大正期の雑誌「輪々」(大正11年発行)に下記の記事あり。

第一次世界大戦が1914年(大正3)に勃発してからは、欧米からの自転車及び部品の輸入が激減し、それに伴い国産車の量産体制が進んだ時代であった。
日本国内の輪界は宮田、岡本、大日本という自転車製造業を中心とした三社鼎立という時代をむかえたのである。

 ○大日本自轉車會社の勃興
此際観過すべからざる事實は大日本自博車會社の勃興である。英国のラージ自陣車と提携し其熟練なる技術を基礎とし大正五年組織されたる大日本は宮田、岡本の間に介立して努力奮励の結果は早くも其存在を認められ、今や其能率に於ても生産力に於ても技術に於ても一步を抜くと稱さる、即ち現今の製輪界の競爭は京都の大澤商會及び名古屋の輸商を背景とする岡本工場と宮田工場及日米商店を背景とする大日本との三派鼎立の勢を以て本年度及び來年度の輪界に角逐すべく此競爭は又再たび昔日の劇甚を現出するにあらざるかを想像される。

大日本自轉車會社の勃興 6頁
「輪界の将来」 岡崎久次郎、記述

目次

大日本自博車の広告

雑誌「輪々」創刊号(大正11年発行)

2021年1月28日木曜日

沖縄の自転車第1号

沖縄の自転車第1号

字大川(沖縄県石垣市大川)の石垣信雄氏は、日露戦争に従軍中支那天津で自転車をおぼえ、明治40年(1907年)八重山警第1号の自転車を買った、これは熊本県人池田某の所持品であったが、流質し、代金20円であったという。(石垣氏は金鵄勲章功7級、軍曹である。)

※この記事は“琉球”第11号 琉球史料研究会、1959年12月28日発行、波座真氏記録(八)、三島 格(ホ)諸事の始りより。

沖縄の自転車第1号について書かれたものであるが、明治40年というと、本土ではこのころ既に保有台数が12~13万台あったので、かなり遅いような気がする。しかし、八重山警第1号という具体的な登録番号は、いかにも信ぴょう性があり、おもしろい。また、質流れの自転車を20円で買ったとあるが、当時の新車は50円~150円であったので妥当な値段であるよに思える。

2021年1月27日水曜日

新製陸舟奔車

 新製陸舟奔車についての英語版の動画は下記で見ることができる。

NHK WORLD-JAPANより
動画は → こちら


老舗さんぽ㉘

 昨日の「老舗さんぽ」は、また小八幡の鈴木自転車店である。

やはり店は閉まっていた。どうやら休業状態が続いているようである。理由は分からない。
店の小さなウインドウから、店内を見るとブリヂストンサイクルのクラシック自転車が見えた。クラシックと言っても20年ほど前の実用車である。ブレーキを見るとワイヤー式ではなくロッド式である。銘柄は、ジュピターS型(兼用スタカードフレームタイプ) である。現在は製造中止になっている。
帰路、小八幡海岸に行ってみる。丁度、ススキ自転車店の裏手が海岸である。堤防の手前に鈴木自転車店の倉庫と思われる建物があった。立ち入り禁止のロープ替わりに自転車のタイヤチューブを繋ぎ合わせてたものが張られていた。間違いなく鈴木自転車店の倉庫であることが分かる。
小八幡海岸で小休止をした後、小田原方面に向かう。たまたま、杏林堂クリニックを通り過ぎ、何気なく左手を見たら、鈴木商会と書いた小さな琺瑯の看板が目に入った。たぶんここが、酒匂に2軒あった鈴木自転車店のもう一つの店であると確信した。現在は自動車の整備工場になっているが、以前は自転車店である。
酒匂川を渡り、小田原の東町へ向かう。この国道1号線沿いに鈴一自転車店があるのを思い出したので寄ってみることにした。小田原に以前、鈴甲、鈴作、鈴一自転車店の3店があったが、現在はこの鈴一自転車店のみ営業している。穴部の鈴作は健在だが、竹の花にあった鈴甲、鈴作自転車店は廃業してしまった。
残念ながら鈴一自転車店は留守のようで、2,3話を聞こうと思ったが、次の機会にする。
寿町の松村自転車店を左に見て、扇町の小砂自転車店に向かう。丁度、店主の小砂さんがいて、先に鈴木商会の件を聞いたら、まさしく以前は自転車店であったとのこと。これで確認をとることができた。

それから、昭和40年代に自転車店であった、鴨宮の竹村自転車店の前を通る。現在は普通の住宅になっていて、まったく自転車店の面影はない。前の店主の息子さんは、竹村忠孝(1954-2018)氏で北原白秋などの童謡研究家として著名な人であった。

スズキサイクル 小田原市小八幡3-15-1

ブリヂストンの実用車

鈴木自転車店の倉庫か?

旧鈴木自転車店 小田原市酒匂3-3-6
現在は自動車整備工場(鈴木商会)


鈴一輪業 小田原市東町3-10-16

松村サイクル 小田原市寿町2-2-16

旧竹村自転車店 鴨宮

2021年1月26日火曜日

下曽我駅前の写真

下の写真は小田原デジタルアーカイブスにあったもの。

下曽我駅から商店街の方向を映し出している。
左側に自転車店らしき店がある。店の前にはオートバイと自転車が見える。オートバイの数が多いところを見ると、主力の販売はオートバイのようである。
現在この場所にあるのは(有)杉崎モータースで主にスズキ自動車の販売と修理をおこなっている。同じ経営の店であろうか?戦前の下曽我には2軒の自転車店があった。一石自転車店と星野自転車店である。
バイク屋の隣は正栄堂という和菓子屋で、現在も続いている。屋根の看板には森永ミルクキャラメルとある。
駅に向かう和服姿の女性も見える。道路は舗装されていない。
右側に微かに自転車という文字が見える。自転車預かり所と思われる。その奥に「パチ・・・」という文字も。写真手前は、駅舎入り口の大きな柱である。
下に現在の写真を載せたが、殆ど昭和29年の景色とあまり変わっていない。

