2021年1月24日日曜日

自転車乗用の医学的観察②

 自転車乗用の医学的観察②

それで医学的の観察、生理的の観察として、どういう効用があるかということになるのであります。それで唯、戸外の遊戯として、自転車というものが広く行われておりまするが、之に衛生の目的は非常に備っている。しかし衛生のために自転車が広がって来たのではもちろんない。さりながら色々研究の結果として、今日では自転車というものはある部分においては治療上に用いられている。ある疾病には自転車療法というものが行われているのである。どういう病気を自転車でなおすかというと、一番多くこれに関係しているのは、神経系統の患者、婦人病に罹っているもの、これらが自転車療法に関係あるものであります。人によりましてあるいは効がある。あるいは効がないという説は分れておりますけれども、大体に若し之を治療的に用いると致しますれば、即ち婦人の「ヒステリー」であるとか、あるいは神経衰弱であるとか、あるいはは「ヒボコンデリー」であるとか、若くは其他の発育の不十分なものとか、栄養のよろしくないものとか、こういうものに適当の運動をすすめるために用いている。アメリカでは有名なるハムモンド氏などは、一部の筋の運動の麻痺などに、之を用いて効を奏したということである。すなわち小児麻痺の一部であるとか、あるいは其他の原因から来た所の足の方の一部の運動麻痺は、自転車運動をさせて好結果を得たということである。今の「ヒステリー」や神経衰弱などに用いて効能があると云うのは、其運動が大気の中を駆けて歩く運動で、精神的に第一自信力というものを持って来るのである。独立の気性を進め、自ら信する力を増させるということは、大変治療上に影響することで、即ち好結果を来すのはそれがためであるとこういうことであります。私も実は二三人試して見ましたが、その中で二人だけは、成績が良かったが、一人はどうなったか分りませね。その二人の人は神経衰弱の学生及若い官吏でありますが、それに自転車を勧めました。実際室内体操などと申しても、鉄の玉などを扱うことは興味が無くて出来ませね。色々やった後、その結果とうとう自転車を勧めた。
所が二つとも甘く参りまして、此二つはどうか斯うか、自分が始め之を勧めた目的を達することが出来た。殊に神経衰弱であって始終頭が重いなどと云ったものが、自転車を用いてから、大変好くなって来たのであります。
併し其後又再発したと云うことを聴きましたが、絶えず運動をやっていると好い心持だと云うている。もう一人も大体同じ様なことでございます。第三の一人は其後の報告を聴きませぬからどうでございますか分りませぬ、実は多数云うても余り実行されませ、実行しょうと云う人は僅少であります。其外人には却々行われそうもありませぬが、ドイツから出ました報告には骨盤内の臓器の疾患、それから生殖器の位置の変って居るもの、軽度の位置の変っているもの、慢性の炎症、月経の不順等には、殆ど一致して成績が好いと云って居る。それを用いた為めに婦人科的の病に予ねてあった所の不眠症であるとか、食欲欠乏であるとか、若くは気分の振わなかったと云うようなものは、多く治って仕舞ったと云うことを云って居ります。フランスの有名な医者のルカ・シャンピオニエルなどは、自転車は種類の心の患者・肺の疾患若くは運動の不十分なる人、それから神経の弱き人、神経衰弱の患者に限らず、一体に神経の弱い者、是に治療上用いて効がある。其外しばしば風邪に罹るものなども、皮膚を強固にする効能があると云うことを云って居ります。
それから是は私が数日前に手に入れた書物でありますが、有名なるボンの解剖学者のシィフェルデッケルと云う人が、厚い本を著わして居りますが、医学のことを書いてある中に自転車の講釈がしてあります。此人などは解剖の先生であるけれども、自転車を治療的に用いると云うことは、私が是まで述べました所と殆ど同じことを云って居る。新陳代謝は非常に烈しくなって、体質虚弱のものには適当に用ゆれば効あり、皮膚を強固にし、食欲を増し、脂肪の過度に付て居るものは、其脂肪を減少せしむる効がある、そう云うことを云うて居ります。但し是に付て注意すべきは、適度と云うことであると申して居る。シイフエルデッケルは特に一言して居るのは、自転車は最早遊戯品ではない、国民の必要品である。故に其発達をはかると同時に、衛生に注意をしなければならぬと云って居ります。夫等が先づ自転車の医療的効用、即ち医者が病人に向って慫慂(しょうよう)している諸点であります。
併ながら、一方に於ては、少し危険があると云う議論が起って来て、それに付て大分報告なども見えて居りますから其事を申し上げます。それを申します前に、足にはどう云う風に働くかと云うに、筋が先刻云うたような工合に大変肥大をする。自転車に暫く乗って居ると足が太くなる。大腿と腓腸筋と就中大腿の伸展筋が太くなることは忽ち分ることである。歩く時には屈曲筋が多く働くのであります。是まで長い間乗って居る者の、尿素及尿酸の排泄量などを極めたことがありますが、そう云うことは之を略して置きまして一例を申しますれば、是は自転車乗を商売にして居るものですが、 24 時間に日本の168里走ったと云う大変な話しである。其後に体重を量った所が、初め出た時より6「キロ」 35 と云うものが減って居る。即ち1貫5百目ばかり減っている。過度にすると云うことは勿論宜しくないことである。斯う云う時に減る分量は水であります。蒸発は烈しくなるので、水分が減るのです。何しろ烈しく身体に影響があるのであります。それから食物の消化は大変に促される。消化の悪い神経性の人には頗る効がある。併しながら是も程度の問題であって、沢山食事をした後で直ぐ乗ると云うと、返って消化を害する。此点は注意すべきことである。飯を沢山食った後に自転車などに乗ると前に屈むと云うことが宜しくない。食後に前に屈むと云うと、胃を圧迫する。胃を圧迫しては、胃の内容は能く混合することが出来ない。胃が圧迫されて、そうしてそれのみならず烈しく運動する為めに、血液が手足の方に流れて行く、従って胃の分泌が減少する。即ち、消化を害するのであります。それらの関係で食後自転車に乗るのは宜しくない。特に曲って前に屈むと言うことに付ては大変西洋人は戒めて居る。日本で上手に乗る人は「ハンドル」を下の方に下げて乗って居りますが、是は益々宜しくないことである。
ただ今の食後の時のみならず、ウェルヒョウなどが述べて居る中に、血管中の大なる脈管を圧迫するから甚だ宜しくないと云うて居ります。自転車に乗ると便通が多くは宜しくなる。即ち慢性の便秘即ち常習便秘に悩んで居るような人に是は宜いのでございます。常習便秘の婦人などが自転車に乗って好くなると云うことを聴いて居ります。丁度好い具合に直腸の刺激があるので、便通は頗る宜くなるのであります。それで消化が宣くなるために、糞便の分量なども少くなるし、従って効がある訳であります。ただ其度を過すと云うと、矢張直腸部に血液の集まることが余り多くなって、それからうっ血を起し、それが為めに痔核を造ると云うようなことがある。私は軽度の痔を有って居るので、治療の積りで乗って居ります。

