明治の新聞記事から
明治五年の自転車税
一カ月六銭七厘なり
明治4年8月20日の『横浜毎日』紙に外国商人輸出入という欄があり、前日の税関を通った商品名が挙がっているが、ラシャやコーヒー、ビールなどと並んで「自転車二ツ」という記録があり、翌明治5年7月18日の「東京日日」紙に「自転車税金一カ月六銭七厘」とある。税金の記事は東京府税が改正になったための公示であるが、ちなみに他の車税と比較してみると人力車が一三銭四厘、牛車が五銭、小車が九厘である。
人力車や自転車はぜいたく品と見られていたためか牛車や小車にくらべて割高である。ところで同年の東京府には自転車は一台しか存在していないことになっている。このことは『明治初年の東京府雑稅』という資料にあって、従来からしばしば諸論文に引用されている。
だが明治3年に大阪では「自転車、通行人ノ妨害少カラズ二付、途上運転ヲ禁ズ」という取締令が出たという資料(大阪府警察史)もある。この当時、自転車が大阪に多く、東京にただ一台というのは奇妙でならない。が、いまはこのことへの推測はおいて新聞記事をさらに拾ってみよう。
三元、化物屋敷を探険
貸自転車店の脱税珍談
珍しい記事をいくつかお目にかける。
その一つ目は、あの鈴木三元が意外なところへ顔を出している。彼がまだ”三元車”を完成していない明治8年”化物屋敷”を探険する記事が、同年11月の「朝野新聞」に出ているのだ。その内容は、福島県下のある家に狐狸のしわざか怪異がつづき大騒ぎがおこったとき鈴木三元が「そんな非科学的なことがあるか」と乗り込んだ、というもの。この記事では鈴木三元の肩書きを洋学先生としている。このお話では「洋学先生にもこの怪奇の原因がつきとめられなかった」としているのだが、彼が早くから科学・技術に造詣深い名士として知られていたことがわかるのである。
珍しい記事の二つ目は明治12年7月の「東京日日」紙にある自転車税の脱税の話だ。
東京・飯田町の江山という男が自転車を五台ほど購入して貸自転車業を始めるが、自転車税(このころは国税になっており、税額は1台1円50銭)をごまかそうとニセ鑑札をつけて使用しているのが見つかり処分された、という記事である。その一部分を紹介すると――「一台につき一円五〇銭の料を取られては叶わぬ。鑑札はどうせ袋に包みて下げておくのみなれば自分免許で済ますべしと、肝太くもあり合わせの菓子折の板を削り、緋金巾の袋をつくりて車につけ人に貸し銭を取っているうち(中略)、巡行の巡査が、さても不恰好なる鑑札かな、もし偽造にてあらんもはかられずと改めしに、果して木の切れに”千客万来、客人大明神”と表裏に書きたる真っ赤な偽鑑札」
この記事から当時の自転車の鑑札付が布製の袋に入れて車体につけておいたものと想像できる。「自分免許で済すべしと、肝太くし…」も当時のマスコミ・ライターの筆致がうかがえておかしいが、二セ鑑札に”千客万来”などと書いていた貸自転車店の商魂もすごい。
「自転車鉄道製造会社―。横浜高島町五丁目なる梶野仁之助が発明に係る自転車鉄道と、いえるは、蒸気をも馬匹をも要せず、一の機械を以て運転するものの由にて、今度、東京の財産家松本亥平、多村藤七、山崎治兵衛、筒井与八郎、西梶元次、山口某、和田義正の諸氏等とはかり、標題の如き会社を組織し、近々その筋の認可を得て株金を募集するの都合なりと聞く。高架鉄道といい電気鉄道といい、さても鉄道流行の世の中なるかな」
この自転車鉄道とは何だろう?この年よりも2年前には東京にはすでに大量輸送機関として鉄道馬車が走っており、電気鉄道も話題になっていた(電気鉄道がわが国で走るのは6年後の明治28年=京都)ときに、自転車鉄道という発想はどこから生まれたのか想像がつかないのである。
しかし、この記事が誤報でないことは、その9日後の同新聞に「自転車鉄道製造会社の発起人は昨三日午後、築地寿美屋に会して会社組織その他出願手続き等につき相談会を催したる由」という記事があることでわかる。だが、これに関する報道はそれ以後はまったく姿を消してしまう。
この謎は今後の資料発掘によらなければちょっと解きようがないが、とにかくこの記事一つから、梶野仁之助像のいままでだれも知らなかった一部が見えてくるわけだ。