 小田原デジタルアーカイブ
1954年(昭和29)
小田原の下曽我駅前

現在の駅前
2021年1月25日撮影


2021年1月25日月曜日

自転車乗用の医学的観察③

 自転車乗用の医学的観察③

友達の意見を聴いて見ました所が頗る宜かろうと云うことで、かたがた之をやり始めたのであります。なぜかと云うに勿論程度の問題であるが、適度に乗れば却て直腸周囲にうっ血を起すことを防ぐだろう。平生坐業を執って居るもので、運動することのないものには、自転車に乗る為めに、下腿を動かして直腸のうっ血を避けることが出来ると思います。
又近頃西洋から帰って来た所の人の話で、西洋では軽度の痔核のあるのに、自転車をすすめると云うことを聴いた。これは必しも私は保証はしないが、然し私は其時既に乗って居った。其一言の為めに乗ったのでもありませんが、とにかく人に依っては決して悪くはないと云うて居る。日本で軽度の痔核のあった人に医者が自転車を止めたと云う話がありますが、それは自転車の事を知らなかった医者であると思います。勿論大きな痔核があって、それが痛んで居るのでは出来ない話であります。又呼吸器に関係がある。勿論筋を甚しく働かせることでありますから、炭酸を余計排出することは分り切って居る話で、肺が余計に働く、従って呼吸が多くなる。大変呼吸が迫る。もう少し進むと肺の方にも血流が余計来ると云うことになる。併し呼吸器の弱い人には容易に勤められない。特に寒い時は気管支カタル、喉頭カタル、咽頭カタルを起すと云う恐れがあるので、若し練習する人は、風に向って疾走する際には、自然少しく身体を屈め、出来得るならば頭丈け下へ下げて、口を閉じて鼻で呼吸をすると云うことが出来れば、容易に風を防ぐことが出来る。是は実際のことであります。それから若し充分に頭を下げることが出来なければ、或は鼻で呼吸する。特に舌を前上歯にあてて、冷たい空気が直接に喉頭に当ることを避ると云うことを注意しております。此位でございましても、喉頭及鼻カタルのあるものには斯う云うことは出来ない。須らく治療して後自転車に乗って然るべしだ。それから心臓は此自転車の問題に付ては、関係が多いのでございます。「ボート」を漕ぐ時は、余計肺を使う、自転車に乗ると心臓を使うということを云って居るのです。心臓は余計注意しなければなりませぬ。
医者に見てもらって心臓の疾患のある人は自転車に乗っては行かぬ。然し心臓の疾患でも、脂肪心の如きであったならば、或場合には宜しい。それで自転車に乗ると、第一に血圧がひどく昂まる。一定時を経ると、其反動として血圧が却て低下する。脈をふれて見ると少し余計に圧する時は脈が弱くなる。加え重複脈を呈して来る。それで或人が平素六十八の脈を有って居ったが、三時間自転車に乗ったら百五十二の脈拍になった。それでも少しも休まずに同じような速力で乗って居って、其後に計って見たら百になった。それから少し坂を登ったら、百二十になった。其後一度脈の数が少なくなって来たが、又速力を出し、非常の力を用いた為めに、百五十になった。
それから三時間程経って百五十二、休憩して又三時間乗って即ち九時間目で脈が八十になる。それから、十時間目でやはり八十しかなかったのでございます。若し慣れないのに、そう骨を折って乗るというと、容易に心臓を侵すと云う徴候があるから、是は最も注意すべきことである。現に心臓を悪くしたが為めに、斃れたと云う報告もあります。又心臓の弁膜に異常があって、医者の止めたにも拘わらず、乗って死に垂々としたと云う例もある。其血圧が亢進すると云うことに付ては尚を申します。自転車に始めて乗るときは、渇き易いものであるから、往々直ぐ水を飲む、身体が熱くなった時に、水を飲むと、如何なる場合でも宜しくない。即ち風邪を惹起すと云う事があり、又血圧を一層増すと云うことになるから、是も戒むべき点である。又自転車に過度に乗った為めに、一時性の或は持続性の心臓の疾患を起したという報告もあります。彼の有名なミュンヘンのエルテルが即ち脱脂療法を発明した人であります。此報告には自転車に過度に乗りし為め、心臓の境界が右の方に広がって居り、脈は屡々結滞し、それから胸部には圧迫の感がある。或は膨隆の感がある。
肺動脈の第二音が亢進して居る。脈は減じて却って六十位になったものがある。恐らくは是は心臓の疲れた為めだろうと云う様なことも申して居ります。それが為めに、心臓の悪い人は危険であるから、過度にやっては行かん。
余りひどく骨を折らなくても百八十、二百位いになる。百七八十、二百五十位いになったと云うこともあります。心臓には余程影響するものでありますから、慣れない中に続いて乗ることは戒める、尤も軽いものは、暫くすると平日に復して仕舞います。
以上は即ち生理的及び是から起る所の病的の関係をひっくるめて申したのでありますが、外科的の危険は勿論分ったことで、脛骨を折るとか腓骨を折るとか、大腿を折るとか、勝胱の破裂、尿道の破裂などを、衝突した為めに起したなどと云うことがあります。併しそれは先ず別な話でありますが、子供は自転車に乗ることは、骨の炎症を起し易いから、過度に乗らせぬ方が宜しい。それから幾歳から乗らせるかと云うと、満 12、3歳位からは、適度に乗らせるが宜しいと云うことになって居る。老人は多くは宜しくない。血管硬変の高度の人は医師の診断を受けてから乗る方が宜しい。それから生殖器の関係、「サッドル」の真中の凹んで居るのがありますが、あれは局部が圧迫されないようになるのであります。
是が若し真直に直立して居ると「サッドル」が尿道を圧迫するのでありますから、気を付けなければならぬ、淋疾などのあったものは再発したと云うことがあります。或は睾丸炎を其後発したと云うこともある。とにかく気を付けなければなりませぬ。それから背柱の曲がること即ち、側彎が起ることがあります。或は人によっては側彎を癒すために自転車に乗った人もありますが、「サッドル」の位置を能く注意してやることが肝要である。
背柱の側弯の起らないように、気を付けなければならね。それから自転車に烈しく乗って居る時に、殊に山に登る時に、右の方に心臓が広がって来たと云う報告もあります。非常に力を用いると肺の方の呼吸は止んでしまい、そうして肺の中の小循環の呼吸が一時止むため、血液の静脈血になる。それが一方の右心に滞留して居るから、右の心臓濁音が拡大する。とにかくそれは何れも度を過ごした時の話しで、適宜に乗って居りますれば、却って効能があります。大体の効能としては精神を爽快ならしめ、血液の循環を好くし、消化を好くし、殊に精神的な仕事をするものは鬱を散ずることが出来ます効があります。
それから先刻御話したのも一例でありますが、世の中には随分澤山走る人があるのです。伯林維也納間(ベルリン~ウイーン)の六百「キロメートル」を31時間で走った人がある。其外同じくマイランドよりミュンヘンを六百「キロメートル」を29時間半で走った人がある。又620「キロメートル」を28時間で走った人がある。1時間に 22「キロメートル」位の速力である。
一日も乗って居る人は、食物を腹中に入れて、水も身体に付けて走るのであります。併し是等は衛生上甚だ宜しくない。極端に行けば運動は却て当初の奨励の目的に反します。短い距離であると仏蘭西では 44 「キロメートル」を1時間に走って居る。44「キロメートル」は随分えらい。それから英吉利斯人では 45「キロメートル」、まだ烈しいのは 61 「キロメートル」を1時間に走った。殆ど日本の急行列車の倍位を走るのです。と云うことをしては、害になることは知れ切った話である。
で亜米利加には自転車のために起った病気を癒すと云う「自転車病専門医」と云うものがある。随分面白い専門医があります。追々日本にも流行って来るかも知れませぬ、伯林のクリニッケルのライデンは自転車の生理的のことを批評して居る。それは適度に乗るが宜い、最も愉快な運動である。又新鮮な空気を吸うと云うには困難なる大市街より、たやすく郊外に出るには自転車の様な便利な器械はない。是非自分は奨励する。但し勿論是は薬品と同様であるから分量は制限しなければならぬと云う位に注意して居るのであります。
又ライデンは會て伯林で婦人に乗馬を勤めたことがあって、今ではそれで大変行なわれるようになった。今度は乗馬に代ゆるに、自転車を是非男子及び婦人にも勤めたいと云って居る。女の自転車に乗ることは、此間小金井博士が御帰りになっての御話に、独逸あたりでは盛んに乗って居ると云うことであります。
又大分順序が錯雑致しましたが、是まで斯う云う風の報告があると云うことを、諸君に御話致して置きまして、それで宜しい積りでありますが。
従って読み従って述べましたと云うことに過ぎないのであります。若故に健康な人があって、どの位い乗ったら宜いかと云うことは、其人の身体にも依るから一概には云われませぬが、先づ一口に言えば、一度に30分か1時間位の運動は差支えない。其早さの程度も1時間に2里から2里半位に制限して、決して速いのはいけない。 時間2里から2里半位を程度として30分以上1時間半位ならば治療上に用いて危険は無い。過度に乗ると云ことは最も恐るべきであるから、それは注意すべきである。
(完)

