2021年9月24日金曜日

自転車と市電

 自転車と市電

下の写真は大正12年6月1日発行の「自転車の経済と其活用」渡辺承策 著
所収のもの。

そのキャプションに、
どの町どの通りでも大抵斯の様に自轉車の輻輳が劇しのであります。
真に現代は自轉車の時代ではありませんか。

とある。
石畳の大通りには多数の自転車と市電だけが見える。
自動車はどうやら見当たらない。冬場の朝の通勤風景のようである。
交叉点の手動式信号が変わった直後か。

「自転車の経済と其活用」所収

2021年9月23日木曜日

自転車趣味の会

 自転車趣味の会

この会は、鳥山新一氏が代表幹事となり「自転車趣味の情熱を通じて、自転車文化を守り育てる活動を展開する」ことを目的として1993年9月に設立された。

そして第1回の集い「講演とコレクション展示」が同年11月3日(文化の日)に中野サンプラザで開催された。

鳥山さんから事前に講演を頼まれていたので、当日は早めに出かけることにした。

以下は当日の私の講演内容である。(一部加筆修正)

オーディナリー自転車について

 オーディナリーとは、ご承知のように前輪の大きいダルマ自転車のことです。
それでは、最初にオーディナリーと自転車の歴史が好きになった経緯をこれからお話ししたいと思います。
まず自転車を好きになった事からお話ししましょう。それは中学2年のころで、父に丸石の内装3段の軽快車を買ってもらったことに始まります。
始めのうちは、ただ家の近くを乗り回していました。初めてのサイクリングは茅ヶ崎から小田原城まででした。
まだこの頃は自転車を趣味と感じていませんでした。
趣味として意識し始めたのは、昭和47年頃です。当時ホンダがオートバイを売るため、その見返りとして、イギリスからラレー自転車を大量に輸入しましたが、その頃のラレーの新聞広告をみて「これが本当の自転車だ!」と思った時から始まります。当時小学生や中学生が乗り回していたゴテゴテしたフラッシャー付自転車にあきあきしていたころで、そのシンプルさに強く引かれたのです。新聞広告に出ていた自転車は、ラレーのロードスターでした。さっそく平塚のホンダ販売店に行き、これを買いました。そして毎日のように乗りまわしました。古風な感じのロードスターを好きになったと言うことは、今思えば、クラシック自転車への興味をもつこれが最初のきっかけでもあったわけです。
ところが、次に興味をもったのは、クラシック自転車ではなく、同じカタログに出ていた最新式のロードレーサーでした。こんどはこれが欲しくなりました。この頃から今まで真剣に読んだ事が無かった自転車雑誌にも興味を覚えました。今度は雑誌に出ていたイタリアのチネリとかデローサなどのードレーサーが欲しくなりました。しかし、結局資金不足のためフランスのプジョーを買う事になりました。これはヤマハが輸入したもので、たしか15万円ぐらいだったと思います。ところが購入した当日交通事故に会い、1時間足らずでスクラップにしてしまいました。家の者はこの事故で自転車は止めるだろうと言っていましたが、かえって病が高じ、また自転車が欲しくてたまらなくなりました。次に買ったのは、ラレーのカールトン・ロードレーサーでした。
しかし、乗っているうちに不満なところが出てきて、1年ぐらいで飽きてしまいました。そして今度は、ルジュンのロードレーサーを買いました。これも欠陥は色々ありましたが、それでもかなり長く乗りました。そのうち今度トラックレーサーに興味が移り、ピスト車を買いました。最初買ったのはイギリスのヒュー・ポーター(Hugh Porter)でした。その後、チネリ・ピストも購入。そして、アマチュア競技の選手登録もし、3年ぐらい色々なレースに参加しました。ですがいつも予選落ちで、千メートルのタイムトライアルも1分20秒を切る事ができませんでした。最高は1分22秒でした。
その後体力の低下もあり、また以前のロードレーサーでのサイクリングにもどりました。現在もこれは続いています。
昭和55年頃、浜松に単身赴任してた頃、ミソノイサイクルで中古のラレーロードスターが目に留まり、すで欲しくなりました。これが今思えば、クラシック自転車への興味を持った最大のきっかけです。それ以来、古い自転車探しが始まりました。ラレーに始まり、トライアンプ、国産のラビット号、岡本ノーリツ号など10台程精力的に集めました。最初の内はただ夢中に自転車ばかりを集めていましたが、そのうち集めた自転車の来歴が知りたくなり、古いカタログとか雑誌等も収集することになりました。そうこうしているうちに、今度は自転車の歴史に興味が移り、以前読んだ「自転車の一世紀」をまた引っ張り出して真剣に何度も読みました。自転車の歴史の本を片っ端から読みましたが、その数の少なさに驚くと共に、なぜ日本では自転車の歴史があまり顧みられないか、疑問に思いました。そして、これからは自転車の歴史を勉強しようと決心したのです。丁度オートバイの関係で歴史研究会を主宰している名古屋の三輪さんと知り合い、自転車の歴史研究会を組織することにしました。この頃、既に亡くなられた大阪の高橋勇さんとも知り合いになり、昭和56年の5月に「日本自転車史研究会」を発足させました。
翌年の1月からは会報も作り、会員も少しずつ増えてきました。会報は現在も発行し、この11月で73号になります。また、今年の5月には自宅の庭に自転車歴史資料館もつくりました。
このように自転車の歴史を勉強しているうちに、今日のテーマでもあるオーディナリーも好きに成った訳です。
オーディナリーについては、自転車好きな方ならご存じと思いますが、この自転車は1880年代に欧米で流行した自転車です。名前が示すとおり、当時この自転車が普通車だったのです。
決して特殊な自転車ではなかったのです。ほとんどは男性が乗りましたが、勝気な女性は、ブルマーなどを着て乗ったようです。
なにしろオーディナリーは、乗ったとき、目の位置が2メートル以上になり、大変気分爽快になります。私は馬に乗ったことがありませんが、感覚としては同じではないかと思っています。
日本でも過去にオーディナリーに乗った人がいて、有名なところでは森村兄弟で、アメリカ製のゴマリー&ジェフリー社のオーディナリーを所有していました。これで明治26年(1893) に東海道をサイクリングしています。
私がこのオーディナリーに大変興味をもったのは、10年程前で、さきにお話ししたように自転車の歴史を調べているうちに、そのデザインの素晴らしさにひかれたのです。ご承知のようにこのデザインは今でもアクセサリーや服地のプリント模様などに使用されています。
それからというもの、このオーディナリーが欲しくなり、探しましたが、その様な自転車はあるはずもなく、なかばあきらめていましたが。5年程前縁あって1台のレプリカ車を手に入れました。しかし、これは当時の忠実なレプリカではなく、不格好なものでした。気に入らないので直ぐに手放しました。
4年前に入手したアメリカ製のケネディーは、まずまずの出来なので、今はこれに乗っています。これもレプリカなのですが、ペダルとバックボーンの曲がりが気に入りません。丁度ロードレーサーのフロント・フォークのカーブと同じで、自然な曲がりが良いのです。やはりオリジナルのラッヂとかシンガー等のオーディナリーにかないません。しかし、このようなオリジナル車はなかなか手に入りません。お金を幾らでも出せ人はすぐにも入手可能なのですが、資金の少ない私には無理です。
現在、イギリスとアメリカではクラッシク自転車のマニアが沢山いて、色々なイベントを行っています。これらのクラブが年に一度集まり世界大会も行っています。今年はチェコで第13回目の大会が行われました。
来年はイギリスと聞いています。ところがサミット参加国でもある、先進国と言われる日本にクラブが無いのです。残念ながらこれらの大会に参加していません。ただ、フランス在住の小林さんがIVCA(国際ベテラン・サイクル協会)の理事になっており、一人頑張っています。
1991年の第11回アメリカ大会には、初めて私と、ここにおられる渋谷さん、それに名古屋の八神さんがオブザーバー的に参加しました。その規模の大きさと素晴らしさに感動した次第です。日本でも将来このような大会ができる日を夢見ています。それには、一人でも多くのオーディナリーやその他のクラシック自転車愛好者を増やすことが必要なのですが、今のところ残念ながらこのオーディナリーに興味を持っているのは私だけです。是非今日お集まりの皆さんの中からオーディナリーの素晴らしさに、あるいは自転車の歴史の探求に興味をお持ちいただければと思います。
取り止めのない話しになりましたが、持ち時間がきましたのでこれで終わりにしたいと思います。
最後にこのような会を企画主催された関係者の皆様のご苦労に敬意を表するとともに、今後のご発展をお祈りいたします。ご静聴ありがとうございました。(オ)

