2021年1月4日月曜日

寅次郎が自転車の命名者

 先日、齋藤先生から年賀葉書をいただいた。
齊藤先生は以前から当輪史会の顧問になっていただき、いろいろな提言やらご指導をいただいている。
下の記事は、1985年9月15日発行の輪史会の会報「自轉車」のものである。
それまで議論が百出していた「自転車」という名称について、一定の結論を出した歴史的な論文である。

寅次郎が自転車の命名者
 人力車、乗合馬車等の研究者であるNHKの齊藤俊彦氏より、この程「交通史研究」№13の抜刷版を送っていただいた。 この論文は同氏が交通史学会に報告したレポートで、題名は、「日本における自転車の製造・販売の始めー(竹内)寅次郎の事績についてー」(「交通史研究」第13号・昭和60年4月25日)である。
 この論文は、日本自転車史の原点を究明したもので、黎明期の重要な部分に及んでおり今後この功績は高く評価されるものと思われる。
 論文の概要は、次のとおり(「まとめ」の部分を引用する)。

①寅次郎の考察・製作にかかる一人乗り、二人乗りの三輪車「自転車」は国産自転車製造の始めである。

②演次郎が自転車という名称の命名者である。

③自転車取締規則は明治3年7月に日本で始めて制定された。

④従来から自転車が日本に渡来したのは慶応年間と考えられているが、記録としては明治3年8月の大阪府布令に見る「西洋車」が最も古い文献であった。しかしながら「東京府文書」中の資料2によって明治3年4月当時東京市中に外国人が乗る三輪車が実在したことが確認されたほか、慶応元年刊の「横浜開港見聞誌」後編、中「自輪車」の図、および明治元年11月19日(1869.1.1)日付入りの「ジャパン・パンチ」のペン画によって、当時、外人が乗った三輪車の存在が推測されるのである。

⑤寅次郎の営業は、明治初年から明治20年前後にかけて全国の主要都市で流行した貸自転車の端緒となった。

 更に、齊藤氏は今後の研究課題として、次の点を提起して、この論文を締め括っている。
イ、寅次郎以後の自転車製造家の事績の調査
ロ、各地方への普及状況の調査
ハ、輸入自転車の初到来の時期、及び、その後の輸入状況の調査

「ジャパン・パンチ」のペン画

ラントーン車

錦絵の自転車