2021年9月4日土曜日

欧州大戦当時の独逸ー2

 欧州大戦当時の独逸ー2

昨日からの続き

その二つ目は、飛行機の試作と三輪車の製作である。(「欧州大戦当時の独逸」の追記と訂正の17頁)

百五十年の昔飛行機の發明。私の血族關係ある三河国宝飯郡御油の戸田の家の次男に天明年間太郎太夫と申す一奇人がありまして、青年時代は発明に没頭しまして、こんな時代に、飛行機を研究し御油の海岸に櫓をしつらへ、自ら櫓の上から飛行試験をやって墜落して重傷を負ったといふ事です。また自轉車の前身ともいうべき木製の三輪車を作り、それに乗って豊川稲荷に參詣したとのことで、土地の者に非常な変わり者とされていました。近頃までその飛行機の翼が、つい物置に保存されてありましたが、鳥を真似たもので、竹で骨組し澁紙で貼り、足を踏むと翼がバタバタ廻ると云う極めて原始的なものであつたらしい。兎に角彼は交通発達史上に尖端を切らんとして、苦心惨澹した人であったが、當時は此のやうな研究をする者には非常な圧迫があって流刑の罪にさへ問はれさうな程で、發明とか研究に極度に恐れをなしたるのであったさうですが、幸い太郎太夫は御油の旧家で席貸の大元締の倅であったので、この憂目は見づに済んだが、親から貰った遺産は全部これ等の研究に使い果し、已むなく豊橋に移って実業に從事したといいます。

「欧州大戦当時の独逸」昭和8年5月15日発行、ベルツ花子著、 審美書院より

註、天明年間は、1781年から1789年で天明の大飢饉や老中の田沼意次が失脚した時代。また最上徳内が千島列島を探検し、ウルップ島まで足を延ばしている。

三河国宝飯郡御油は、現在の愛知県豊川市御油町で江戸時代は宿場町として栄えた。安藤広重の東海道五十三次の35番目である。

戸田太郎太夫が三輪車を作ったとあり、どのような三輪車なのか分からないが、興味深い。またこの三輪車に乗って豊川稲荷までサイクリングをしたと云うからそれなりの構造と堅牢さがあったはずである。御油から豊川稲荷は往復で16キロほどである。まさに実用化を自ら証明している。

推論だが久平次の陸舟奔車のメカニズムを取り入れた可能性もある。或いはその改良型か。当然ペダルクランクと操舵も備えていたはずである。

三輪車もさることながら、飛行機を試作したということは更に驚きである。成功はしなかったがその試みは当時の封建制度下の社会情勢からして稀有なことである。

飛行機の黎明期に出てくる人物としては、江戸期の1780年頃に空を飛んだと云う琉球王朝時代の花火師、安里周当(あさとしゅうとう)。1785年(天明5年)、表具師っであった浮田幸吉(うきたこうきち)が知られている。明治に入っては玉虫型飛行器で有名な二宮忠八(にのみやちゅうはち、1866年-1891年)が登場する。この飛行機の車輪部分は当時の三輪車の構造を採用している。

この戸田太郎太夫についても、日本の飛行機の歴史上の登場人物に加えてよいのではと思う。

玉虫型飛行器
「二宮忠八伝」関猛 著
日光書院 昭和19年発行
国会図書館所蔵資料