輪タク
戦後に現われた交通機関の一つに輪タクがある。この輪タク(自転車タクシー)は、戦時中にもあり、国民車、更生車、厚生車、国策タクシーなどと呼ばれていた。地方のどこの駅前にも2、3台は見かけたものであるが、敗戦後の東京では名前も”輪タク”と呼ばれ、明治から大正期にかけて普及した人力車のように駅前を現在のタクシー並みに占拠していた。まだこの時期はガソリンも不足していたので自動車やオートバイは珍しく、ガソリンのいらない自転車が活躍したのである。昭和24年ごろから数年であったが庶民にとって欠かせない交通機関であった。
昭和21年の春、 新宿の露天商(闇市も統率)、関東尾津組組長であった尾津喜之助(1897年 - 1977年)が200台の輪タクを作らせ、当時の厚生大臣河合良成の協力も得て輪タク事業を始めた。しかし、新宿周辺の地権者から不法占拠だとして、告訴される事態になる。
このような騒動もあったが、この輪タクは全国的にも大いに普及し、便利な乗物として歓迎された。営業当初の料金は一区(24キロ)10円であった。
東京の輪タク台数の推移は次のとおり
昭和24年(1949) 3,498台
昭和25年(1950) 2,302台
昭和26年(1951) 1,611台
昭和27年(1952) 1,161台
昭和28年(1953) 958台
昭和29年(1954) 567台
昭和30年(1955) 449台
昭和31年(1956) 110台
昭和32年(1957) 501台
昭和33年(1958) 17台
昭和27、8年頃になると、ガソリンの供給量も徐々に増え、小型自動車やオートバイも増加、その反動で次第に輪タクは姿を消していく。
参考資料:「東京百年史」 東京百年史編集委員会編 1972-1979
下の写真は尾津組の輪タクである。後部の窓の上に「尾津なリンタク」(おつなりんたく)と洒落て書いてある。新宿界隈をこの車が通ると注目されたはずである。この輪タクの車体を見ると特注の三輪車であることがわかる。フロントのフォークは松葉で堅牢に作られている。後部の座席はフルカバーが施され、雨風を凌いでくれる。このカバーの材質はおそらく軽量のジュラルミンでリベット止めが見える。窓はセルロイド製のようである。乗降は左側の中央に取っ手が付いているので、これで前に開くと中央で折曲がる形状になっている。輪タクに特化した乗り物であることが分かる。果たしてこの輪タクは何處の自転車工場で製作されたものなのか興味は尽きない。