※明治34年済生医会第四総会に於ける入澤達吉博士の演説より。

入沢達吉先生年譜より
宮川米次 編
1940.11
国会図書館所蔵

2021年1月24日日曜日

自転車乗用の医学的観察②

 自転車乗用の医学的観察②

それで医学的の観察、生理的の観察として、どういう効用があるかということになるのであります。それで唯、戸外の遊戯として、自転車というものが広く行われておりまするが、之に衛生の目的は非常に備っている。しかし衛生のために自転車が広がって来たのではもちろんない。さりながら色々研究の結果として、今日では自転車というものはある部分においては治療上に用いられている。ある疾病には自転車療法というものが行われているのである。どういう病気を自転車でなおすかというと、一番多くこれに関係しているのは、神経系統の患者、婦人病に罹っているもの、これらが自転車療法に関係あるものであります。人によりましてあるいは効がある。あるいは効がないという説は分れておりますけれども、大体に若し之を治療的に用いると致しますれば、即ち婦人の「ヒステリー」であるとか、あるいは神経衰弱であるとか、あるいはは「ヒボコンデリー」であるとか、若くは其他の発育の不十分なものとか、栄養のよろしくないものとか、こういうものに適当の運動をすすめるために用いている。アメリカでは有名なるハムモンド氏などは、一部の筋の運動の麻痺などに、之を用いて効を奏したということである。すなわち小児麻痺の一部であるとか、あるいは其他の原因から来た所の足の方の一部の運動麻痺は、自転車運動をさせて好結果を得たということである。今の「ヒステリー」や神経衰弱などに用いて効能があると云うのは、其運動が大気の中を駆けて歩く運動で、精神的に第一自信力というものを持って来るのである。独立の気性を進め、自ら信する力を増させるということは、大変治療上に影響することで、即ち好結果を来すのはそれがためであるとこういうことであります。私も実は二三人試して見ましたが、その中で二人だけは、成績が良かったが、一人はどうなったか分りませね。その二人の人は神経衰弱の学生及若い官吏でありますが、それに自転車を勧めました。実際室内体操などと申しても、鉄の玉などを扱うことは興味が無くて出来ませね。色々やった後、その結果とうとう自転車を勧めた。
所が二つとも甘く参りまして、此二つはどうか斯うか、自分が始め之を勧めた目的を達することが出来た。殊に神経衰弱であって始終頭が重いなどと云ったものが、自転車を用いてから、大変好くなって来たのであります。
併し其後又再発したと云うことを聴きましたが、絶えず運動をやっていると好い心持だと云うている。もう一人も大体同じ様なことでございます。第三の一人は其後の報告を聴きませぬからどうでございますか分りませぬ、実は多数云うても余り実行されませ、実行しょうと云う人は僅少であります。其外人には却々行われそうもありませぬが、ドイツから出ました報告には骨盤内の臓器の疾患、それから生殖器の位置の変って居るもの、軽度の位置の変っているもの、慢性の炎症、月経の不順等には、殆ど一致して成績が好いと云って居る。それを用いた為めに婦人科的の病に予ねてあった所の不眠症であるとか、食欲欠乏であるとか、若くは気分の振わなかったと云うようなものは、多く治って仕舞ったと云うことを云って居ります。フランスの有名な医者のルカ・シャンピオニエルなどは、自転車は種類の心の患者・肺の疾患若くは運動の不十分なる人、それから神経の弱き人、神経衰弱の患者に限らず、一体に神経の弱い者、是に治療上用いて効がある。其外しばしば風邪に罹るものなども、皮膚を強固にする効能があると云うことを云って居ります。
それから是は私が数日前に手に入れた書物でありますが、有名なるボンの解剖学者のシィフェルデッケルと云う人が、厚い本を著わして居りますが、医学のことを書いてある中に自転車の講釈がしてあります。此人などは解剖の先生であるけれども、自転車を治療的に用いると云うことは、私が是まで述べました所と殆ど同じことを云って居る。新陳代謝は非常に烈しくなって、体質虚弱のものには適当に用ゆれば効あり、皮膚を強固にし、食欲を増し、脂肪の過度に付て居るものは、其脂肪を減少せしむる効がある、そう云うことを云うて居ります。但し是に付て注意すべきは、適度と云うことであると申して居る。シイフエルデッケルは特に一言して居るのは、自転車は最早遊戯品ではない、国民の必要品である。故に其発達をはかると同時に、衛生に注意をしなければならぬと云って居ります。夫等が先づ自転車の医療的効用、即ち医者が病人に向って慫慂(しょうよう)している諸点であります。
併ながら、一方に於ては、少し危険があると云う議論が起って来て、それに付て大分報告なども見えて居りますから其事を申し上げます。それを申します前に、足にはどう云う風に働くかと云うに、筋が先刻云うたような工合に大変肥大をする。自転車に暫く乗って居ると足が太くなる。大腿と腓腸筋と就中大腿の伸展筋が太くなることは忽ち分ることである。歩く時には屈曲筋が多く働くのであります。是まで長い間乗って居る者の、尿素及尿酸の排泄量などを極めたことがありますが、そう云うことは之を略して置きまして一例を申しますれば、是は自転車乗を商売にして居るものですが、 24 時間に日本の168里走ったと云う大変な話しである。其後に体重を量った所が、初め出た時より6「キロ」 35 と云うものが減って居る。即ち1貫5百目ばかり減っている。過度にすると云うことは勿論宜しくないことである。斯う云う時に減る分量は水であります。蒸発は烈しくなるので、水分が減るのです。何しろ烈しく身体に影響があるのであります。それから食物の消化は大変に促される。消化の悪い神経性の人には頗る効がある。併しながら是も程度の問題であって、沢山食事をした後で直ぐ乗ると云うと、返って消化を害する。此点は注意すべきことである。飯を沢山食った後に自転車などに乗ると前に屈むと云うことが宜しくない。食後に前に屈むと云うと、胃を圧迫する。胃を圧迫しては、胃の内容は能く混合することが出来ない。胃が圧迫されて、そうしてそれのみならず烈しく運動する為めに、血液が手足の方に流れて行く、従って胃の分泌が減少する。即ち、消化を害するのであります。それらの関係で食後自転車に乗るのは宜しくない。特に曲って前に屈むと言うことに付ては大変西洋人は戒めて居る。日本で上手に乗る人は「ハンドル」を下の方に下げて乗って居りますが、是は益々宜しくないことである。
ただ今の食後の時のみならず、ウェルヒョウなどが述べて居る中に、血管中の大なる脈管を圧迫するから甚だ宜しくないと云うて居ります。自転車に乗ると便通が多くは宜しくなる。即ち慢性の便秘即ち常習便秘に悩んで居るような人に是は宜いのでございます。常習便秘の婦人などが自転車に乗って好くなると云うことを聴いて居ります。丁度好い具合に直腸の刺激があるので、便通は頗る宜くなるのであります。それで消化が宣くなるために、糞便の分量なども少くなるし、従って効がある訳であります。ただ其度を過すと云うと、矢張直腸部に血液の集まることが余り多くなって、それからうっ血を起し、それが為めに痔核を造ると云うようなことがある。私は軽度の痔を有って居るので、治療の積りで乗って居ります。

