曲乘り
世界一自転車曲乘一家訪問
横井栄三さんの御家族カメラ訪問
長い間アメリカで芸をみがかれ、今なおすばらしい芸をされるパパを始め、横井さん8人の御家族はみんな世界一の曲乗りの名人です。めずらしいこの御一家を、カメラを持っておたずねしました。写質はお姉さまのメリーさん(右)とリリーさん (左)の美しいポーズです。
日本自転車史研究会のブログ Copyright © Yukio Ootsu
特許関連
コネチカット州ニューヘイブン郡ニューヘイブン在住のリチャード・C・ヘミングスは、自転車の新規かつ有用な改良を発明した。また、添付図面(本明細書の一部を構成する)を参照することにより、当該業者であればこれを製造および使用できる。
本発明は、トラクションホイールの内面に軸受を有するトラバースホイールによってトラクションホイールを回転させ、操作者がホイールのリム内で回転させることによって走行する。
添付図面において、図1は機械の側面図である。図2は図1の線xxを通る垂直断面図である。
イングリッシュ・メカニック誌
ヴェロシペード関連
下の図は、1869年にフィラデルフィアで出版された楽譜『The Velocipede Set "A New Thing Under the Sun"』の表紙。当時の人気リトグラフ作家トーマス・シンクレアによって手掛けられたモノクロのリトグラフ(石版画)である。
中央のメインイラストは、 当時のロングスカートをはいた女性が、初期のペダル式自転車である「ヴェロシペード(Velocipede)」を優雅に乗りこなす姿を描いている。
下部には、この楽譜セットに含まれる楽曲リスト(VELOCIPEDE MARCH, VELOCIPEDE SCHOTTISCH, VELOCIPEDE WALTZ, VELOCIPEDE GALOP, VELOCIPEDE POLKA)が記載されている。
世界100人の物語全集
「世界100人の物語全集」〈9〉発明発見の物語―私はこんな人になりたい (昭和39年)
より、
自転車発明の歴史
ニエープスからミショー、ローソン三代にわたる創意工夫
わたしたちの子どものころは、外へ出ようとすると、「自転車に気をつけなさいよ!」 と注意されたが、今は、「自動車に気をつけて!」といわれる時代です。時代は進歩していき、便利な世の中になってきました。
ところが、そのかんたんな、もう、少し古くなった自転車でさえ、今の形になるまでには、七十年の苦心といろいろの人たちの創意と努力が、積み重ねられているのです。
わたしたちの身のまわりの道具は、みんな長い人類の歴史が生み出したものです。それを考えると、なんだかむねがわくわくするような、ふしぎな気持ちになりますね。
作・山本和夫 さしえ・下高原千歳
サイクル・エイジ誌
ゴンパーズのヴェロシペード
下の図は、1821年にイギリスのルイス・ゴンパーズ(Lewis Gompertz)によって開発された、腕と脚の両方の力で進む改良型の「ドライジーネ(ホビーホース)」である。
当時の自転車の進化において非常にユニークな工夫が施されており、以下のような構造的な特徴を持っている。
主な特徴とパーツの役割C(ハンドル・レバー部分): 乗り手が両手で前後に押し引きするレバー(ハンドルバー)。D・G(セクターギアとラックギミック): ハンドルレバー(C)と連動した「セクターギア(扇形歯車)」が前輪の軸にある小さなラチェットギヤ E(ピニオン)と噛み合っていて、手でレバーを引くと前輪が回転し、推進力を生み出す。B(胸当て): 乗り手が前傾姿勢になり、上半身(胸)を預けてしっかりと体重を支えるための布製パッド(クッション付きのフレーム)。これにより、腕で力一杯レバーを引くことができる。H(サドル): 乗り手がまたがる座席。当時はまだ現在の自転車のような「足で漕ぐペダル」がなかったため、乗り手はサドルに腰掛けた状態で地面を足で蹴って走り(脚の力)、同時に手元のレバーを引くこと(腕の力)で、より効率的に、かつ高速に進むことができるよう設計された。
日米商店関連
以下は日米商店関連の資料、
二十四 自轉車競爭 曲乗り
自轉車競争とか曲乗リとか云ったものにも、大いに全力を傾注致した。當時は自轉車の我國に於ける興隆期であり、限られた一部紳士間の娛樂用から、漸く一般實用化に向つて過速度的に發展致してをった時分であったからして、自轉車競争なども大いに大衆の人氣を集めてをった。
米車スターリングを扱った時代にも、既に日米商店所属選手は養ってをって、各地の競爭會には出場させてをったが、餘り思はしくなく、徒に他の米車チームに名を爲さしめてをった。それでも、九州日々新聞社主催で行はれた九州一周千哩レースなどスターリングの吉井選手が一着の榮冠を得たりも致したが、・・・
