2021年9月3日金曜日

欧州大戦当時の独逸ー1

 欧州大戦当時の独逸ー1

このタイトルは昭和8年5月15日発行、ベルツ花子著、 審美書院の題名である。

以前、自転車史研究会の会報「自転車」第43号、1988年11月15日発行に「天明年間 戸田太郎太夫の自転車旅行」として自転車史研究家の真船氏がその投稿ですでに紹介しているが、この程あらためてこの本を斜め読みした。

ざっと眺めたところ、2か所に自転車関連の文章が出てくる。

その一つは、以下のダルマ自転車が出てくる部分である。(283頁)

上野の慈源堂前の四軒寺の大學の官舎に居たネウトウといふ人は、動物を飼馴らす事に妙を得ていた、その官舎から撞球(ビリヤード)の會日には、毎時も車の高さが五尺もある自轉車に乗つて來ましたが、この自轉車に乘るには、一寸とした踏台が入用で、今の自轉車とは違い、五尺もある大きな車輸が一ツ、それに鞍が附添ってあり、後に竪一尺の小さな車がついてある二輪車でした、此の車に乘りて自分は池之端中町通りを通って、加賀屋敷の官舎の方へ通いした、その時上野の森に巣食う鳶が残らずとも言ふ程、跡を慕って不忍の池の上を通り抜て飛んで参ります、夫故ネウトウ氏の參る日には必らず油揚四五十錢買って盆に載せて置く、するとネウトウ氏は盆を差上げると、頭と言はず、肩と言はず鳥が飛付き、少しも恐れません、それにネウトウ氏が居さへすれば、外の者が居ても少しも恐れせん、鳥が残らず食べて仕舞った時分に、ネウトウ氏が「先にお帰り」と言ふと、一つ残らず鳥が引き上げて行って仕舞ひます、・・・・

とある。
前輪が5尺(150㎝)、後輪が一尺(30㎝)のダルマ自転車であることが分かる。
この車輪の大きさが正確だとすれば、60インチほどの大輪に乗っていたことになる。ネウトウの背丈は長身で、190㎝ほどになる。私は因みに身長が170㎝で48インチか50インチが適正のサイズである。
乗るのに踏み台が入用とあるが、これは乗ったことのない人の感想で実際にはフレームの後輪の上に付いているステップから乗車することになる。乗る度にいちいち踏み台は使わない。

加賀屋敷の官舎に通ったとあるから、現在の東京大学である。ネウトウとは明治期のお雇い外国人である。この文章に書かれている年代ははっきりしないがダルマ自転車から類推して明治25年前後であるはずだ。ネウトウと云う人物も少し調べたが詳しいことは分からず。(継続調査予定)

加賀屋敷とは旧加賀藩前田家の江戸上屋敷のこと。
この敷地内には育徳園という庭園があり、心字池もある。夏目漱石の小説以降からは三四郎池で有名になった場所である。

そういえばこの帝大で明治19年3月に自転車会が設立された。(明治19年3月28日付け朝野新聞)その発起人には廣田理太郎、和田義睦、同理科大学の田中館愛橘、澤井 廉の4人が名を連ねていた。体育の一環としたサークルであったと云われている。このグループが使用した自転車も1台のダルマ自転車であった。この1台のダルマ自転車を4人で共用した。