(つづく)

※明治34年済生医会第四総合に於ける入澤達吉博士の演説より。


参考資料、
人事興信録 第8版、1928年(昭和3)7月より

入澤達吉
位階・勲等・功級 從四位、勳三等
爵位・身分・家柄 新潟縣士族
職業 醫學博士、東京帝國大學醫科大學教授
性別 男性
生年月日 慶應元年一月五日 (1865)
親名・続柄 入澤恭平の長男
家族 妻 常子 明一二、五生、子爵中牟田倉之助三女
男 民政 明三二、一生

君は新潟縣士族入澤恭平の長男にして慶應元年一月五日を以て生れ明治七年一月家督を相續す同二十一年醫科大學を卒業して醫學士の稱號を得同二十三年獨逸に留學し同二十七年歸朝宮内省侍醫局勤務となる同二十八年醫科大學教授に任し同三十年東京市養育院醫長に任し駒込病院醫長となる同三十二年醫學博士の學位を受け現に東京帝國大學醫科大學教授たり
家族は尚二男文明(明三五、二生)四男和平(同三八、八生)五男博愛(同四四、四生)長女五十子(大三、二生)あり
妹グン(明五、七生)は東京府平民天野喜之助に嫁せり
住所 東京、本鄕、金助町一
電話番号 長下谷三〇四七

人事興信録 第8版、1928年(昭和3)7月発行


2021年1月23日土曜日

自転車乗用の医学的観察①

 自転車乗用の医学的観察①

松居松葉の「自転車全書』(明.35.7 内外出版協会発行)の中で、「自転車は病を癒す事多し」として、心臓、痔、帰人のヒステリー、気鬱症其他の神経衰弱症、胃病、脚気などに良いということが書いてある。私も自転車を始めてから余りカゼをひかなくなったし、仕事でのストレスもたまらなくなったと感じている一人である。
そこで、専門家の立場から自転車の医学的効用を述べた、明治期の講演記録があるので次に紹介したい。

「自転車乗用の医学的観察」と題して、明治34年済生医会第四総合に於ける入澤達吉博士の演説である。

 私は今日国家医学会の方からも、一場の演説を依頼されましたから、遅く来て、早く御出になった方があるにも拘らず、先に御話致しますのは、甚だ失礼でございますが、私は此処に掲げてある妙な問題に付て、簡単に御話致します。私が昨年から自転車を始めたと云う話が出て、それじゃーつ、其の自転車の利害に付て話をしましょうと云うことになりました。医学的に観察すると云う程の事ではないが、西洋の人は此数年来大分此問題に付ては報告をして居ることでありますから、それを集めて聊か説明をして、且つ自分の僅かな意見をそれに付けまして、責を塞ごうかと思います。
 先づ極簡単に申上げまするが、自転車に乗ると云うことは、これを生理的に解釈すれば、筋の働きがどう云うことになるかと云うと、是に付てメンデルソンと云う人は、梯子に登るのと同じである、「ペダル」と「ペダル」の距離がすなわち、梯子の階段の、一つ一つの距離と同じで、唯自転車の方は、地平線に向って進むの差があるだけで、自転車は階段を登るのと、生理的の働は同じであると云うことを云って居ります。しかし其差はただ地平線に進むのと、それから鉛垂の方向に進むの外に、なお体重の関係があります。体重全体です。階段を登る時にはこれを上に持運ぶ、自転車に於てはそれはないのです。其代りに自転車の車、其物の重さと云うものがそれに加って居る。又かの小さい輪を廻して、即ち「クランク」を廻して、大きな車がこれに依って廻る。此運動をしなければならね。それからもう一つは、車と道路との間に起る摩擦、是に打勝たなくてはならぬ、併し自転車も平地の中は、今御話ししたような訳でありますが、坂路になって来て其坂道を登ろうとすると、今云うたものの上に、矢張体重と云うものが関係して来る。今申上げた車の重さと、それから小さい輪を動かして、大きい輪を運転させると云う間の関係と、もう一つは車の重さと地との間に起る摩擦と云うもの、其他身体の重さが関係を及ばして来る。それで即ち初歩のもの、始めて稽古するものには、僅かな坂になっても、非常に力が要る。練習し始めには、歩いて居ては殆ど分らぬ道でも、此処は坂であると云うことがすぐ分る位いである。それほど関係が違って来る。それで自転車に乗るのはどう云う運動をするかと云うに、其時働く筋は何れも伸展筋である。殊に一番働くのが膝蓋の伸展筋である。それで股筋であるとか、大股筋、内外の大股筋、それから股直筋、此等の筋と云うものが一番余計働くのである。膝を伸すが為に是等の筋が働く、其次に臀部の筋である。殊に大臀部が之を代表している。臀部の筋が大腿を真直に伸すが為に働くのである。其次に多く働く筋は、足関節を伸す為に、即足筋の方に曲げる為に、是には腓腸筋、比目魚筋及足筋にある所の小さい筋が働くのである。それで大腿を曲げる程、即下肢を曲げる程、余計な力を要しないのであります。大腿の如きに至っては、唯此腸腰筋が少しく働いて大腿を上に揚げると云うだけで、下肢などは「ペダル」が斯う登って来ると、他働的に上に登るので、筋の働は殆ど要しないと云うて可なる位いである。腰筋は大腿をあげるために、此の運動のときに働く唯一の筋である。又足関節は伸展筋の働にて絶えず「ペダル」と接着して居り、曲がるのはむしろ他働的である。其他に於ては軀幹の筋も働かないことはないのです。身体の平均を保つために、躯幹の筋も働く、又殊に始めての人にあっては「ハンドル」に力を入れるから、上肢の筋もよく働く、此時の筋は多くは此屈折筋である。それから三角筋も働く、大脳筋も働く、しかし段々熟練して来ると、躯幹の筋や、上肢の筋を働かせることは少なくなるが、下腿の筋は働かなければならない。こう云う風の筋の働で以て、自転車の運動は出来るのであります。
(つづく)
入沢達吉先生年譜
宮川米次 編
1940.11
国会図書館所蔵