バイシクリング・ワールド誌
カナディアン・ホイーマン誌
下の資料は、1887年7月に発行された『The Canadian Wheelman』第6巻・第9号の表紙。
この雑誌は「カナダ自転車愛好家協会(Canadian Wheelmen's Association)」の公式機関誌。
表紙の広告は、ボストンに拠点を置いていたOverman Wheel Co.で、ヴィクター(Victor)自転車の特徴と優位性を質問形式で列記している。
「ヴィクター」ブランドの優位性を、タイヤの品質、リムの強度、ゴム製ペダルなどの技術的側面から解説している。
ベイリーズ・マンスリー
ベイリーズ・マンスリー・マガジン 7号 スポーツと娯楽 第30巻 第204号 1877年発行
フォークストン子爵、国会議員
フランス系のブーヴェリー家は、16世紀後半に祖国での宗教迫害を避けるためケントに移住したローレンス・デ・ブーヴェリーの子孫であり、他の多くの貴族家と同様に、商業の繁栄という確固たる基盤の上にその名声を高めてきた。商人が王であり、貿易商が地上の名誉ある存在であるこの都市において、ブーヴェリー家は長らく卓越した地位を占めており、1747年に当時の一族の代表者がフォークストン子爵およびロングフォード男爵の称号で貴族院に召集されたとき、王室の行為は高潔な人格と卓越した地位に対する適切な承認であると考えられた。・・・
ランウェル・サイクル
ホイール・サイクリング誌
ザ・ホイール サイクリングジャーナル
第4巻 第1号 - 通巻70号
ニューヨーク、1883年4月6日発行
THE WHEEL A JOURNAL OF CYCLING
ラーヂ号関連
「裸一貫より光之村へ」 創業三十五周年紀念 日米商店 編 昭和9年発行より
自動車同様に当時歐米に流行した、簡易利便の粋たる自転車の輸入に卒先せし𤏐眼者中に日米商店の名を逸する事は出来ませぬ。時は明治三十一年、僕放浪の海外生活を終って歸朝せし當時、横濱市海岸十一番に、マクアーサーと稱する一輸入商あり、店主が僕と相識の故を以て、ランブラー號仕様書の反譯を託せられ、三日間勤勞の代償として、同自転車一臺を贈られました。尤も其時代には、今日の如き自転車部品の名稱適譯を發見するに苦しんだが、當時和文參考資料としては、石川商會發賣のアイバンホー、ビヤスの説明書以外になくクリーブランド及ウエストすら、英文以外になかった時代です。是れ今より三十六年前で其頃日米商店主岡崎君は、横濱三井物産に勤務せられ、海外輸出の任にあり、偶々同氏の姻戚某氏の紹介で私が君の交友の一人となり得た事は欣快に堪へざる次第です。
其後僕はゴム界の人となり、君は其翌年より先づ寫眞機を、續いて米車スターリングを輸入し、次にマクアーサー氏の輸入せしラーヂ號の日本一手販賣の特約者として日米商店今日の礎を築かれしは不思議なる因縁です。加ふるにダンロップ會社が嘗て鬼タイヤを製作し大に愛顧を蒙りたるが如きも亦故なきに非ざる次第です。
ホイール誌
バイシクリング・ワールド誌
アメリカ自転車連盟の機関誌
週刊発行、マサチューセッツ州ボストン、ペンベリオン・スクエア8番地
ウィリアム・ギルマン編集長 ホッジス社発行
以下の資料は、1882年5月19日にボストンで出版された『The Bicycling World』誌。この号には、American Wheelmen連盟の公式な内容が含まれている。当時の自転車店や自転車用品メーカーの広告が多数掲載。
バイシクリング・タイムズ誌
ザ・バイシクリング・タイムズ・アンド・ツーリング・ガゼット。
自転車関連のイベント、話題、発明、通信、および関連事項に関する週刊記録。
1877年6月7日号
註、『The Bicycling Times and Touring Gazette』は、1870年代後半から1880年代前半のヴィクトリア朝のイギリス(ロンドン)で発行されていた初期の週刊自転車専門雑誌。
ホイール誌
下の資料は、1893年2月24日発行の自転車業界誌『The Wheel and Cycling Trade Review』
The Wheel and Cycling Trade Review
1893年2月24日(第11巻 第1号)
広告の中央には「RAMBLER(ランブラー)」のクロスワードパズル風のロゴが配置されている。ランブラーは当時、シカゴを拠点としていたGormully & Jeffery Mfg. Co.が製造していた人気の自転車ブランドであった。
ヴェロシペディスト誌
The Velocipedist.