(残念ながら鳥山氏は今年5月に逝去されました)

1993年9月30日付け
日本輪業通信

2021年9月22日水曜日

老舗さんぽ-49

 老舗さんぽ-49

 だいぶ古い話になるが、1994年に日本自転車史研究会の会員でもあった中野サイクルを尋ねる。


当時、所用で盛岡へ行く。団体行動から一人抜け出し、当研究会員の中野保男氏を尋ねる。タクシーに乗り、うろ覚えの住所と店の名を運転手に告げる。
どうやら分かったようで、岩手訛り?の返事が返ってきた。
タクシーに乗ってから45分程で、中野さんの店の前に到着。ブリヂストンの大きな看板が目に留まった。
 丁度中野さんは自転車の修理中で、店先に立った私の顔をみて、軽く会釈した。
初対面なので、始めはただの客と思ったであろう。名刺を差し出し挨拶を交わす。それは同じ趣味人?のこと(御歳は私より先輩であるが)直ぐに話しは自転車談義に移り、図々しくも家に上がり込んでしまった。
 家の中もすべて自転車づくめ、あらゆる置物はすべて自転車。小物を含めて1、000点近くは有ったろう。本も充実していて「自転車の一世紀」をはじめ、殆どの自転車関係書籍は揃っていた。
 タクシーを待たしていたことも忘れ、自転車の話しは尽きない。そのうち堪り兼ねたタクシーの運転手が呼びにくる。心残りではあったが、またの再会を約し、中野サイクルを後にした。

この中野さんのお店について、戦前の名鑑を調べたが見当たらず。おそらく戦後からの営業と思われる。それでも50年以上の老舗であることは間違いない。

ナカノサイクル
Googleストリートビューより

2021年9月21日火曜日

自転車関係資料-54

 自転車関係資料-54

中村春吉の自転車無銭世界旅行ではないが、やはり貧乏旅行に近い。

決行したのは小樽市の奥山瑛明・おくやま てるあき(23)さん

1日2ドル世界一周

昭和42年6月16日発行「アサヒクラフ」通巻2258号 16頁~21頁

以下に本文の一部を抜粋

世界一周サイクリング旅行を企てた。その計画とは、アメリカ、ヨーロッパ大陸を自転車で横断して、ギリシャから船で東南アジアを回ってこようというものである。大学の三年間、トレーニングで明け、アルバイトで暮れ、英会話に精を出した。機は熟せり…いざ実行という段になり、はじめてアメリカ人の先生にこの計画を話すと、文字通り飛上がって驚いた。「アメリカ大陸を甘くみてはいけない、人家一軒ない広大な砂漠もある。自動車だって大変なのに、自転車で横断とはクレージーだ。あえて決行するなら、即ち自殺である……」と。さらに自転車通行禁止のハイウェー、山猫、熊、ガラガラ蛇の襲来など、不利な条件ばかりを述べ計画中止をすすめる。
そんな話を聞き、一時は意気消沈、計画断念まで考えたが、しかし、三年間見続けた夢は、なかなか消えない。「青春は二度ない、かつてどこかの男がヨットで太平洋を渡っているではないか、まして俺は陸の上……」と自ら励まして、ついに一九六六年三月二日、横浜港から、やっとこさ「日本脱出」に成功したのである。この時、ロサンゼルスまでの船の切符を買って、フトコロに残ったのは、わずか九万数千数十円也だった。

旅行コース( )は年月日
横浜('66/3/2)→ホノルル(3/10)→ロサンゼルス(3/17) →サンフランシスコ(7/20) ポートランド (7/29)ソルトレーク(8/20) → デンバー(9/3)→セントルイス(10/10) シカゴ (10/15) →デトロイト(10/31) トロント(カナダ)(10/10) バッファロー (11/7) → ニューヨーク (11/16) →飛行機。
マドリード (1/16)→グラナダ (1/22) → マルセーユ →モナコ(2/10)→サンレモ(2/11) → ピサ (2/12) →ローマ(2/13) マルセーユ (2/21) →ボンベイ (3/15) → コロンボ (3/19) →シンガポール(3/12) →バンコク(3/15) →香港(3/22)→横浜 ('67/3/29)


この写真のキャプション、
オレゴン州でキャンプ用トレーラーをバックに記念撮影
親善用に前輪の両サイドにつけた日の丸と星条旗がよく人目をひき昼飯をごちそうになった右手の時計型コンパス魔法ビンは便利だった。

2021年9月20日月曜日

丸石大阪支店

 丸石大阪支店

下の写真は丸石の大阪支店、ずらりと自転車が並んでいる。
これら自転車はプリミヤ、トライアンプ、ピアスのはずである。

日本で丸石商会が一手販売したプリミヤは、神戸市筒井町の日英自転車製造株式会社が製作した日本製のプリミヤ自転車、ピアスは石川商会時代からのブランド、トライアンプ号は後発の自転車である。

大阪市東区博労町(坐摩前筋) 合資会社丸石商会大阪支店
取扱商品、ピアス、トライアンプ、自転車付属品、BSA自動自転車など

全国自転車商名鑑 大正3年
国会図書館所蔵資料

同上

同上
国会図書館所蔵資料
コマ番号30

2021年9月19日日曜日

エンパイヤ号

 エンパイヤ号

今回も岡本の自転車である。

岡本と云えばすぐに思い浮かべる銘柄はノーリツ号である。ノーリツ号イコール岡本と云ったイメージが強い。これは岡本が何種類かあった銘柄をノーリツ号一本に集約したためで、大正13年からこの銘柄を踏襲している。それ以前はエンパイヤ号と云う銘柄が岡本のメインであり、当時の広告に度々このエンパイヤ号が登場する。

下の資料もその一つである。

1921年(大正10年)9月1日の官報
その宣伝文句に、

畏くも宮内省より数度御用命の光榮を荷ふ
博覧会共進会に於て毎次名誉金牌・大賞牌を拜受す
陸海軍逓信各省御指定の我社製品
輪界に斯る最大名誉を博せるは單り
我社製品…
要するに品質本位の優良車なればなり
 EMPIRE エンパイヤ自転車
名古屋 株式会社岡本自転車自動車製作所

とある。

大正10年9月1日付け官報の広告
国会図書館所蔵資料

2021年9月18日土曜日

ノーリツ号

 ノーリツ号

下の写真は昭和22年ごろの岡本ノーリツ号である。三菱十字号同様にフレームはジュラルミン製、戦後間もない時期に発売されたもの。このノーリツ号を入手してからも既に40年ほどになる。

軒下に長年置いているので劣化が著しい。スチールの部分は見ての通り赤さびだらけ。おそらくフレーム部分もかなり劣化が進んでいるだろう。

入手してから数回は試乗したが、フォークの強度に不安があり、それ以来まったく乗っていない。販売の当初からこのフォークの強度不足は問題で、折損事故も起きたとも聞いている。発売から何年間続いたのか分からないが数年で販売を停止したはずである。

このノーリツ号は浜松に腕のいい職人がいて、その店で組み立ててもらったもの。

以下がその辺の経緯である。

その腕のいい職人さんとは小栗自転車店の店主であった小栗幸平さんで、きっかけはラレーロードスターに付いていたスターメイ・アーチャーの内装ハブが故障して、どこの店に行っても修理ができないと断られていたが、あるバイク屋さんを訪ねたところ、腕のいい自転車店を知っていて、浜松市鴨江の小栗自転車店を紹介してくれた。

或日、小栗自転車店を尋ねた。店主は小栗幸平さんと言って、この時すでに83歳のご高齢であった。まず驚いたことは店の佇まいで、一般の自転車ショップのイメージからまったくかけ離れた店であった。店内に新品の自転車が置かれていないこと、床は土間であった。天井から古いフレームが何本も下がっていたり、中古の自転車が数台置いてあった程度。修理用の大きな作業台には万力があり、土間には確かフイゴのようなものもあった。昔の鍛冶屋のことは知らないが、たぶんそのイメージに近い店である。

小栗さんは釣りが趣味で、釣から帰ってきたところで、スターメイ・アーチャーの内装ハブの修理を依頼をした。早速、快諾をいただき、その日はラレー自転車を預けて帰る。

数日後に、店へ行ったところ、既に修理は終わっていて、完璧に直っていた。これがきっかけで小栗さんと親しくなり、中古車だが2台この店で購入した。1台は昭和22年製の岡本ノーリツ号で、これは天井から下がっていたフレームに適当な部品を組み合わせて作っていただいた。もう1台はこれも昭和20年頃のフレームで、形状はスチール製の十字号のような形であった。