「自転車乗用の医学的観察」を
済生医会第四総合に演ず
1901年(明治34)

2021年1月22日金曜日

空中自転車と水上自転車②

 空中自転車と水上自転車②

 次の記事も水上自転車の話しであるが、こちらの方は説明文だけで、絵や写真などまったくない。以下、文章を読んで想像願いたい。

 神戸居留外人中自転車乗の名人と云えば何人も指を二十番シー、マンシニ氏に屈することなるが、氏は既往十余年間斯道の練磨を積み今や其妙技神に入り其運転の迅速と非常なる耐力とは殆んど端倪すべからざる程にして例えば普通熟練家と呼ばれるサイクリストに一哩の距離を興うるも之を追越すは全く容易なりと伝えらるるが氏の自転車に関する技量は尋常サイクリストの如く単に陸上に止らずして又水上自転車の技あり欧州に於て度々之を試みたる由なるが今回大阪難波の技術家紙野種吉氏は自家の工夫に成りたるウォーター、タンデム、バイシクル即ち水上自転車の試運転を氏に衣頼し且つ其意見をきくこととなり去る7月前記発明者外一名之に乗り大阪より順風と順潮とに依り一時間半にて神戸に着し其後兵庫にて更に改造を加え8月12日海岸遊園地の下に於てマンシニ氏及び発明者之に乗り試運転をなしたり今同船の構造を記さんに外観は小水雷艇の如き形をなし長さ約3間幅5尺許にして中央のボックス内には一対の自転車の如き運転器と腰掛とありて2人並座し得る様に造り左右両端にはシガー形の大空気管あり管内は数室に隔離し各室ヴァルブにて開閉し一室破壊すとも他室は安全なる様に造り又船尾には二重螺線と2個の舵とありて、普通自転車の如く足にて器械を廻せば螺線は其力に依りて水を掻き之と同時に中央部に一本のマストありて之にヨットに用ゆる如き帆を備えあれば風力をも併せ利用して事体を進行せしむる仕掛なるが其速力は六海里乃至九海里吃水十二吋実価は 125円乃至175円にして本邦に於て斯る器械を造りしは之が嚆矢なれば愈成効の上は海事上に新生面を開くべしと云ふ。
(「輪友」 第11号、明治35年9月5日発行より)

 水曲社のダルマ自転車と較べると、この文章を読む限りこちらの方が、どうも物になりそうな感じである。どうやら2人乗で自転車の動力を使い、スクリューを回転させる方式のようだ。また帆を使って風の力を併用させるところも実用的でおもしろい。
(つ づく)

2021年1月21日木曜日

老舗さんぽ㉗

 老舗さんぽ㉗

今日の自転車散歩は小田原の酒匂である。

30年程前にお世話になった小八幡の鈴木自転車店を訪ねた。この店も戦前からの老舗で、店主は二代目になっているはずである。昭和12年発行の全国輪界興信名鑑に掲載されている。

この名鑑では酒匂村で4軒の自転車店があったことが分かる。

以下である。

酒匂村山王原、小松春吉

酒匂村酒匂、鈴木為之助

酒匂村酒匂、杉井登喜蔵

酒匂村小八幡、鈴木為之助

鈴木自転車店は、酒匂と小八幡に店をもっていたようで、同じ名前が二つある。当時は羽振りがよかったと見える。

先に30年程前にお世話になったと書いたが、それは次のような事情であった。

1982年、スティーブン・スピルバーグ監督のハリウッド映画"E.T."にBMX自転車が登場し、一躍大阪のクワハラのBMXが世界中で有名になった。この自転車をアメリカのハワード・コーエン氏が輸入販売して、大儲けをしたと聞いている。ハワード・コーエン氏はクラッシク自転車のコレクターでもあり、またライダブルというダルマ自転車等も販売していた。拙宅にも一度訪れ、数少ない自転車コレクションや自転車関係の古い書籍を見ていった。丁度、ひな祭りの時で、拙宅の八畳間に飾ってあった雛人形を興味深く眺めていた。その後、お礼と言うことで、ライダブル製(Rideable Bicycle Replicas) のダルマ自転車を1台送ってくれた。その時に、この鈴木自転車店が介在してくれ、軽トラでその自転車を拙宅に運んできてくれたのである。

今日はその鈴木自転車店を訪ねた。生憎、店は閉まっていた。それとも休業したのであろうか。また、次回確認したい。

ついでに、酒匂小学校の前にあった。旧酒匂村役場の建物を訪ねたが、すでに取り壊されていて跡形もなくなっていた。この建物は昭和5年に建てられたもので、以前は市民集会施設として一時利用されていたが、老朽で耐震性に問題があるとして、立ち入り禁止になっていた。できればこのような文化財的な建物は残して欲しいと思っていたのだが、まことに残念である。

鈴木自転車店


昭和12年発行の全国輪界興信名鑑

旧酒匂村役場
2020年5月19日撮影

2021年1月20日水曜日

老舗さんぽ㉖

 老舗さんぽ㉖

今日の自転車散歩は、国府津方面へ。
2軒の老舗を訪ねる。いまはこの二店は廃業して無くなっている。
頼りは心もとない自分の記憶であるが、すでに10年以上前なのでうる覚えである。
丁度、近くに交番があり、確認の意味で聞いてみる。親切にスマホと地図を見ながら説明してくれた。国道1号線沿いの魚屋の先であることは分かるがまだ確証はない。その魚屋で聞いてみることにした。忙しいのにわざわざ店の前に出てきて、以前石田自転車店のあった場所を説明してくれた。いまは空き地になっていて、当時の面影はまったくない。当時の建物は大正13年から昭和初期に建てられたモルタル造のモダンな店舗(震災後に建てられた看板建築)であった。家に帰り、当時の写真がないか探したが見当たらず。
 次に2軒目の大川自転車店のあった場所を探す。位置的には現在、横浜銀行の国府津支店辺りなのだが分からない。結局、現地では分からず。家に帰りストリートビューで確認することにした。やはり横浜銀行の隣で、現在は空き地になっているところである。

とりあえず今日は2軒の店の場所がなんとか確認できた。

石田サイクル(石田自転車店)の跡地
2007年3月に店舗解体
神奈川県小田原市国府津3-1
2021年1月20日

石田サイクル
2011年3月のストリートビュー

石田サイクル
2012年11月のストリートビュー

往時の石田サイクルの店舗

大川輪業(大川自転車店)
小田原市国府津3-2
2021年1月20日

大川輪業
石田サイクルよりも前に店舗は解体される
2012年11月のストリートビュー

大川輪業
2011年3月のストリートビュー

大正5年発行の日本輪界名鑑
国府津町、石田喜三郎
同、中島自転車店(この場所は不明)

昭和12年発行の全国輪界興信名鑑
国府津町、石田喜三郎
同、内田佐吉(この場所も不明)
同、加藤忠一(この場所も不明)
同、大川六三郎
この年には国府津だけでも4軒の自転車店があったことが確認できる

