岡本自転車自動車製作所の歴史は古く明治32年から始まる。他の資料によると明治18年としているが、根拠となる資料は見ていない。単なる言い伝えと思われる。明治18年と云えば、まだ日本では木製のダルマ自転車も現れていない時代である。
明治32年の根拠としては昭和10年発行の「全国製造卸商名鑑」の172頁に株式会社岡本自転車自動車製作所、開業年月、明治32年と載っている。
●岡本自転車自動車製作所 名古屋市中区東郊通リ七丁目 ノーリツ号 明治32年開業
尚、昭和4年1月8日付け大阪毎日新聞の記事でも明治32年とある。
以下は新聞記事の一部、
自転車と自動車の功労者
岡本松造氏
我国自転車製作工業界の先駆者にして又恩人として筆者は輪業界に我が岡本松造氏あることを深く喜びとするものである。
氏は株式会社岡本自転車自動車製作所の創始者にして現に同社の社長である。
明治32年、氏によりて創始されたる自転車工場は誠に微々たる一小工場にすぎなかったが幾多の犠牲と努力の結果として今日東洋一を誇る岡本製作所たらしめるまでに至ったのである。
以下は、創業者である岡本松造 (おかもと しょうぞう) 1876年-1942年の略歴、
1876年(明治9)3月、岡本半四郞の長男として奈良県の上ノ郷村に生まれる。
1885年(明治18)、自転車部品の製造を始める。(根拠資料なし)
1899年(明治32)、名古屋の古渡町に小さな工場を建てる。
1903年(明治36)、初の岡本製国産自転車を完成させる。
1909年(明治42)、ドイツ、イギリスへ渡航。現地の自転車工場などを視察。
1910年(明治43)、「岡本兄弟合資会社」を設立し、名古屋の御器所村に工場を建設して本格的に自転車の生産を始める。
1919年(大正8)、会社名を「岡本自転車自動車製作所」に改称。
1923年(大正12)、製造台数が年産5万台以上になる。
1924年(大正13)、多数あった車種を廃止し「ノーリツ号」一本に集中して大量生産体制を確立する。
1935(昭和10)、会社名を「岡本工業」と改称し、事業を拡大。オートバイ、飛行機車輪なども生産。戦時下では軍需工場となり、従業員3万人の大規模会社になる。
1939年(昭和14)、岡本航空機工業株式会社を設立。
1942年(昭和17)10月23日、逝去、享年67歳。
以下の沿革は、昭和50年発行の「ノーリツ号の小史」を参考。
沿革
明治18年 岡本松造個人経営により自転車部品の製造を創始す。
沿革
明治18年 岡本松造個人経営により自転車部品の製造を創始す。
明治31年 合資会社に改組、車体の製造を開始す。
明治36年 我が国最初の国産自転車を完成した。
明治42年 社長 ドイツ、イギリスに渡航し、生産技術を更に研究機械類を輸入する。
明治43年 合資会社、岡本兄弟商会とし名古屋市七本松に新式機械を設備した工場を建設し、エンパイヤ号自転車を世に送る。
大正8年 株式会社岡本自転車自動車製作所と改組し、名古屋市御器所町高辻に近代的大量生産の本社工場(敷地2万3千余坪)を建設し、自転車の外飛行機部品の製造に着手す。
大正9年 日本最初の飛行機用車輪を完成し、同年陸軍省指定工場の命を受け、「モ」式軍用飛行機車輪を生産す。
大正10年 岐阜県垂井に垂井工場を建設す。
大正12年 先帝陛下にノーリッ号自転車御買上げの光栄に浴す。
同年 山階宮殿下御台臨、工場御巡覧の栄を賜う。
同年ノーリッ号自転車は単一ブランドによる月産1万台を生産し世の注目を集めた。
大正14年 海軍省より指定工場の命を受く。