奥がその岡本ノーリツ号

ヘッド部のリベット留め

 
クランクアームに
OKAMOTO CYCLE CO とある

錆は酷いがチェーンホイールも岡本のオリジナル

強度に不安があったフロントフォーク部分

チェーンステー後部

上部シートチューブまわりのようす

2021年9月17日金曜日

カッター號

 カッター號

先のブログの中で、(2021年9月14日火曜日、チドリ号

「昭和10年代にもチドリ号やカッター号があったのかいまのところ不明である」

と書いたが、本日、昭和4年度の輪界興信名鑑を眺めていたら、ヒドリの自転車カッター號が載っていた。下がその広告である。

昭和新進の標準車 ヒドリの三種
カッター號
フクフク號
レンサ號
ヒドリの自轉車 製造発売元 東京市日本橋区本銀町三丁目 正輪社

とある。

チドリ號については、チドリ商会と云う名で昭和4年、昭和12年発行の名鑑に出ている。はたしてこのチドリ商会がチドリ号の発売元であるのか、もしそうであれば、チドリ号代理店山内自転車店の店舗前写真の撮影年も昭和6年頃で間違いないということになる。

昭和4年、チドリ商会 東京市芝区櫻田鍛冶町三 小売商

昭和12年、チドリ商会 東京市渋谷区景丘10 完成車・フレーム製造

同じチドリ商会だが所在地が違っている。小売りと製造元の相違もある。はたして同じ会社なのか判断できかねる。チドリ号と云う銘柄も載っていない。

「輪界興信名鑑」
 昭和4年度 東部日本
日本輪界新聞社
昭和4年発行
国会図書館所蔵資料
コマ番号26

輪界興信名鑑・東部日本 昭和4年
国会図書館所蔵資料
コマ番号46

全国輪界興信名鑑. 昭和12年版
日本輪界新聞社
国会図書館所蔵資料
コマ番号71

2021年9月16日木曜日

自転車関係資料-53

 自転車関係資料-53

西独から来た自転車夫妻

昭和43年12月20日発行「アサヒクラフ」通巻2343号 41頁~49頁

CYCLING ROUND-THE-WORLD German journalist Mr. Wolf Dieter Ahlborn, accompanied by his wife Wilma, set out cycling round the world from their hometown, Heilbronn,near Stuttgart Sept. 16, 1966. in Cairo they were detained for 49 hours by police on suspicion of espionage, when they took pictures without permission in a desert in Syria, an Arabian nomad proposed Ahlborn give Wilma to him in exchange for his two concubines, children, 450sheep and camels, and tents. They reached Japan months ago by way of Malaysia and Thailand.
They found Japanese most hospitable among Asians, but learned that few people here speak correct foreign languages.

以下は抄訳
1966年9月16日、自転車世界一周のドイツ人ジャーナリスト、ウルフ・ディーター・アールボーン氏は、妻のウィルマと一緒に、シュトゥットガルト近郊のハイルブロンから世界一周の旅に出発した。
シリアの砂漠で許可なく写真を撮ったため、スパイ容疑の疑いでカイロ警察に49時間拘束された。
アラビアのある遊牧民からは、2人の側室、子供、450頭の羊とラクダをやるから妻のウィルマをよこせと要求される。(当然断ったが)
夫妻は数ヶ月前にマレーシアとタイを経由して日本に到着した。
日本人はアジア人の中で最も親切であると感じたが、正しく外国語を話す人はほとんどいなかった。

なお、日本について本文の方では、

いま、この美しい日本に来て、三カ月あまり日本各地を旅して回り、その目ざましい経済の発展ぶりに驚かされている。私たちは、アジアの各地で、ほんとうに心からの客人扱いを受けたが、その中でも日本は、ナンバーワンであった。ただ残念なことは正しい外国語を話す人たちが少なかったこと、そして余りにも狭い道路は幻滅だった。にもかかわらず、いくらほめてもほめたりないのは、日本の料理である。

とある。

「余りにも狭い道路は幻滅だった」と、「正しい外国語を話す人たちが少なかった」以外は高評価であった。この悪評の2点については、現在もあまり変わっていない。

昭和43年12月20日発行「アサヒクラフ」より

2021年9月15日水曜日

自轉車関係資料-52

 自轉車関係資料-52 

下の資料は劣化がひどく、触るとポロポロと切れてしまう。

戦前のチラシと思われるが何時ごろのものか、いまのところ不明である。
一応、大正14年と昭和10年の名鑑をざっと眺めたが見当たらず。

日本自転車株式会社、東京市麴町区有楽町一丁目五番地
「日本自転車株式会社」とは、大日本自転車株式会社のように大きく出た社名がいい。

N號三輪運搬自転車(我国最初の特許品)
壱台金弐百五拾円とある。価格が高いか低いのか分からないが、かなりの値段のはずだ。

左上の写真をよく見ると東京九段の坂を上っている様子がわかる。
逓信省、鉄道省御採用品とも書いてある。

N號三輪運搬自転車のチラシ
日本自転車株式会社

2021年9月14日火曜日

チドリ号

 チドリ号

下の写真の店舗軒上の看板に「代理店チドリ号 タンスヤ 山内自転車店」とある。
この写真の撮影年は昭和6年ごろと、写真を提供してくれた林さんから聞いている。しかし、未だにこの時期にチドリ号と云う銘柄の自転車は記録に出てこない。昭和20年代になると、株式会社銀輪社 千鳥自転車工場 東京都港区芝佐久間町1-5 サンチドリ号、銀栄号の名前がある。果たしてこの千鳥自転車工場の自転車なのか判然としない。更に一番下の選手の集合写真をみると左上の法被を着た人物の襟元下にヒドリ自転車カッター號と書いてある。このカッター號も昭和20年代に登場する銘柄である。
昭和10年代にもチドリ号やカッター号があったのかいまのところ不明である。もしなかったのであれば①と③の写真は昭和20年代に撮影されたことになる。

以前に林さんから伺ったところでは、

チドリ号代理店山内自転車店(東京府荏原区小山町五四番地)前にて、昭和6年頃撮影。左から二人目が店主山内明延さん、そのとなりの女の子は長女の静さん当時7才。タンス屋から自転車好が嵩じて自転車店を始めたという山内さん。また彼はその頃各地で行なわれた草レースにも出場し活躍した町のレーサーでもあった。同僚の選手に、友谷富之助、勝又吉之助氏らがいた。内弟子には高木子爵の弟で石沼氏もいた。昭和9年頃、この内弟子に同店を譲り、山内さんは都合あって栃木県那須郡下江へ引越してしまった。

①の写真をよく見ると昭和20年代には見えない。昭和初期の面影を残している。アセチレンランプを付けた自転車や大正期に流行ったハンドルをアップにしたレーサータイプの自転車も見える。林さんに長女の静さんの生年月日を聞けばよかったといまになって後悔している。

荏原区(えばらく)は、東京府東京市にあった旧名、1932年(昭和7年)から1947年(昭和22年)まで。

①の写真の各自転車のハンドルに付けられた三角旗に西小山の字が見える。西小山は、東京都品川区小山で東急電鉄目黒線に西小山駅がある。

②のタンス屋時代の写真を見ると、大正期のレーサータイプの自転車が荷車の横に置いてある。山内明延さんの愛車であった。

③の草レース時代の写真を見ると会の大きな旗と、その右横の中段(しゃがんでいる)に男前の山内さんもいる。

①山内自転車店前

②タンス屋の時代

③草レースの時代
中央右が山内さん

2021年9月13日月曜日

岡本自転車自動車製作所

 岡本自転車自動車製作所小史

岡本自転車自動車製作所の歴史は古く明治32年から始まる。他の資料によると明治18年としているが、根拠となる資料は見ていない。単なる言い伝えと思われる。明治18年と云えば、まだ日本では木製のダルマ自転車も現れていない時代である。

明治32年の根拠としては昭和10年発行の「全国製造卸商名鑑」の172頁に株式会社岡本自転車自動車製作所、開業年月、明治32年と載っている。

●岡本自転車自動車製作所 名古屋市中区東郊通リ七丁目 ノーリツ号 明治32年開業

尚、昭和4年1月8日付け大阪毎日新聞の記事でも明治32年とある。
以下は新聞記事の一部、
自転車と自動車の功労者
岡本松造氏
我国自転車製作工業界の先駆者にして又恩人として筆者は輪業界に我が岡本松造氏あることを深く喜びとするものである。
氏は株式会社岡本自転車自動車製作所の創始者にして現に同社の社長である。
明治32年、氏によりて創始されたる自転車工場は誠に微々たる一小工場にすぎなかったが幾多の犠牲と努力の結果として今日東洋一を誇る岡本製作所たらしめるまでに至ったのである。

