競輪誕生の前夜
競輪が戦後の復興に寄与したことは誰もが認めていることであるが、最近は残念ながらその競輪の人気は徐々に低迷してきている。9年前には挽回策の一つとしてガールズケイリン(2012年7月1日復活)も始まったが、根本的な解決策にはなっていない。以前から考えていることだが、この競輪も野球やサッカーのように有力な多くの外国人の選手登録を認めてもよい時期に来ているのではないのか、ケイリン(keirin)が自転車競技の国際的な種目の一つになっているのであるから、門戸を広げてグローバル化に対応する必要があると思う。
先日のニュースで、日本初となる自転車トラック「PIST6チャンピオンシップ」が10月2日に千葉JPFドームで開幕するとあった。これは競輪の新しい試みで国際基準のルールに基づき行われる。将来的には外国人選手の参加も検討されているとしている。将来的に検討ではなく、できることなら早く実行すべきである。
競輪誕生の前夜、「競輪10年史」より
昭和21年になっても銀座かいわいの惨状はまだ放置されたままであった。この年6月、銀座と背中あわせの有楽町二丁目に「国際スポーツ株式会社」という看板がかげられた。独立した社屋があるわけではない。国際技術者連合会に同居する法人組織、資本金18万円、それこそ戰後に雨後のたけのこのように、にょきにょきできた小会社の一つである。この国際スポーツ株式会社は矢沼伊三郎、倉茂貞助(倉茂 武)、海老澤清文の三氏が企画を立て、一応設立を見たものである。
昭和22年9月のはじめ、同社の海老澤氏は、「報償制度併用による自転車競走」というあたらしいプランを立てた。これがやがて自転車競技法というあたらしい法律を作り、競輪という車券をともなう独特の自転車競技をうみ出す母体となったのであった。
1948年6月に自転車競技法の法案が可決成立、同年8月1日から施行された。その年の11月20日には国民体育大会の自転車競技会場として建設された小倉競輪場(旧、三萩野競輪場)において、第1回小倉競輪が開催されたのがその始まりであった。
下の写真は、昭和24年1月に初めて大宮競輪が開催されたときのもの、明治後期や大正期の草レースのような風景である。走路も選手のユニフォームも自転車も、そして観衆もすべて黎明期の雰囲気を映し出している。自転車をよく見るとすべて一般的な実用車である。さすがに荷台と両立スタンドは取り除かれたいるが泥除けは付いている。
「競輪10年史」43頁
昭和35年5月30日発行
日本自転車振興会 編