2021年9月8日水曜日

旧軍需工場の参入

 旧軍需工場の参入

太平洋戦争が終結して、間もなく旧軍需工場の中で、平和産業である自転車の製造を始めた企業が登場した。これらの企業は高い技術と大勢の優れた技術者もかかえていたので、自転車製造は比較的容易であったはずである。

所謂転換メーカーと云われた会社には、次の14社をあげることが出来る。

1、三菱重工津機器製作所 三重県津市 ジュラルミン製の十字号 昭和22年

2、萱場産業岐阜工場 ユートピア号 東京都中央區日本橋本町1-2-2

3、日本金属産業株式會社 東京都中央區木挽町6-7 プテーエクレア号

4、中西金属工業株式會社 大阪市北區天橋筋5-68 N.K.K号

5、半田金属工業株式會社  愛知縣半田市乙川字畑田9 オリオン号

6、不二越鋼材工業㈱ 富山市石金20 NACHI (那智)号

7、富士産業株式會社太田工場 群馬県太田市太田747 ハリケーン号 

8、高砂鐵工株式会社 東京都板橋区 滋賀縣栗太郡草津町矢倉385 T.T.K 号

9、天辻工業 大阪市東淀川區三津屋南通6-12 ニューローレル号

10、片倉工業株式會社 東京都西多摩郡福生町熊川724 片倉シルク号

11、西日本工業 調査中

12、株式會社中山太陽堂 大阪市浪速區水崎町37 クラブ号

13、大同製鋼 名古屋市

14、大和紡績 大阪市 1941年(昭和16年)創業

 参考資料:「自転車の一世紀―日本自転車産業史 (1973年)」

1950 年6月の朝鮮戦争がはじまると、特需による景気からこれらの工場は以前の重工業などへと戻っていた。唯一残っていた片倉シルクも1989年1月には、自転車業界から撤退した。

以下は、参考までに三菱十字号と不二越の那智号について触れる。

三菱十字号

  戦後まもなく航空機の技術者であつた本庄季郎技師が製作した三菱十字号は精緻な強度計算からうまれた自転車であった。
 十字号のコンセプトは次のような考えから発想された。
一、戦時中大量に航空機用材として生産されたアルミニューム合金材を平和産業に転用し、これを有効に利用する。
一、すでに定着したダイヤモンド型フレームはもはや改良の余地がないのか。
一、鋼材の溶接作業にかわり、できるだけプレス作業を利用する。(航空機のプレス作業用機械が遊休中のため)
一、機能を向上させながら工作の合理化、簡便化さらには材料の節約など。
一、分解、組立、手入、取扱の簡易化。
一、精密な構造及び強度計算による安全率の確保。特にアルミ軽合金材の撓みを考慮する。
 こうして、三菱十字号は1947年(昭和22)に生産を開始した。その後、Ⅰ型からⅣ型まで進化していった。
 1950年6月に勃発した朝鮮戦争の特需景気とともに三菱は本来の重工業へと戻って行き、十字号の生産も中止となった。
参考資料:
雑誌「自然」3号 1947年発行(自転車の強度 本庄季郎)
「三菱重工業技術部報告」第62号 1947年 同技術部発行
註、本庄 季郎(ほんじょう きろう 1901年-1990年)、九六式陸上攻撃機や一式陸上攻撃機を設計。

三菱十字号 初期型

不二越・NACHI号(那智号)

 不二越鋼材工業㈱が一時自転車を製造していたことは、あまり知られていない。

以前に自転車技術史研究家の梶原利夫氏から頂いた「日本工場大観」日刊工業新聞 1950年8月1日発行のコピーの一部に不二越鋼材工業㈱の広告があり、ベアリングと自転車の写真が載っている。
不二越の沿革を同社のHPで見ると次のようにある。(抜粋)
沿革 
1925年(大正14) 井村荒喜(1889年長崎県島原生まれ)、技術開発指向の企業を興す。
1928年(昭和3年)富山市に不二越鋼材工業を創立。初代社長 井村荒喜(1928~64年)
1929年(昭和4年) - 昭和天皇が近畿地方を訪れた折り、天皇が不二越の製品である金切鋸刃を見学。不二越は、このとき天皇が座乗した重巡洋艦「那智」の名をとり商標とした。
1941年(昭和16年) - 海軍用の高角砲、機銃の部品生産を開始。
1944年(昭和19年) - 軍需会社法による軍需会社に指定。
1946年(昭和21年) - 自転車や民生品などの製造開始。
1950年(昭和25年) - 自転車製造中止。
1963年(昭和38年) - 株式会社不二越に商号を変更。
この沿革から分かるとおり、昭和21年~25年と短い期間であったが、確かに自転車を製造していたことが分かる。自転車の銘柄は商標から採用した「NACHI 号」であった。

この辺の事情については、下記の資料が参考になる。
SME LIBRARY 22 「日本の工作機械を築いた人々」(以下一部抜粋)
その後は自転車づくりです。不二越の自転車はつくりかたが少し変わっていて,普通は継手にパイプを差し込んでろう付けしてフレームをつくるのですが,当社のはパイプを直接溶接する「フラッシュバット」という方法なのです。この技術は,当時としては最先端だったのですが,たまに折れることもあってあまり評判は良くなかった(笑)。
私が担当したのは,リムとチェーン,泥よけですが,元々機械加工が専門なのに,どちらかといえば塑性加工をやることになってしまった。これがまた大変で,たとえば泥よけは,断面が半円状の板で,これを曲げると曲率半径の違いからどうしても両側にヒダができてしまうのです。
そこで,フープ材(帯鋼)の真ん中だけを圧延することを考えて,圧延と曲げの関係を利用して,次第にヒダのない泥よけをつくれるようになりました。それとリムにスポークを組み込む穴,あれは 36 本だったと思いますが,あの穴を一度にあけてしまう装置をつくったこともあります。つまり,リムを置いて 36 か所から一気にパンチして,穴をあけてしまうのです。とにかく,自転車製造機なんてどこにもないですから,全部自力で開発しなければならない。とくにチェーンをつくる自動機には苦労しました。板をひょうたん形に抜いて穴をあけ,リボン状の板を巻いてつくったブシュを差し込み,ローラを付ける。このローラも板を絞ってつくるわけですが,自動組駒機でつくった 1 個1 個の駒を,自動組立機でチェーンにつないでいくのです。こうしてリムと泥よけはどうにか成功したのですが,チェーンの自動組駒機と自動組立機だけはよく故障して,まさに“チョコ停”(部品や材料が機械に詰まり,チョコチョコ停止すること)でしたね(笑)。
当時も部品ごとに専門メーカーがあって,自転車メーカーはそれらを集めて完成車に組み立てていたのですが,不二越はこのような専門部品まで自社でつくろうとしたのですからね。だから,切削加工や塑性加工,熱処理,材料,塗装,自動機の設計まで,全部自分たちでやったのです。でも,いろいろな製造方法を学ぶことができて,私にとっては大変良い勉強になりました。
1950(昭和25)年には,いろいろな事情から自転車の生産を止めてしまったのですが,でも最終的には6 万台以上つくりましたかね。ブランドはもちろん、「NACHI 号」でした。

昨今、韓国では不二越も徴用工問題(元朝鮮女子勤労挺身隊員の訴え)で新日鉄住金、三菱重工業とともに韓国内資産の仮差し押さえが韓国裁判所により決定され、マスコミなどで不二越も注目されている。

不二越の広告
「日本工場大観」日刊工業新聞
1950年8月1日発行より