以下は、創業者である岡本松造 (おかもと しょうぞう) 1876年-1942年の略歴、
1876年(明治9)3月、岡本半四郞の長男として奈良県の上ノ郷村に生まれる。

1885年(明治18)、自転車部品の製造を始める。(根拠資料なし)

1899年(明治32)、名古屋の古渡町に小さな工場を建てる。

1903年(明治36)、初の岡本製国産自転車を完成させる。

1909年(明治42)、ドイツ、イギリスへ渡航。現地の自転車工場などを視察。

1910年(明治43)、「岡本兄弟合資会社」を設立し、名古屋の御器所村に工場を建設して本格的に自転車の生産を始める。

1919年(大正8)、会社名を「岡本自転車自動車製作所」に改称。

1923年(大正12)、製造台数が年産5万台以上になる。

1924年(大正13)、多数あった車種を廃止し「ノーリツ号」一本に集中して大量生産体制を確立する。

1935(昭和10)、会社名を「岡本工業」と改称し、事業を拡大。オートバイ、飛行機車輪なども生産。戦時下では軍需工場となり、従業員3万人の大規模会社になる。

1939年(昭和14)、岡本航空機工業株式会社を設立。

1942年(昭和17)10月23日、逝去、享年67歳。

以下の沿革は、昭和50年発行の「ノーリツ号の小史」を参考。

沿革
明治18年 岡本松造個人経営により自転車部品の製造を創始す。

明治31年 合資会社に改組、車体の製造を開始す。

明治36年 我が国最初の国産自転車を完成した。

明治42年 社長 ドイツ、イギリスに渡航し、生産技術を更に研究機械類を輸入する。

明治43年 合資会社、岡本兄弟商会とし名古屋市七本松に新式機械を設備した工場を建設し、エンパイヤ号自転車を世に送る。

大正8年 株式会社岡本自転車自動車製作所と改組し、名古屋市御器所町高辻に近代的大量生産の本社工場(敷地2万3千余坪)を建設し、自転車の外飛行機部品の製造に着手す。

大正9年 日本最初の飛行機用車輪を完成し、同年陸軍省指定工場の命を受け、「モ」式軍用飛行機車輪を生産す。

大正10年 岐阜県垂井に垂井工場を建設す。

大正12年 先帝陛下にノーリッ号自転車御買上げの光栄に浴す。
同年 山階宮殿下御台臨、工場御巡覧の栄を賜う。
同年ノーリッ号自転車は単一ブランドによる月産1万台を生産し世の注目を集めた。

大正14年 海軍省より指定工場の命を受く。

昭和2年 社長は、天皇陛下に単独拝謁の光栄を賜わりノーリッ号自転車御買上げの光栄に浴
す。
同年逓信省の自転車指定工場となる。

昭和3年 侍従、海江田子爵当工場へ御差遣の光栄に浴し、社長は自転車産業界最初の人とし
て緑綬褒章を授与せられる。

昭和4年 ノーリッ号自転車は内地の他、朝鮮、台湾、満州、中支、南支、南洋、其他東南アジア各地に販路を拡大した。
同 年 伏見宮家各宮家にノーリッ号自転車の御用命を賜る。

昭和7年 東久邇宮殿下工場御巡覧の栄を賜る。

昭和8年 当社は日本車輌製造、大隈鉄工所、愛知時計電機等の4社で日本最初の乗用自動車「アッタ」号を完成す。

昭和9年 側車付自動二輪車を完成し、陸軍省に納入

昭和10年 自転車部と兵器部を分離し、岐阜県垂井工場を拡張、此れを自転車専門工場とす。
同年岡本工業株式会社と改称し、岐阜県大垣市に大垣工場を完成す。

昭和11年 当社はダイハツ、くろがね、陸王各社と競合小型乗用車(指揮官用乗用車)を完成し陸軍省に納入す。

昭和12年 岡本航空機工業株式会社を設立し名古屋市南区に笠寺工場(敷地13万坪)を建設す。

昭和14年 朝香大将宮殿下御台臨各工場御視察の栄を賜る。
同年愛知県一宮市に一宮工場を買収し、熊本県人吉市に九州工場を建設す。

昭和15年 新潟県新発田市に新潟工場を建設す。

昭和16年 岡本工業株式会社は岡本航空機工業株式会社を吸収合併し、航空機脚及び車輪の最大メーカーとして、国内7カ所に工場を拡充3万人余の人員を擁うし軍需生産を強化した。 又、垂井工場は自転車専門の我が国唯一の軍需工場として自転車の増産を続けた。

昭和18年 愛知県犬山市善師野に秘匿工場を建設す。
同年逓信院指定工場となる。

昭和20年 終戦により賠償指定工場となり名古屋市の本社工場、笠寺工場、岐阜県の垂井工場の三工場を存続させ、他工場は閉鎖す。

昭和21年 岡本自転車株式会社として発足す。

昭和22年 岐阜県垂井工場に今上陛下の行幸天覧の栄を賜る。

昭和23年 ノーリッ号自転車に対し商工大臣賞を授与せられる。

昭和24年 郵政省指定工場となる。

昭和27年 ノーリッ号自転車は通商産業大臣賞を受賞す。

昭和30年 戦後、平和産業の自転車専門工場として出発したるも、1万有余の人員をかかえ混乱した労働問題から再三再四の労働争議により工場を整理す。

昭和31年 岡本ノーリツ自転車株式会社として再出発した。

昭和37年 通商産業大臣よりJIS工場の指定を受く。

昭和46年 ノーリツ自転車株式会社と商号を変更す。

昭和47年 トヨタ自動車販売株式会社と提携「トヨタノーリツ・ミニサイクル」の名称にて、共同開発、全国のトヨタ販売店を通じ生産発売を開始した。

昭和47年 桑田正次社長は、社団法人日本自転車工業会、中部自転車工業会、中部自転車工業協同組合、財団法人中部自転車振興協会の各理事に就任した。

昭和48年 従来の販売網全国81拠点を廃し「トヨタノーリツ・サイクル」「トヨタノーリ・ミニニサイクル」として、トヨタ自動車販売株式会社を通じ流通面に乗せ当社は生産にのみ専念す。

昭和49年 桑田正次社長は日本自転車工業協同組合連合会理事に就任した。

昭和57年 ノーリツ自転車株式会社、臨時株主総会において解散するとの決議を行い、清算法人となる。

現在は一般財団法人ノーリツ財団、名古屋市中区金山5丁目18番30号

昭和10年発行「全国製造卸商名鑑」
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国会図書館所蔵資料

2021年9月12日日曜日

プロ・ロードレース

 プロ・ロードレース

自転車振興会連合会主催による日本で最初のプロ・ロードレースが小田原ー藤沢間の往復110㎞のコースで開催された。使用された自転車はロードレーサー仕様ではなくすべてトラック・レーサーであった。戦後間もない時期なので、国産の変速機の付いたロードレーサーはまだこれからといった時代であった。国産車の振興も兼ねているので、最新式の外国製ロードレーサーは使用されなかった。

以下にその辺の状況が記されている。(「競輪10年史」220、221頁)

昭和二十七年五月八日、連合会主催としてはじめてのプロ・ロード・レースが行なわれた。小田原―藤沢間百十キロ、参加五十七選手。
プロ選手によるロード・レースの試金石として、いろいろな資料を収集することを目的とするレースであった。前日午前十時から小田原競輪場において自転車検査協会の依頼もあり、使用自転車の検査が行なわれたが、いずれもトラック・レーサーで、まだ変速装置をつけたものもなく、リムも木リムで、ポンプを携行したものもないし、サドルも幅のせまいトラック用、要するにロード・レース用ではなく、純粋のトラック・レーサーばかりであった。トラック用のデリケートな構造のレーサーで、ときには相当な悪路をも克服して走り通すことは実際問題としてかなりむりがあることはたしかであったが、一面その結果はどうなるか、という興味はあった。この前日検査のあと全員バスでコースを一周して、あすの走路状況の研究をさせた。
八日午前十一時小田原市内をスタート。
二台の白バイを先頭に、そのあと二百メートル間隔で五十七選手、そのかたわらと後方を、移動審判車、審判長車、委員長車、医務救急車、報道車、見学用大型バスなどが随走、この日薄日、風ょわく良好なコンディションであった。コースは大磯から片瀬、藤沢、茅ヶ崎、平塚を経て大磯へ、そしてふたたび前記コースを一周して小田原へゴールという道順であった。先頭の一団は最後まで離れず、ゴールは二十二名がなだれをうってはいってきた。ロード・レースでは先頭梯団から離れずに走ること、これはロード・レース必勝法秘訣であるといわれている。