昭和2年 社長は、天皇陛下に単独拝謁の光栄を賜わりノーリッ号自転車御買上げの光栄に浴
す。
同年逓信省の自転車指定工場となる。
昭和3年 侍従、海江田子爵当工場へ御差遣の光栄に浴し、社長は自転車産業界最初の人とし
て緑綬褒章を授与せられる。
昭和4年 ノーリッ号自転車は内地の他、朝鮮、台湾、満州、中支、南支、南洋、其他東南アジア各地に販路を拡大した。
同 年 伏見宮家各宮家にノーリッ号自転車の御用命を賜る。
昭和7年 東久邇宮殿下工場御巡覧の栄を賜る。
昭和8年 当社は日本車輌製造、大隈鉄工所、愛知時計電機等の4社で日本最初の乗用自動車「アッタ」号を完成す。
昭和9年 側車付自動二輪車を完成し、陸軍省に納入
昭和10年 自転車部と兵器部を分離し、岐阜県垂井工場を拡張、此れを自転車専門工場とす。
同年岡本工業株式会社と改称し、岐阜県大垣市に大垣工場を完成す。
昭和11年 当社はダイハツ、くろがね、陸王各社と競合小型乗用車(指揮官用乗用車)を完成し陸軍省に納入す。
昭和12年 岡本航空機工業株式会社を設立し名古屋市南区に笠寺工場(敷地13万坪)を建設す。
昭和14年 朝香大将宮殿下御台臨各工場御視察の栄を賜る。
同年愛知県一宮市に一宮工場を買収し、熊本県人吉市に九州工場を建設す。
昭和15年 新潟県新発田市に新潟工場を建設す。
昭和16年 岡本工業株式会社は岡本航空機工業株式会社を吸収合併し、航空機脚及び車輪の最大メーカーとして、国内7カ所に工場を拡充3万人余の人員を擁うし軍需生産を強化した。 又、垂井工場は自転車専門の我が国唯一の軍需工場として自転車の増産を続けた。
昭和18年 愛知県犬山市善師野に秘匿工場を建設す。
同年逓信院指定工場となる。
昭和20年 終戦により賠償指定工場となり名古屋市の本社工場、笠寺工場、岐阜県の垂井工場の三工場を存続させ、他工場は閉鎖す。
昭和21年 岡本自転車株式会社として発足す。
昭和22年 岐阜県垂井工場に今上陛下の行幸天覧の栄を賜る。
昭和23年 ノーリッ号自転車に対し商工大臣賞を授与せられる。
昭和24年 郵政省指定工場となる。
昭和27年 ノーリッ号自転車は通商産業大臣賞を受賞す。
昭和30年 戦後、平和産業の自転車専門工場として出発したるも、1万有余の人員をかかえ混乱した労働問題から再三再四の労働争議により工場を整理す。
昭和31年 岡本ノーリツ自転車株式会社として再出発した。
昭和37年 通商産業大臣よりJIS工場の指定を受く。
昭和46年 ノーリツ自転車株式会社と商号を変更す。
昭和47年 トヨタ自動車販売株式会社と提携「トヨタノーリツ・ミニサイクル」の名称にて、共同開発、全国のトヨタ販売店を通じ生産発売を開始した。
昭和47年 桑田正次社長は、社団法人日本自転車工業会、中部自転車工業会、中部自転車工業協同組合、財団法人中部自転車振興協会の各理事に就任した。
昭和48年 従来の販売網全国81拠点を廃し「トヨタノーリツ・サイクル」「トヨタノーリ・ミニニサイクル」として、トヨタ自動車販売株式会社を通じ流通面に乗せ当社は生産にのみ専念す。
昭和49年 桑田正次社長は日本自転車工業協同組合連合会理事に就任した。
昭和57年 ノーリツ自転車株式会社、臨時株主総会において解散するとの決議を行い、清算法人となる。
現在は一般財団法人ノーリツ財団、名古屋市中区金山5丁目18番30号
昭和10年発行「全国製造卸商名鑑」
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