2021年1月19日火曜日

自転車の復権

 この記事は1991年5月15日発行の会報「自轉車」からである。

  既に30年前の内容だが、未だに改善の変化は感じていない。むしろ環境も自転車専用道路の整備もまったく進んでいないし、むしろ後退しているのではないか、と思えるほどである。
 昨年からのコロナ禍で、環境は少し改善されたと言われるが、あらたにマイクロプラスチックの問題が浮上してきているし、考えようによっては、このコロナ禍も人間が作り出した災害といっても過言ではない。鳥インフルエンザも然りである。
 家庭からの雑排水の処理は改善されたとはいえ、近くの用水路を見るとあいかわらずペットボトルやゴミの入ったレジ袋がそのまま捨てられている。
 車の信号渋滞についてもひどくなっている。都市部の平均時速はいつも30キロ未満だ。とてもスムーズな交通管理がなされているとは言えない。信号渋滞によるガソリンの消費も馬鹿にならない。これはスピードを出さないことを優先にして、適正な交通管理がなされていないのである。かえって信号の切り替えが多くなり、赤信号にかわったにも関わらず突っ込んでくる車が後を絶たない。かえって事故が多くなっている気がする。

自転車の復権
 最近マスコミなどを中心に環境問題がよく論議されるようになった。フロンガスによるオゾン層の破壊や二酸化炭素による地球の温暖化、今や地球規模で環境破壊が進んでいる。
特に先の湾岸戦争では、最悪なシナリオにより、大規模で致命的な環境破壊が行なわれた。
我々のまわりを見ても、自動車の排気ガスによる大気の汚れや、家庭からの雑排水のたれ流しによる河川の汚濁など、環境はますますひどくなるばかりである。
 大都市における交通渋滞は慢性化し、たった10キロメートルの道程でも車で1時間もかかる時さえある。
 ところで、自転車程便利で、自由で、そして健康的な乗り物はない。日本の夜明けと共に現われた自転車、明治初期のうちは物好きな連中の遊び道具のような物であった自転車だが、次第にその実用性が認められ、明治25年には、陸軍や郵便局で使用されるようになった。大正期になるとほぼ完全な国産化も始まり、あらゆる商業活動等にはかかせない重要な交通機関となった。以前は人力車がその主役を演じていたが、だんだん自転車の発達と共に衰退し、ついには駆逐されてしまった。それは自転車の有効性を証明する一つの歴史的事実でもあった。
 現代は自動車の時代と言われる。しかし自転車の重要性はなんら変わっていない。むしろ自然との調和とか、健康的なスポーツという面から見直され、その重要性はますます大きくなっている。米国のワールドウォッチ研究所編集の『地球白書』 90・91年版でも、自転車の見直しを呼びかけている。
 自動車の道路は日本国中整備され、はりめぐらされているが、自転車が本当に安心して快適に走れる道はどこにもない。交通事故の犠牲者はいつも弱者である歩行者と自転車である。経済中心の競争社会の世の中で、常に弱い者が犠牲となる。福祉や慈善は、紙の上や評論家の口の中にあるだけでなかなか地上におりてこない。
 地球的規模で環境破壊が進むいまこそ、害のない、便利で健康的な自転車が見直されるべきである。


2021年1月18日月曜日

石版画のダルマ自転車

 下の図は、以前に自転車技術史研究家の梶原利夫氏から頂いた資料である。

「明治大正図誌」(関東)に載っていたもの。
石版画(せきばんが)とは、石版で刷られた版画で、リトグラフとも云う。

この図は明治24年印刷の石版画で「東京上野停車場」である。
左下にダルマ自転車に乗った人物が見える。

日本で一時的にダルマ自転車が流行した時期は、明治21年~明治26年頃までの短い期間であった。明治25年頃から輸入された安全型自転車が現れると、数年の間で巷から徐々に消えて行った。このことから逆に、現存する実車や写真、画に登場するダルマ自転車の年代をある程度まで特定することができるのである。

話は少し戻るが、「ダルマ自転車が流行」と書いたが、はたして流行とはどの程度をいうのであろうか、台数的にも資料がないので、正直よく分からない。全国的にみても数千台ではないかと推量している。自転車はまだこの時期は希薄であった。

東京上野停車場
「明治大正図誌」(関東)筑摩書房 1978年より

参考までに錦絵の「東京名所上野停車場之図」も載せる。ただし、汽車、鉄道馬車、人力車、馬車、荷車は見えるが残念ながら自転車は描かれていない。
作者の探景は「東京小網町鎧橋通吾妻亭」明治21年(1888)では、リアルにダルマ自転車を描いている。

東京名所上野停車場之図
明治22年3月 1889年
探景画

東京小網町鎧橋通吾妻亭
井上探景
明治21年(1888)

2021年1月17日日曜日

クラシック自転車コンテスト

 クラッシク自転車保存会主催のラリーやコンテストがいつごろまで行われたか、いまでは記憶も薄れている。このイベントは代表世話人の自転車技術史研究家の梶原利夫氏が中心になり毎年開催していたもので、タイトルも時々変わっていたが、イベントの趣旨は同じであった。当研究会の記録では第8回までだが、その後は記録がない。おそらく第8回で終わったものと思われる。

以下にその記録をまとめてみると、

●第1回クラシック自転車ラリー&シクロランドナー・オーナーズ・クラブラリー

1988年6月12日(日)神宮外苑 (雨天のため中止)

主催、クラシック自転車ラリー実行委員会、シクロランドナー・オーナーズ・クラブ

後援、㈲ベロ出版社 協賛、自転車文化センター

●第1回クラシック自転車ラリー&シクロランドナー・オーナーズ・クラブラリー

1988年10月2日(日)神宮外苑

主催、クラシック自転車ラリー実行委員会、シクロランドナー・オーナーズ・クラブ

後援、㈲ベロ出版社 

●第2回クラシック自転車コンテスト

1989年5月7日(日)上野恩賜公園

 主催、クラシック自転車ラリー実行委員会 主管、自転車月間中央大会実行委員会

●第3回クラシック自転車ラリーとコンテスト

1989年10月8日(日)日比谷公園 主催、クラシック自転車ラリー実行委員会

●第4回クラシック自転車コンテストとクラシック自転車部品の展示会 

1990年5月6日(日)上野恩賜公園

主催、クラシック自転車ラリー実行委員会 主管、自転車月間中央大会実行委員会

●第5回クラシック自転車フェスティバル

1991年5月6日(日)上野恩賜公園

主催、クラシック自転車保存会 主管、自転車月間中央大会実行委員会

●第6回クラシック自転車コンテスト (雨天のため中止)

1992年5月10日(日)上野恩賜公園

主催、クラシック自転車保存会 主管、自転車月間中央大会実行委員会

●第7回クラシック自転車コンテスト

1993年5月9日(日)上野恩賜公園

主催、クラシック自転車保存会 主管、自転車月間中央大会実行委員会

●第8回クラシック自転車コンテスト

1994年5月8日(日)上野恩賜公園

主催、クラシック自転車保存会 主管、自転車月間中央大会実行委員会

第1回クラシック自転車ラリーの開催要領
雨天のため中止に

第2回クラシック自転車コンテスト
開催要領

☆第8回クラシック自転車コンテスト
1994年5月8日 (日)、自転車月間中央大会会場の一角において、クラシック自転車コンテストが行われた。当日は天気にも恵まれ、多数の参加者があった。
コンテストに出場した自転車は全部で28台。実用車をはじめロードレーサー、サイクリング車等、バライティーにとみ、いつもより審査に時間がかかるほど、内容的にも甲乙つけがたい自転車が多く集まった。