1着、水田 佳博(徳島) 2時間50分34秒6
2着 桝野 実(福岡) 2時間50分34秒8
3着 植村 央(東京) 2時間50分34秒8

以下三十四着までがゴール・インした。出場五十七車中、無事故三十車、六車は疲労など選手による事故で棄権、二十一車はパンクその他の事故がおきた。検査協会の調査で後日判明したことは、五車中の四車が、走行前にくらべて一・五ないし五・三ミリ程度ホイルベースがのびていて、ロード・レースに使用する自転車のばあい相当な負荷を受けることであり、使用車はこんご大いに改良されなければならないという結論に達した。


ロード・レースに関する記録一覧 (日自振主催のもの)
「競輪10年史」資料編20頁 昭和35年5月30日発行 日本自転車振興会 編

開催年月日、レース名、走行区間距離、参加選手数、優勝者、年齢、所属選手会、タイム

●昭和27年5月8日 プロサイクルロードレース 小田原一藤沢間
往復 110km 57名 水田 佳博 27歳 徳島 2時間50分34秒6

●昭和27年11月16日 第一回読売杯争奪プロサイクルロードレース  静岡一東京間
200km 36名 川北省三 33歳 東京 6時間59分38秒5

●昭和28年9月27日-29日 第二回読売杯争奪プロサイクルロードレース 東京ー大阪間 591㎞ 48名 個人 鈴木伝四郎 27歳 東京 20時間24分34秒9 

団体ゼブラチーム 木山次郎(個人4位)・鈴木伝四郎(個人1位)・伊東定義(個人8位)  東京 41時間49分7秒7

●昭和29年10月8日-10日 第三回読売杯争奪プロサイクルロードレース 東京ー神戸間 652㎞ 93名 
個人第1区 鈴木伝四郎 28歳 東京(東京ー静岡 196㎞) 6時間24分8秒9

個人第2区 富岡 喜平 33歳 東京(静岡ー岐阜 245㎞) 9時間57分38秒5

個人第3区 渡辺 輝夫 21歳 東京(岐阜ー神戸 211㎞)6時間15分59秒6

団体光風チーム 渡辺正夫(1区4位)渡辺和夫(2区3位)渡辺輝夫(3区1位)東京 23時間9分56秒2

●昭和30年4月1日 第一回全日本プロ自転車ロードレース選手権大会 藤沢・大磯・片瀬周回 200㎞ 116名 大島芳美 22歳 愛知 5時間4分50秒8

2021年9月11日土曜日

輪タク

 輪タク

戦後に現われた交通機関の一つに輪タクがある。この輪タク(自転車タクシー)は、戦時中にもあり、国民車、更生車、厚生車、国策タクシーなどと呼ばれていた。地方のどこの駅前にも2、3台は見かけたものであるが、敗戦後の東京では名前も”輪タク”と呼ばれ、明治から大正期にかけて普及した人力車のように駅前を現在のタクシー並みに占拠していた。まだこの時期はガソリンも不足していたので自動車やオートバイは珍しく、ガソリンのいらない自転車が活躍したのである。昭和24年ごろから数年であったが庶民にとって欠かせない交通機関であった。

昭和21年の春、 新宿の露天商(闇市も統率)、関東尾津組組長であった尾津喜之助(1897年 - 1977年)が200台の輪タクを作らせ、当時の厚生大臣河合良成の協力も得て輪タク事業を始めた。しかし、新宿周辺の地権者から不法占拠だとして、告訴される事態になる。

このような騒動もあったが、この輪タクは全国的にも大いに普及し、便利な乗物として歓迎された。営業当初の料金は一区(24キロ)10円であった。

東京の輪タク台数の推移は次のとおり

昭和24年(1949)  3,498台

昭和25年(1950) 2,302台

昭和26年(1951) 1,611台

昭和27年(1952) 1,161台

昭和28年(1953) 958台

昭和29年(1954) 567台

昭和30年(1955) 449台

昭和31年(1956) 110台

昭和32年(1957) 501台

昭和33年(1958) 17台

昭和27、8年頃になると、ガソリンの供給量も徐々に増え、小型自動車やオートバイも増加、その反動で次第に輪タクは姿を消していく。

参考資料:「東京百年史」 東京百年史編集委員会編 1972-1979

下の写真は尾津組の輪タクである。後部の窓の上に「尾津なリンタク」(おつなりんたく)と洒落て書いてある。新宿界隈をこの車が通ると注目されたはずである。この輪タクの車体を見ると特注の三輪車であることがわかる。フロントのフォークは松葉で堅牢に作られている。後部の座席はフルカバーが施され、雨風を凌いでくれる。このカバーの材質はおそらく軽量のジュラルミンでリベット止めが見える。窓はセルロイド製のようである。乗降は左側の中央に取っ手が付いているので、これで前に開くと中央で折曲がる形状になっている。輪タクに特化した乗り物であることが分かる。果たしてこの輪タクは何處の自転車工場で製作されたものなのか興味は尽きない。

尾津組の輪タク

2021年9月10日金曜日

競輪誕生の前夜

競輪誕生の前夜

 競輪が戦後の復興に寄与したことは誰もが認めていることであるが、最近は残念ながらその競輪の人気は徐々に低迷してきている。9年前には挽回策の一つとしてガールズケイリン(2012年7月1日復活)も始まったが、根本的な解決策にはなっていない。以前から考えていることだが、この競輪も野球やサッカーのように有力な多くの外国人の選手登録を認めてもよい時期に来ているのではないのか、ケイリン(keirin)が自転車競技の国際的な種目の一つになっているのであるから、門戸を広げてグローバル化に対応する必要があると思う。

先日のニュースで、日本初となる自転車トラック「PIST6チャンピオンシップ」が10月2日に千葉JPFドームで開幕するとあった。これは競輪の新しい試みで国際基準のルールに基づき行われる。将来的には外国人選手の参加も検討されているとしている。将来的に検討ではなく、できることなら早く実行すべきである。

競輪誕生の前夜、「競輪10年史」より

昭和21年になっても銀座かいわいの惨状はまだ放置されたままであった。この年6月、銀座と背中あわせの有楽町二丁目に「国際スポーツ株式会社」という看板がかげられた。独立した社屋があるわけではない。国際技術者連合会に同居する法人組織、資本金18万円、それこそ戰後に雨後のたけのこのように、にょきにょきできた小会社の一つである。
 この国際スポーツ株式会社は矢沼伊三郎、倉茂貞助(倉茂 武)、海老澤清文の三氏が企画を立て、一応設立を見たものである。
 昭和22年9月のはじめ、同社の海老澤氏は、「報償制度併用による自転車競走」というあたらしいプランを立てた。これがやがて自転車競技法というあたらしい法律を作り、競輪という車券をともなう独特の自転車競技をうみ出す母体となったのであった。

1948年6月に自転車競技法の法案が可決成立、同年8月1日から施行された。その年の11月20日には国民体育大会の自転車競技会場として建設された小倉競輪場(旧、三萩野競輪場)において、第1回小倉競輪が開催されたのがその始まりであった。

下の写真は、昭和24年1月に初めて大宮競輪が開催されたときのもの、明治後期や大正期の草レースのような風景である。走路も選手のユニフォームも自転車も、そして観衆もすべて黎明期の雰囲気を映し出している。自転車をよく見るとすべて一般的な実用車である。さすがに荷台と両立スタンドは取り除かれたいるが泥除けは付いている。

「競輪10年史」43頁
昭和35年5月30日発行
日本自転車振興会 編

2021年9月9日木曜日

夢のあと

 夢のあと

先日(9月7日)、オリンピック・パラリンピック競技が終了した富士スピードウェイ周辺を尋ねてみた。まだ交通規制の看板が随所に残つていたが、富士スピードウェイの入り口では幟や横断幕の撤収が始まっていた。

7月24日に開催された自転車男子ロードレースの沿道での歓声や熱狂ぶりを思うと、まさに

夏草や兵どもが夢の跡

と云った感じであった。(既に季節は秋だが)

今回のオリンピック競技の中で沿道のすべての観衆を含めると、自転車男子ロードが最大の観客動員数を記録したのではないかと思っている。

今後の日本のサイクルスポーツの発展に寄与したことは確かである。一過性で終わってほしくない。スロベニアのヤン・トラトニク(Jan Tratnik)、タデイ・ポガチャル(Tadej Pogačar)、ヤン・ポランツ (Jan Polanc)、プリモシュ・ログリッチ(Primož Roglič)のような選手が輩出されることを望む。新城幸也選手のようにツールやジロで活躍できるアスリートの登場を待ちたい。

今日はGoogleストリートビューで、ヤン・トラトニク(Jan Tratnik)選手の故郷周辺を散歩した。風光明媚な緑の多い地域である。

スロベニアのリュブリャナ周辺にある2軒の自転車店も尋ねた。

サイクリング・ユナイテッド・リュブリャナ(Cycling United Ljubljana、Dobrunjska cesta 62, 1261 )

VEBカンパニー(Veb Company, podjetje za trgovino in inženiring, d.o.o.)