「THE HUB」誌
「ザ・ハブ」誌 1897年5月8日号
J・A・ロバートソン
ピーターバラのJ・A・ロバートソンの名は、自転車界でその名声を十分に認められている。レーサーたちは彼を畏敬の念をもって見ており、トラック設計者たちも頻繁に彼の助言を求めている。何よりも、ロバートソンは紳士であり、レースウェアを着てトラックにいる時も、日常生活における数々の社交の場にいる時も、等しく好人物である。
数日前、この国への短い訪問中に、ハンマンが彼を訪ねたとき、彼はクラブ会員や友人たちが集まっている場所で紹介されると、静かな隅へと案内されたロバートソンは椅子に深く腰掛け、次々と投げかけられる質問に答えた。
ロバートソンを表現する最良の方法は、彼がフランク・ショアランドを彷彿とさせると言うことである。同じように細身で引き締まった体型、それほど広くない肩幅、そして力強い下肢を持っている。また、夜には静かで陽気な輝きがあり、「良い冗談を聞けばわかる」という表情、そして落ち着いた決意と覚悟の表情がある。
無駄話に時間を費やすことはほとんどない。
「いつから乗り始めたのか?」とのハブマンの質問にロバートソンは、「最初にレースを始めたのは1891年です。もちろん、それよりもずっと前に自転車の乗り方を学びました。趣味として乗り始めたのは、11歳くらいの頃だったと思います。」
「私が覚えたのは普通の40インチの自転車でした。ですから、私が幼い頃はそれほど大きな少年ではなかったことは、判断していただけるでしょう。安全装置付きの自転車が流行し、誰もがそれに乗っていた時でさえ、私は古い自転車に乗り続けました。自転車を交換するまでには何年もかかりましたが、もちろん、一度安全装置付きの自転車に乗ってしまえば、そのタイプの自転車を使い続けることに疑問はありませんでした。」
最初のレースは、ミッドランドの競馬会の一つで行われました。1マイルのハンディキャップレースに出走しました。何のハンディキャップだったかは覚えていませんが、いずれにせよ、優勝はできませんでした。しかし、次のレースではずっと良い成績を収めました。ノッティンガムでノッツフォレストスポーツに出場し、2つか3つの賞を獲得しました。1891年には、いくつかのロードレースに出場し、25マイルのレースで優勝しました。」・・・
ヴィクター号関連
下の資料は、1889年5月3日に発行されたアメリカの雑誌『The Bicycling World & Bulletin』の表紙。中央に描かれているのは、オーバマン・ホイール・カンパニー(Overman Wheel Co.)が製造した「ヴィクター・セーフティ」自転車。このモデルは、当時革新的だった独自のスプリングフォークを備えているのが特徴。
『The Bicycling World & Bulletin』誌は1878年の創刊。
ヴィクター・セーフティは、市場で唯一効率的なスプリングフォークを搭載している。アメリカ製の唯一の「ダイヤモンドフレーム」セーフティである。
オーバーマンホイール社、ボストン
水上自轉車
「輪界」第11号 輪界雑誌社 1909年(明治42年)7月25日発行
名家の論説
水上自転車 発明談
「石山式水上航行器」の発明者である、埼玉県熊谷町48番地の平民・石山善太郎氏が、このたび当局の特許を取得した「水上自転車」について語った内容は以下の通り。
▲石山氏の経歴
石山氏は今年26歳になる青年で、熊谷町に生まれた。幼少期は熊谷小学校に学び、明治32年に熊谷中学校へ進学。同校を卒業した後は、主に商業で身を立てようと考えて上京し、早稲田大学商科で学ぶ。しかし、途中でやむを得ない事情があり郷里に戻って引きこもっていた。
