2021年2月24日水曜日

鳴呼無銭旅行

 先の自転車無銭世界旅行者中村春吉氏直話については、当時でも賛否両論があり、雑誌「輪友」にも次のような投稿がある。

●無銭旅行の輪客に付いて、 吉田眞太郎
明治35年2月13日発行「輪友」第4号 21頁~26頁

●鳴呼無銭旅行、松田歴山
明治35年2月13日発行「輪友」第4号 27頁~29頁

その一つ松田歴山の「鳴呼無銭旅行」を以下に紹介する。
かなり手厳しいことが書いてある。

鳴呼無銭旅行

 松田歴山

 牛の角に休んだ蚊が御邪魔だろうと云って、牛に笑はれた話がイソップにある。吾自身をあまり大きく見る人は世間に多い。自己の天職を果し當分の義務を盡すのはいいが、さればとて世間で要求もせぬのに、猥りに御膳を拵へられるには実に迷惑する。
 僕は紳士中村春吉君を謗るのではない。只自分の感じた儘を告白するのです。
 君は須らく左の三項を再考せんければならね。

一、社会は予の此行を必要とするや?
二、吾の社会より受くるものに對し吾は此旅行によって得たるサムシングを以て報ゆるを得るや?
三、社會人心に及ぼす結果如何。

 社會も要求せず、自分に何等報酬の見込も立ち兼ねるのに、彼處此處で食い倒し、貰ひッ放しにされては相手になるものが堪りません。
 無銭旅行、云ひ換ゆれば乞食旅行だ。已に紳士として好ましくない事だ。
風俗視察よろしい。語学研究大によろしい。以て世を利せんとす。至極よろしい。而し夫程の御決心があるならば、何故金を作ってから御出掛にはならなかったのです。或る小說家が乞食貧民などの真相を書かんが為にした無銭旅行とは大きな相違が其間にあります。

「天は吾に金を與へずして、風俗視察語學研究をせよとインスパイアした」と仰しやろうが、而し考へて下さい。何も無銭旅行をしてとの神様の御命令ではありますまい。私は社會が貴君の此行を要求せねとは云はぬが、御自分でも要求するとは云へますまい。こんな事は徒然草にある通り、大凡せぬがよいのです。矢鱈と膳を据へられると、客が飛んだ迷惑をします。
又貴君のやうな方が出て、無銭々々と騒ぎ立てると、若い者は無銭旅行と云ふ名さへ付けば、社會ではロハで其需要物を給する義務があるかの如く考へ違って、吾も無銭、彼も無銭と、徒歩や、自転車へ乗ってなら、何百里の旅でも、一文無して出来る気になって困ります。教育者の員に加はってたる人は此位の事は御考へ下さらなくては困ります。
本誌で貴君の直話を読みまして、勇気の程実に感じ入りました。而し如何に他の好意を無にする恐があればとて、そこここで、第一等の旅館へ泊ったり、福住なんかへ、只泊めてくれなんかとよく云って行けました。僕等のやうな、馬鹿正直なものはとてもそんな勇氣は出ません。京都の輪友に銭を出さして、上等旅館へ泊り込んで、四日市警察で宿銭を辞した君は之であっぱれ無銭旅行の積りですか?無銭旅行の定義も亦六ヶしくなつて来ます。天竜川の渡守も随分分からず家の無情漢だが、而し橋銭を払わずに、ツーと其儘とは教育者たる紳士としは如何はしい次第であった。

 仄に承はれば、御乗車はあまり精選した者ではないとの事です。何故ですかベルやポンプが三日と経たぬに壊れるとは、世界周遊せうとも云ふ人の用意とは思われぬです。噂に聞けば何処でも何かうまい事があれば、其處へ車を留める積りだとの事てすが、それでは風俗云々でも語学云々でもなくなります。つまり真面目になつて、世話をして上げた方々がいい馬鹿を見る事になります。同好の輪友は關はんです。まァいいとしなければならんのてすが縁も縁故もない宿屋なんかへは実に気の毒です。失敬てすが、若し上述三件に就て大なる確信と大なる決心がないならば、一日も早く此挙を中止せられん事を望みます 。Farewell,my pear