富士スピードウェイ付近

これから撤去される横断幕

幟の撤収

横断幕の撤去中

7月24日撮影
静岡県小山町上野
先頭はスロベニアのヤン・トラトニク(Jan Tratnik)選手
100㎞以上にわたり常に集団を引っ張っていた
この競技最大の功労者といえる

ヤン・トラトニク選手の故郷
リュブリャナ周辺にある自転車店
スロベニア
Cycling United Ljubljana
Googleストリートビューより

ソーリシュカ プラニナ付近
スロベニアのリゾート地
Soriška Planina
Googleストリートビューより

2021年9月8日水曜日

旧軍需工場の参入

 旧軍需工場の参入

太平洋戦争が終結して、間もなく旧軍需工場の中で、平和産業である自転車の製造を始めた企業が登場した。これらの企業は高い技術と大勢の優れた技術者もかかえていたので、自転車製造は比較的容易であったはずである。

所謂転換メーカーと云われた会社には、次の14社をあげることが出来る。

1、三菱重工津機器製作所 三重県津市 ジュラルミン製の十字号 昭和22年

2、萱場産業岐阜工場 ユートピア号 東京都中央區日本橋本町1-2-2

3、日本金属産業株式會社 東京都中央區木挽町6-7 プテーエクレア号

4、中西金属工業株式會社 大阪市北區天橋筋5-68 N.K.K号

5、半田金属工業株式會社  愛知縣半田市乙川字畑田9 オリオン号

6、不二越鋼材工業㈱ 富山市石金20 NACHI (那智)号

7、富士産業株式會社太田工場 群馬県太田市太田747 ハリケーン号 

8、高砂鐵工株式会社 東京都板橋区 滋賀縣栗太郡草津町矢倉385 T.T.K 号

9、天辻工業 大阪市東淀川區三津屋南通6-12 ニューローレル号

10、片倉工業株式會社 東京都西多摩郡福生町熊川724 片倉シルク号

11、西日本工業 調査中

12、株式會社中山太陽堂 大阪市浪速區水崎町37 クラブ号

13、大同製鋼 名古屋市

14、大和紡績 大阪市 1941年(昭和16年)創業

 参考資料:「自転車の一世紀―日本自転車産業史 (1973年)」

1950 年6月の朝鮮戦争がはじまると、特需による景気からこれらの工場は以前の重工業などへと戻っていた。唯一残っていた片倉シルクも1989年1月には、自転車業界から撤退した。

以下は、参考までに三菱十字号と不二越の那智号について触れる。

三菱十字号

  戦後まもなく航空機の技術者であつた本庄季郎技師が製作した三菱十字号は精緻な強度計算からうまれた自転車であった。
 十字号のコンセプトは次のような考えから発想された。
一、戦時中大量に航空機用材として生産されたアルミニューム合金材を平和産業に転用し、これを有効に利用する。
一、すでに定着したダイヤモンド型フレームはもはや改良の余地がないのか。
一、鋼材の溶接作業にかわり、できるだけプレス作業を利用する。(航空機のプレス作業用機械が遊休中のため)
一、機能を向上させながら工作の合理化、簡便化さらには材料の節約など。
一、分解、組立、手入、取扱の簡易化。
一、精密な構造及び強度計算による安全率の確保。特にアルミ軽合金材の撓みを考慮する。
 こうして、三菱十字号は1947年(昭和22)に生産を開始した。その後、Ⅰ型からⅣ型まで進化していった。
 1950年6月に勃発した朝鮮戦争の特需景気とともに三菱は本来の重工業へと戻って行き、十字号の生産も中止となった。
参考資料:
雑誌「自然」3号 1947年発行(自転車の強度 本庄季郎)
「三菱重工業技術部報告」第62号 1947年 同技術部発行
註、本庄 季郎(ほんじょう きろう 1901年-1990年)、九六式陸上攻撃機や一式陸上攻撃機を設計。

三菱十字号 初期型

不二越・NACHI号(那智号)

 不二越鋼材工業㈱が一時自転車を製造していたことは、あまり知られていない。

以前に自転車技術史研究家の梶原利夫氏から頂いた「日本工場大観」日刊工業新聞 1950年8月1日発行のコピーの一部に不二越鋼材工業㈱の広告があり、ベアリングと自転車の写真が載っている。
不二越の沿革を同社のHPで見ると次のようにある。(抜粋)
沿革 
1925年(大正14) 井村荒喜(1889年長崎県島原生まれ)、技術開発指向の企業を興す。
1928年(昭和3年)富山市に不二越鋼材工業を創立。初代社長 井村荒喜(1928~64年)
1929年(昭和4年) - 昭和天皇が近畿地方を訪れた折り、天皇が不二越の製品である金切鋸刃を見学。不二越は、このとき天皇が座乗した重巡洋艦「那智」の名をとり商標とした。
1941年(昭和16年) - 海軍用の高角砲、機銃の部品生産を開始。
1944年(昭和19年) - 軍需会社法による軍需会社に指定。
1946年(昭和21年) - 自転車や民生品などの製造開始。
1950年(昭和25年) - 自転車製造中止。
1963年(昭和38年) - 株式会社不二越に商号を変更。
この沿革から分かるとおり、昭和21年~25年と短い期間であったが、確かに自転車を製造していたことが分かる。自転車の銘柄は商標から採用した「NACHI 号」であった。

この辺の事情については、下記の資料が参考になる。
SME LIBRARY 22 「日本の工作機械を築いた人々」(以下一部抜粋)
その後は自転車づくりです。不二越の自転車はつくりかたが少し変わっていて,普通は継手にパイプを差し込んでろう付けしてフレームをつくるのですが,当社のはパイプを直接溶接する「フラッシュバット」という方法なのです。この技術は,当時としては最先端だったのですが,たまに折れることもあってあまり評判は良くなかった(笑)。
私が担当したのは,リムとチェーン,泥よけですが,元々機械加工が専門なのに,どちらかといえば塑性加工をやることになってしまった。これがまた大変で,たとえば泥よけは,断面が半円状の板で,これを曲げると曲率半径の違いからどうしても両側にヒダができてしまうのです。
そこで,フープ材(帯鋼)の真ん中だけを圧延することを考えて,圧延と曲げの関係を利用して,次第にヒダのない泥よけをつくれるようになりました。それとリムにスポークを組み込む穴,あれは 36 本だったと思いますが,あの穴を一度にあけてしまう装置をつくったこともあります。つまり,リムを置いて 36 か所から一気にパンチして,穴をあけてしまうのです。とにかく,自転車製造機なんてどこにもないですから,全部自力で開発しなければならない。とくにチェーンをつくる自動機には苦労しました。板をひょうたん形に抜いて穴をあけ,リボン状の板を巻いてつくったブシュを差し込み,ローラを付ける。このローラも板を絞ってつくるわけですが,自動組駒機でつくった 1 個1 個の駒を,自動組立機でチェーンにつないでいくのです。こうしてリムと泥よけはどうにか成功したのですが,チェーンの自動組駒機と自動組立機だけはよく故障して,まさに“チョコ停”(部品や材料が機械に詰まり,チョコチョコ停止すること)でしたね(笑)。
当時も部品ごとに専門メーカーがあって,自転車メーカーはそれらを集めて完成車に組み立てていたのですが,不二越はこのような専門部品まで自社でつくろうとしたのですからね。だから,切削加工や塑性加工,熱処理,材料,塗装,自動機の設計まで,全部自分たちでやったのです。でも,いろいろな製造方法を学ぶことができて,私にとっては大変良い勉強になりました。
1950(昭和25)年には,いろいろな事情から自転車の生産を止めてしまったのですが,でも最終的には6 万台以上つくりましたかね。ブランドはもちろん、「NACHI 号」でした。

昨今、韓国では不二越も徴用工問題(元朝鮮女子勤労挺身隊員の訴え)で新日鉄住金、三菱重工業とともに韓国内資産の仮差し押さえが韓国裁判所により決定され、マスコミなどで不二越も注目されている。