(つづく)

※明治34年済生医会第四総合に於ける入澤達吉博士の演説より。


参考資料、
人事興信録 第8版、1928年(昭和3)7月より

入澤達吉
位階・勲等・功級 從四位、勳三等
爵位・身分・家柄 新潟縣士族
職業 醫學博士、東京帝國大學醫科大學教授
性別 男性
生年月日 慶應元年一月五日 (1865)
親名・続柄 入澤恭平の長男
家族 妻 常子 明一二、五生、子爵中牟田倉之助三女
男 民政 明三二、一生

君は新潟縣士族入澤恭平の長男にして慶應元年一月五日を以て生れ明治七年一月家督を相續す同二十一年醫科大學を卒業して醫學士の稱號を得同二十三年獨逸に留學し同二十七年歸朝宮内省侍醫局勤務となる同二十八年醫科大學教授に任し同三十年東京市養育院醫長に任し駒込病院醫長となる同三十二年醫學博士の學位を受け現に東京帝國大學醫科大學教授たり
家族は尚二男文明(明三五、二生)四男和平(同三八、八生)五男博愛(同四四、四生)長女五十子(大三、二生)あり
妹グン(明五、七生)は東京府平民天野喜之助に嫁せり
住所 東京、本鄕、金助町一
電話番号 長下谷三〇四七

人事興信録 第8版、1928年(昭和3)7月発行