審査の結果、
1位に選ばれたのは、群馬県の佐藤 修氏所有のセキネ自転車(実用車で、昭和34年製)だった。
2位は、アルプス、グリーンキャップ(ツーリング車、昭和33年製)佐藤 昭氏所有。
3位は、ルネルス(ランドナー車、1947年頃) 芹田洪太郎氏所有の自転車だった。

コンテストの他にも、ベルやマーク、風切り等の展示も行われた。
また、クラシックパーツの交換会も同時に行われ、一時黒山の人だかりになる程の人気だった。

2021年1月16日土曜日

自転車日記⑦

 1974年7月14日(日)曇り後雨

雨が降る前に自転車散歩。

今日のコース、自宅~梅田小学校~四つ角~川上書店~ダイクマ~市役所~円蔵~矢畑~萩園橋~自宅
午後からは自転車の整備と清掃。
明日は恒例の茅ケ崎、浜降祭である。

1974年7月17日(水)曇り時々雨
東京上野へ。台東区立西町小学校の横を通り、横尾双輪館に向かう。
「ニューサイクリング」誌の1月号とフランス製の小型ベルを購入。
本店の先にある作業所を覗く。組み立てられた自転車のホイールが所狭しと並んでいた。
新しく組み立てられたゴルナゴが置いてあった。天井にはホイール(チューブラー用)が吊り下げられていた。価格は21,000円とあった。クレメンなどのチューブラータイヤも同じく下がっていた。
横尾双輪館のあと、吉祥寺の東京サイクリングセンターへ行ったのであるが生憎定休日だった。窓ガラス越しに店の中を少し覗いてみる。

現在の横尾双輪館
グーグルマップより

さらにまた阿佐ヶ谷のフレンド商会に向かう。またどうでもよい西ドイツ製のベルを買う。
なぜベルを買うかと言えば、茅ヶ崎駅前で見た警察の看板に、ブレーキのきかない自転車、警音器の鳴らない自転車を運転すると罰せられると書いてあったからである。
ここでは、ミルレモのストラップを購入。タイヤホルダー代わりに、このストラップでサドルの後部に予備のチューブラータイヤを取り付けるため。これは先ほど横尾双輪館の店員から「一般的にはタイヤホルダーなどは使わず、皆さんストラップを利用している」と、聞いたからである。
自転車に乗ることはもちろん楽しいが、このようにいろいろな自転車店を訪ねて、自転車小物を買うのも楽しみの一つである。趣味の世界が更に広がると思うからである。これからも彼方此方の自転車店を訪ねてみたいと考えている。

1974年7月20日(土)雨
六本木の本庁へ。昭和49年度の実行(案)等説明のため。
帰路、地下鉄日比谷線で上野へ、銀座線に乗り換え、稲荷町駅下車。また横尾双輪館である。クレメンのチューブラータイヤを買うつもりであったが店に在庫がなかった。
店に陳列されていたゴルナゴ、レニアーノ、チネリの完成車にはクレメンストラーダ66がついていた。なにも買わずに横尾双輪館を後にする。

途中、川崎駅で下車し、オオノ商会へ。ここでミルレモのチューブラータイヤ、3,000円を購入。タイヤのトレッドも直線のみでなかなか良い。これだったらすんなりとリムにはまりそうである。前に買ったユッチンソンのスーパー・スプリントは硬くて、なかなかリムに収まらなかった。国産のソーヨー(SOYO)もしかり。

1974年7月21日(日)梅雨明けを思わせるような快晴

ラレー・カールトンで伊勢原の日向薬師までサイクリング。所要時間は茅ケ崎から往復、2時間10分であった。途中、3回水分補給。どういう訳か今日は喉がすぐにカラカラになってしまった。
午後から雲が多くなる。

ラレー・カールトン

これから揃えたい自転車専用工具、
①ヘッド・ハンガー廻し②ブレーキばさみ③タイヤレバー④ブレーキBOX⑤専用フリー抜き➅ワイヤー・カッター⑦スポーク切り⑧ハブ調子取⑨アーレンキー⑩ペダル玉押し回し⑪スプロケット外し⑫スプロケット・バイス⑬コッターレス抜き⑭チェーン切り⑮ハブ芯つかみ⑯玉押し調整スパナ⑰リム・センター・ゲージなど。できればVARかカンパあるいはゼウス、TAが欲しい。

その後に揃えたVAR工具の一部
リム振れ取台、VARリム・センター・ゲージなど

2021年1月15日金曜日

自転車泥棒会社

微笑亭夜話

自転車泥棒会社

 戦争の末期に陸軍の燃料廠へ自動車を徴収されてしまった。省線の駅から一里近くはなれて住んでいる私と家族は、自転車を使う他なくなった。しかし、5、6年前から家では自転車道楽にこりだし、フランス、イギリスのスポーツ車や日本の最優秀ものを6、7台もっていたので、病院の実用車を加えて10余台になり、どうやら困らずにいた。まだ孫が生まれたばかりなのに、イギリスの手製の美しい子供用自転車もかっておいた。
 こんな風に私と家族の美しい自転車は、ちょっと類がないので街に出るとみんなおどろいてみたものであった。
ところが空襲が激しくなって、東京へあずけておいたイギリス車がやけ、まもなく、市川の駅の近くにあずけておいた私のイギリス車は盗まれ、弟のがトラックにぶつかって大破し、もう一人の弟のが盗まれてしまった。自転車の盗難はますます激しくなりつつあるので、うちではこの上どれがとられるのか、と戦々恐々のていである。
 きょうもやはり自転車を買って三日目に盗まれた友人の医者がきていうには、この頃の自転車泥棒は巧妙な会社組織になっている。各所に支社があって八方に調査員をおき、十分な視察と巧妙な手配をしてから窃取にかかる。鍵のかかっているのは、最もよい餌だ。
安心しておきっぱなしにしてあるから、ペンチでねじり切ればわけはない。それを連絡のある古自転車屋へはこぶとまたたくまに塗りかえられるし、改造される。そして別なところへ運んで、売りさばかれているのだという。
こうした何十人かの専門的な自転車泥棒にねらわれたら、どんなに警戒しても駄目らしい。万一みつけて追いかけても、逆にうしろにまわられて泥棒あっかいされるか脅迫される。警察でも手に負えないときく。困ったものだ。
 こんど市川では自転車の相乗禁止令が出た。この交通地獄に相乗を禁止されるのは大打撃である。何とか解除してもらいたいものである。世界で最も優秀な自転車のできるのはフランスで、日刊自転車新聞まであるという。それからイギリスで、アメリカは自動車が発達しているので、この方はあまりさかんではない。そしてオランダと日本は、世界一に自転車を実用している国だ。
 欧米の人たちからみたら、日本の自転車はうるさく、相のりなどは危なっかしい限りであろう。しかし、電車や自動車が戦災で大半壊滅した現在うるさい、ちょこまこした自転車の右往左住するのを黙認してほしいと思う。そして日本では今まで許されなかった本式二人乗り自転車(タンデム)の新造を奨励してもらいたい。
 一方MPの協力で自転車泥棒を取締り、嘘のような秘密の会社までできているなら、その本拠をつきとめてもらえれば有難い。輪禍という言葉は、いまでは怪我よりも盗難に使われ出しているのだ。