不二越の広告
「日本工場大観」日刊工業新聞
1950年8月1日発行より

2021年9月7日火曜日

自転車オートバイ

 自転車オートバイ

自転車オートバイとは、自転車に補助エンジンを取り付けたバイクである。

当時、通常のオートバイはまだ高値であり、一般庶民は手を出せなかった。そこで開発されたのが自転車用の補助エンジンであった。一時期この補助エンジンは大きな反響を呼んだ。ホンダもスズキもこれを機に発展していったのである。その代表的なものがホンダの「カブF号」やスズキの「ミニフリー号」であった。

オートバイの歴史も古く日本では明治29年まで遡る。一番最初に日本に現れたのがドイツ製のヒルデブラント& ヴォルフミューラーで、このオートバイの試験走行を十文字信介が皇居前で走ったのが最初である。

1896(明29)年1月19日(日)付 報知新聞に、

石油発動機自転車試運転

 昨年独逸で発明せられたる石油発動機自転車は、極少量の石油を用ひ円筒内の空気を熱し一種の促進機を働かして一時間六十哩を疾走するものの由にて、十文字信介は曩に之を購入し数度試運転を成したりしが、本日午後一時より、東京ホテル前より乗り初め、川岸より西方和田倉橋へ走らし、坂下門前を廻り二重橋東へ出で、緩急各種の運転を行なひつつヽ衆覧に供する由。

とある。

このニュースは他に中央新聞、毎日新聞も同様に報じている。

その後、国産化に向けやた動きも始まり、先駆者達の努力により試行錯誤の末、明治42年に、島津楢蔵が初の国産車であるNS号を完成させた。

1914年(大正3年)には、自転車の宮田製作所も国産初の市販車となるアサヒ号を発売した。このオートバイは英国製のトライアンフをモデルに製造された。

1,945年に太平洋戦争が終結してから10年を待たずして、この自転車オートバイのブームが訪れたのであった。

この時期の主なメーカーとしては、本田技研工業株式会社のホンダ・カブ号F型、BSモーターのバンビー号、株式会社トヨモータースのトヨモーターE8型、三輝工業㈱のサンライト号、日米富士自転車(株)の富士ベビーランナー号、田中工業株式会社のタス・モーターのフェザー号、東京発動機株式会社のトーハツ・パピー号、トーマスオウトユニオン社のトーマス・エンジン、仙石製作所のサイクロンペット、ブラザー精密工業のマイダーリン、宮田自転車のマイティーオート、山ロ自転車の山口ペットYB1などが発売された。

だがこの自転車バイクの流行も一時的(昭和27年~昭和30年ごろまで)であり、3年後には徐々に衰退していった。

特に1958年(昭和33年)に低価格で性能の良いホンダのスーパーカブが発売されると、他のメーカーは圧倒され、消えていくか、撤退を余儀なくされたのである。

以前に所有していたBSモーター41型
現在は自転車文化センター所蔵

2021年9月6日月曜日

鳥山氏とモハン号

 鳥山氏とモハン号

先日来、三人の知人から鳥山新一氏の訃報の連絡が入った。
1919年のお生まれであるから、2021年で102歳という御長命であった。

鳥山氏の数ある書籍の中で、最初に読んだのは「すばらしい自転車」日本放送出版協会 昭和50年発行である。
この本の中で一番記憶に残っているのが、鳥山氏が少年の頃に軽井沢で乗った鈴木商会のモハン号である。既にこのモハン号についてはこのブログでも何回か紹介している。

以下がそのブログの記事、(一部修正加筆)

 鳥山新一氏の書いた本や雑誌の記事にあるモハン号の2点の写真を拡大鏡でよく見ると、同じものではないことが分かる。モハン号の特徴としては、チェーンホイールの伝達構造と折畳小径車であること。特にこのチェーンホイールの位置は若干ずれているが左右それぞれに付いている。細部の構造は写真でよく分からないが、ギヤ比による変速か、或はギヤ比の拡張のために左右にそれぞれ付いているのではないかと思われる。
 この仕組みなどは書いてないが、雑誌「工芸ニュース」所収の文中に簡単であるが次のようにある。

唯戦後一時騒がれた折畳式の自転車は昭和8年ごろ前輪14in、後輪16inのモハン号(図8)が鈴木商会から市販され、後に改良型をだしたが筆者も長年2種類共使用した。

 どうやらモハン号のⅡ型とその改良型の2種類を鳥山氏は所有していたようで、旧型(Ⅰ型)は婦人車をそのまま小さくした型、と図8の注書きにある。(全部で3種類か)
 
 昭和8年から昭和9年頃にかけて鈴木商会で製作されたようで、鈴木商会の履歴や所在地はいまのところ不明である。

次もブログの記事、

1936年頃にモハン号が登場している。この自転車を初めて見たのは、本に掲載されていた小さな不鮮明の写真であった。鳥山新一著「すばらしい自転車」(日本放送出版協会版、1975年01月発行)にある。このモハン号は、鳥山さんが少年の頃に乗っていたもの。

 1993年(平成5)5月9日に東京上野公園で行われた第7回クラシック自転車コンテスト(梶原利夫氏主催)に現れた黒塗りの小径車がそのモハン号であった。当初、駆動部の珍しさとユニークな形状が目を引いたが、メーカー名等まったく分からなかった。フレームに特許番号のようなものが微かに見えたが、それ以上のことは分からない。後日、それがモハン号であることが判明したが、残念ながらその自転車の所有者名をメモすることと肝心な写真を撮ることを忘れてしまった。忘れたというよりも、モハン号であることも知らなかったので、軽く考えたのである。以来、いまだにモハン号の現物は見ていない。あの自転車はどうなったのであろうか。

ミニ・サイクルは鳥山氏が命名(以下は「すばらしい自転車」より)

ミニ・サイクルは1963年にイギリスで発表されたモールトンが初めてのものだと思われていますが、ほんとうは、日本で第二次大戦前に考案されたのです。
 第31図は私が昭和9年から愛用していたその車で、私が自転車に興味を持った動機になったモハン号です。
 ミニ・サイクルという名前は昭和43年に私がつけたもので、それまではサイクル・ショウ
には出品されていても、市中にほとんど見かけなかったのですが、44年以降はぐんぐん人気が出てきました。分解式やおりたたみ式もあり、自動車のトランクに入れて運べる便利な種類もあります。今では全生産量の約20パーセントにも達しています。重量は意外に重く、18キログラムです。

とあり、コンパクト自転車、フォールディング自転車、折り畳み自転車、ミニ・サイクルは日本が開発したと述べている。

鳥山氏が自転車に興味を持ったきっかけは、少年の頃に乗ったこのモハン号であった。

第31図
「すばらしい自転車」61頁

図8
「工芸ニュース」5号 VOL.23
昭和30年5月5日発行

鳥山新一氏の本
その一部

鳥山新一氏のサイン

2021年9月5日日曜日

二宮忠八と自転車

 二宮忠八と自転車

下の資料は「二宮忠八伝」関猛 著 日光書院 昭和19年発行である。

二宮忠八、自転車に乗れず

以下はその部分、

次に車をつけなければならないが、それをどうしたがよいか、色々と考へた。
丁度その頃、軍隊でも二輪車や三輪車を使用することになった。その時、忠八が初めて営庭で自轉車に乗ってみた。二輪車は体の安定をとるのが難かしくてどうしても上手に乗ることができなかった。三輪車は安定もよくすぐに乗れた。このことを思ひ出して前の方に一輪、後の方に二輪をつけることにした。
その車を作るのにどうしても自分の手ではできなくて、細川喜與衛に作つて貰ふことにした。又これを飛行機の胴体に取りつけるにも、その方法を色々考へたが結局三輪車の車のつけ方を参考にした。
これで大体恰好は出来たが、さて、この飛行機を動かすのにはどうしたらよいか、何を用いるか、どういふ力によるかが大きな問題となつて残された。推進機は細川喜與衛に作つて貰つたのでちゃんと立派なものができてあるが、これを動かす動力をどうしたらよいか。と云ふ最も大きな事を解決しなければならない。忠八は夢中になつて研究した。

とある。

忠八は二輪の自転車には乗れなかったようだ。飛行機の車輪は三輪車を採用したとある。
この内容は明治23年ごろの話である。おそらくその二輪の自転車とは国産の小型木製のダルマ自転車であったはずである。
飛行機の車輪(三輪車)と推進機を製作した細川喜與衛と云う人物は何者なのか、機械工作を得意とする専門家だったのか、興味深いところである。