一方、彼の厳格な父・新蔵氏は幼い頃から発明を好んでおり、家事一切を妻や家族に任せて、もっぱら様々な発明に心を砕いていた。これまでにも成功させた発明は少なくなかったと云う。新蔵氏は明治17~18年頃から「水上航行器」を発明しようと心掛け、色々と苦心していた。しかし、不幸にも最新の科学的素養がなかったため、この発明(理論化や地盤固め)を息子の善太郎氏に依頼した。
ところが、善太郎氏も中学校こそ卒業しているものの、工芸や科学に関する専門的な素養はなかったため、それ以来、独学でこれらの研究に従事した。専念し苦心した結果、ようやく一昨年の末になって、おおむね理論に合致する考案がまとまったため、再びこれを持って上京した。
▲実験の困難
石山氏はこの発明を友人たちにも固く秘密にし、「成功した暁に発表しよう」と考えていた。というのも、この実験は非常に難しく、もし世間に気づかれるようなことがあれば、せっかくの苦心が他人に横取りされてしまう恐れがあったからである。
また、自分自身は製図などに熟練していなかったため、やむを得ず一人の友人に頼んで図面を引いてもらう。そして、芝浦製作所の理事である石川角造氏が経営する「芝区三田四国町
特許模型製作所」を訪れ、石川氏に事情を打ち明けて模型の製作を依頼した。
しかし、どのような事情があったのか、石川氏は依頼を引き受けてから半年が過ぎても製作を完成させなかった。そのため、前年(明治40年)の夏に特許を取得しようと楽しみにしていた計画も水の泡となり、石山氏は焦りと不安から何度も催促を行う。そうしてようやく、昨年(明治41年)10月頃に、不完全ながらもなんとか製作が完了した。
▲実験の結果
芝浦製作所で製造されたその機器を使って品川湾で実験を行った。その結果、製作所での作りが雑だったために2~3の欠点はあったものの、理論上においては完全に成功を収めることができた。そのため、すぐに特許局へ申請して特許を求めたところ、幸いにも特許を取得することができた。
▲価格と製造
石山氏は熊谷町に自身の製造工場を持っているわけではないため、この水上自転車をすぐに製造・販売することは難しい。氏は現在、別の一生懸命な大発明に心を砕いている最中でもあるため、この水上自転車の特許権を(他社へ)譲渡したいという考えを持っていた。なお、製造費については、全部を鋼鉄製にした場合、130円から180円程度で製作できる見込みだという。
註、石山式水上航行器(石山式水上自転車)は、明治末期(明治41〜42年頃)に埼玉県熊谷町の発明家・石山善太郎が考案した水上自転車型の航行器具で、特許申請まで行われたものの、構造が複雑で実用化には至らなかった。現存図面は未確認で、一次史料は雑誌『輪界』(明治42年7月25日発行)の記事が現在のところ唯一の詳細な情報源である。
ザックス
ジョージ・シンガー氏が20年以上前に設立した会社は、当時比較的規模が小さかった自転車業界ですでに評価されていた。実際、「シンガー」の歴史は23年以上に及び、現在に至るまで「同業中の第一人者」という高い地位を享受している。私がシンガー・サイクル・カンパニーの巨大な工場を何度か訪れた際、各部門の完璧さに感銘を受けた。・・・
現在では普遍的な接線スポークシステムは、ヘインズ&ジェフリーズ社によって「アリエル」に採用された。同社が1876年に初めて発表したコベントリー三輪車は、「コベントリー・ロータリー」の先駆けであり、ウェールズ公妃が愛用したタイプの自転車だった。1896年初頭には、この美しい「三輪車」の1台が公妃のために特別に製作された。興味深いことに、「オーディナリー」が登場して間もなく、コルティス博士はロンドン製の「インヴィンシブル」と呼ばれる自転車で、1時間で20マイルを走破した。速度が上がり始め、簡単に乗れる自転車が広く求められるようになると、メーカーは「安全性」に注目するようになった。