「夜想」式場隆三郎著、(株) 大元社、昭和21年7月10日発行より。

※式場隆三郎 1898-1965
大正・昭和期の精神医学者。新潟県生れ。新潟医専卒。精神病理学を専攻。
静岡脳病院院長、国府台病院院長などを経て、式場病院を開業。戦後ロマンス社社長となり娯楽雑誌を出版。日本医家芸術クラブ委員長。ゴッホの研究家でもあり、画家山下清を後援した。著に「文学的診療簿」(昭10)などがある。
[新潮日本人名辞典より]

 私も40年前自転車を盗まれた。郵便局の前に5分程とめておいたところをやられてしまったのである。直ぐ警察に盗まれた自転車の写真を持って届けたのだが、いまだに出てこない。盗まれた自転車は、この随筆に書いてあるものと同じイギリス車だった。日本の自転車とちょっと変わっているので、見ればすぐ分かるのだが、見付からない。多分もうスクラップになっているのだろう。いまは諦めている。
この随筆から、敗戦直後の自転車事情を知ることができる。それに彼自身かなりの自転車マニアだったことが分かる。

以前盗まれた私の愛車
イギリス製のトライアンフ(Triumph )


2021年1月14日木曜日

明治期の写真

 下の写真は以前、東京の須賀繁雄氏から頂いた写真である。

「目で見る大津の100年」1992年発行、に載っていたもので、明治41年12月に撮影されたとある。おそらく背景などから判断して、どこかの写真館のなかで記念に撮影したものであろう。
この写真からは自転車の銘柄までは判断しかねるが、形状や年代からして英国車の可能性が高い。それも日米商店が販売していたラーヂ号ではないかと推察する。

「目で見る大津の100年」より

次の写真(明治期ではないが)も大津市追分町付近で撮影したものである。
微かに柱のような看板に「追分町」という文字も確認できる。
極めて日本的な風景で、水車小屋、大八車、そして左側の奥に自転車が見える。

一見、明治期を思わせるような写真である。

「ナショナル ジオグラフィック」
1936年(昭和11)4月号より

2021年1月13日水曜日

自転車日記➅

 1974年6月29日(土)晴れ

いつものように自転車を引っ張り出して出かける。別にあてはない。

遠出の時は、いつも途中で飲み物を調達している。ボトルなどは持参しない。別に理由があるわけではない。単なる無精だからである。事前に準備することが嫌いで、いつも行き当たりばったりだ。コーラやサイダーは飲まない。胃ががぶがぶになるだけで、喉のうるおいにはあまり役に立たないし、かえって喉が渇くと勝手に思っているからである。

今日はオレンジジュースを途中で飲んだだけ。

1974年6月30日(日)雨~曇り

雨がやんだところで、また自転車で出かける。

コースは、自宅~萩園橋~県道丸子中山茅ケ崎線~寒川駅~県道藤沢寒川線~小出小学校~農協小出~下寺尾~北陵高校~寒川駅~萩園橋~中島寒川線~小出川橋~柳島~茅ヶ崎海岸~茅ヶ崎ゴルフ場~浜見平団地~西久保~自宅

今日の走行距離は約30キロであった。

小出橋で水分補給、トマトジュースだけ。途中、3人のサイクリストに会ったが特に挨拶もしなかった。

北陵高校から寒川駅までの田んぼの中の一本道は快適に走れた。車は殆ど通らないし、排気ガスにも悩まされることもない。そして極めて安全なコースであった。あのような道が家の近くにあればどんなに良いか。出来れば10キロは欲しい。この日の収穫はこの田んぼの中の一本道であった。

1974年7月4日のメモ書き
適正サイズはシートチューブ長で520mmか?

 1974年7月6日(土)雨
川崎の大野商会へ。自転車のスタンドとズボン裾用のクリップを購入。
横浜駅西口の岡田屋7階のSUMIYAに寄る。
クルセイダースのスクラッチ及びWARのバレロ(Ballero)を購入。
アース・ウィンド・アンド・ファイアーも気になる。

1974年7月7日(日)曇り時々雨
16時30分から17時25分まで、TV6チャンネルの自転車競技を観戦。
スクラッチ、ドミフォン、ロードレース、追い抜きなどを見る。

今日は第10回参議院議員通常選挙の投票日である。

1974年7月8日(月)曇り
豪雨のため各地で鉄道が不通になる。湘南電車も午前中はストップ。
午後から藤沢の秋山自転車店へ。
自転車用タイヤ・ホルダーを買う予定であったが店に在庫がなく諦める。チューブラー用のタイヤ・セーバ-を購入。あかわらず店主の対応に違和感を覚える。

Q&A(雑誌から)
Q、プジョー・スーパーPX10Eに付いているサンプレックス製の変速機は日本でも売られているか?

A、スーパーLJで、価格は前後セットで22,000円(昭和49年3月現在)で売られている。

Q、ラレー・ヨーロッパをセミ・ロードにしたいが、チューブラータイヤを取り付け可能か?

A、リムをチューブラー用のものと、スポークを少し短めのものにすればできる。工賃別で12,000円ぐらい。重量は1.5kgぐらい軽くなる。

チャールズ・ペリシエ
チューブラー用のタイヤ・セーバ-

ちなみに、Charles Pélissier (1903 – 1959)は、
元フランスの自転車競技選手
ツールドフランスなどで活躍

2021年1月12日火曜日

大正期の写真

 先日、自転車散歩で小田原の「ういろう」の前を通過した。
そういえば「ういろう」の店舗前の大正期の写真があったことを思い出す。

「ういろう」は小田原でも数ある店の中でも一番の老舗で、かれこれ創業から650年続いているといわれている。
江戸期の浮世絵や市川団十郎の歌舞伎の外郎売りなどでも有名である。

下の写真は大正初期のもので、店舗は八棟造りと言われる日本の建築様式の一つ。店前には自転車が2台見える。店員や丁稚と思われる人物が自転車のハンドルを握っている。ハンドルをよく見ると逆向きにしている。このようにドロップハンドルを上向にしている方が、通常の使用時には楽だったのか、それともこの時期の流行りなのであろう。羽織を着た若旦那のような人物も見える。右手に扇子を持っている。大正期に入ると自転車は主に使用人が乗り、羽振りの良い店主は人力車やその後は自動車を利用するようになる。自転車に乗ることはもはやステータスではなくなったのである。

残念ながらこの建物も大正12年9月1日の関東大震災で倒壊してしまった。

大正初期の「ういろう」

大正初期の絵葉書

江戸時代の外郎
当時の建物の様子がわかる
東海道名所圖會 6巻-5 龝里籬嶌 編
寛政9(1797年)出版
国会図書館所蔵

現在の「ういろう」
いまでも伝統の八棟造りの建物