「二宮忠八伝」46、47頁
関猛 著 日光書院 昭和19年発行
国会図書館所蔵資料

2021年9月4日土曜日

欧州大戦当時の独逸ー2

 欧州大戦当時の独逸ー2

昨日からの続き

その二つ目は、飛行機の試作と三輪車の製作である。(「欧州大戦当時の独逸」の追記と訂正の17頁)

百五十年の昔飛行機の發明。私の血族關係ある三河国宝飯郡御油の戸田の家の次男に天明年間太郎太夫と申す一奇人がありまして、青年時代は発明に没頭しまして、こんな時代に、飛行機を研究し御油の海岸に櫓をしつらへ、自ら櫓の上から飛行試験をやって墜落して重傷を負ったといふ事です。また自轉車の前身ともいうべき木製の三輪車を作り、それに乗って豊川稲荷に參詣したとのことで、土地の者に非常な変わり者とされていました。近頃までその飛行機の翼が、つい物置に保存されてありましたが、鳥を真似たもので、竹で骨組し澁紙で貼り、足を踏むと翼がバタバタ廻ると云う極めて原始的なものであつたらしい。兎に角彼は交通発達史上に尖端を切らんとして、苦心惨澹した人であったが、當時は此のやうな研究をする者には非常な圧迫があって流刑の罪にさへ問はれさうな程で、發明とか研究に極度に恐れをなしたるのであったさうですが、幸い太郎太夫は御油の旧家で席貸の大元締の倅であったので、この憂目は見づに済んだが、親から貰った遺産は全部これ等の研究に使い果し、已むなく豊橋に移って実業に從事したといいます。

「欧州大戦当時の独逸」昭和8年5月15日発行、ベルツ花子著、 審美書院より

註、天明年間は、1781年から1789年で天明の大飢饉や老中の田沼意次が失脚した時代。また最上徳内が千島列島を探検し、ウルップ島まで足を延ばしている。

三河国宝飯郡御油は、現在の愛知県豊川市御油町で江戸時代は宿場町として栄えた。安藤広重の東海道五十三次の35番目である。

戸田太郎太夫が三輪車を作ったとあり、どのような三輪車なのか分からないが、興味深い。またこの三輪車に乗って豊川稲荷までサイクリングをしたと云うからそれなりの構造と堅牢さがあったはずである。御油から豊川稲荷は往復で16キロほどである。まさに実用化を自ら証明している。

推論だが久平次の陸舟奔車のメカニズムを取り入れた可能性もある。或いはその改良型か。当然ペダルクランクと操舵も備えていたはずである。

三輪車もさることながら、飛行機を試作したということは更に驚きである。成功はしなかったがその試みは当時の封建制度下の社会情勢からして稀有なことである。

飛行機の黎明期に出てくる人物としては、江戸期の1780年頃に空を飛んだと云う琉球王朝時代の花火師、安里周当(あさとしゅうとう)。1785年(天明5年)、表具師っであった浮田幸吉(うきたこうきち)が知られている。明治に入っては玉虫型飛行器で有名な二宮忠八(にのみやちゅうはち、1866年-1891年)が登場する。この飛行機の車輪部分は当時の三輪車の構造を採用している。

この戸田太郎太夫についても、日本の飛行機の歴史上の登場人物に加えてよいのではと思う。

玉虫型飛行器
「二宮忠八伝」関猛 著
日光書院 昭和19年発行
国会図書館所蔵資料

2021年9月3日金曜日

欧州大戦当時の独逸ー1

 欧州大戦当時の独逸ー1

このタイトルは昭和8年5月15日発行、ベルツ花子著、 審美書院の題名である。

以前、自転車史研究会の会報「自転車」第43号、1988年11月15日発行に「天明年間 戸田太郎太夫の自転車旅行」として自転車史研究家の真船氏がその投稿ですでに紹介しているが、この程あらためてこの本を斜め読みした。

ざっと眺めたところ、2か所に自転車関連の文章が出てくる。

その一つは、以下のダルマ自転車が出てくる部分である。(283頁)

上野の慈源堂前の四軒寺の大學の官舎に居たネウトウといふ人は、動物を飼馴らす事に妙を得ていた、その官舎から撞球(ビリヤード)の會日には、毎時も車の高さが五尺もある自轉車に乗つて來ましたが、この自轉車に乘るには、一寸とした踏台が入用で、今の自轉車とは違い、五尺もある大きな車輸が一ツ、それに鞍が附添ってあり、後に竪一尺の小さな車がついてある二輪車でした、此の車に乘りて自分は池之端中町通りを通って、加賀屋敷の官舎の方へ通いした、その時上野の森に巣食う鳶が残らずとも言ふ程、跡を慕って不忍の池の上を通り抜て飛んで参ります、夫故ネウトウ氏の參る日には必らず油揚四五十錢買って盆に載せて置く、するとネウトウ氏は盆を差上げると、頭と言はず、肩と言はず鳥が飛付き、少しも恐れません、それにネウトウ氏が居さへすれば、外の者が居ても少しも恐れせん、鳥が残らず食べて仕舞った時分に、ネウトウ氏が「先にお帰り」と言ふと、一つ残らず鳥が引き上げて行って仕舞ひます、・・・・

とある。
前輪が5尺(150㎝)、後輪が一尺(30㎝)のダルマ自転車であることが分かる。
この車輪の大きさが正確だとすれば、60インチほどの大輪に乗っていたことになる。ネウトウの背丈は長身で、190㎝ほどになる。私は因みに身長が170㎝で48インチか50インチが適正のサイズである。
乗るのに踏み台が入用とあるが、これは乗ったことのない人の感想で実際にはフレームの後輪の上に付いているステップから乗車することになる。乗る度にいちいち踏み台は使わない。

加賀屋敷の官舎に通ったとあるから、現在の東京大学である。ネウトウとは明治期のお雇い外国人である。この文章に書かれている年代ははっきりしないがダルマ自転車から類推して明治25年前後であるはずだ。ネウトウと云う人物も少し調べたが詳しいことは分からず。(継続調査予定)

加賀屋敷とは旧加賀藩前田家の江戸上屋敷のこと。
この敷地内には育徳園という庭園があり、心字池もある。夏目漱石の小説以降からは三四郎池で有名になった場所である。

そういえばこの帝大で明治19年3月に自転車会が設立された。(明治19年3月28日付け朝野新聞)その発起人には廣田理太郎、和田義睦、同理科大学の田中館愛橘、澤井 廉の4人が名を連ねていた。体育の一環としたサークルであったと云われている。このグループが使用した自転車も1台のダルマ自転車であった。この1台のダルマ自転車を4人で共用した。

2021年9月2日木曜日

踏車

 踏車

下の画の踏車(ふみぐるま)の構造を見ると、何処かで見覚えのある形状である。それは陸船車の駆動部であるフライホイールのような歯車の部分と似ている。陸船車も踏車も細部はともかく駆動方法としては同じであった。

この踏車の発明は下の資料(1822年、文政5年の「農具便利論」下巻 大蔵永常 著) にも書いてあるように、 (資料③の赤線部分)

寛文年中より、大坂農人橋の住、京屋七兵衛、同清兵衛といえる人、この踏車を製作し、宝暦、安永の頃までに諸国に弘まり、今は竜骨車を持ちゆる国すくなし。

とある。
寛文年中とは、1661年から1673年までの期間。農人橋は現在の大阪府大阪市中央区農人橋。

庄田門弥の陸船車が1729年であるから、60年ほど前にあたる。門弥の時代になると日本各地の田圃で踏車は普通に見られたはずである。

ことによると門弥はこの踏車をヒントに陸船車を考案製作した可能性もある。

この資料の文中にある龍骨車とは踏車以前に中国から伝来したもので、構造的には踏車より少し複雑で規模も大きい。下の「天工開物」の図を参照。

「天工開物」は、1637年頃(明の時代)宋応星によって記述された農工に関する技術書である。

門弥陸船車の駆動方式は、竜骨車 → 踏車 → 陸船車へと進化した可能性も考慮する必要がある。

①農具便利論 下巻
国会図書館所蔵資料
コマ番号13

②コマ番号14

③コマ番号15

④竜骨車
天工開物-1 1771年(明和8年)版
国会図書館所蔵資料
コマ番号25

2021年9月1日水曜日

パラリンピック観戦

 パラリンピック観戦

明日が雨予報なので本日、静岡県小山町の富士スピードウェイで開催されている自転車競技を見に行く。

沿道の観戦者は殆どいなかった。少し寂しいレースであった。今日は涼しい気温であったが、選手は汗だくになり競い合っていた。

Hクラス、ハンドサイクル

H1~H4は仰向け
H5は前屈み





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