2020年10月10日土曜日

自転車はどこを走ればよいのか?

かれこれ40年前になるが、いまだにこの表題の言葉は色あせていない。
むしろ濃くなっている現状である。
自転車で安心安全に走ることができる道路がないのである。
かえって40年前よりも自動車台数は大幅に増え危険は増している。
特にトラック便の輸送が急激に拡大し、以前にはトラックが入ってこないような狭隘な道路にまで進入してきている。
サイクリングの専用道が少しできたにもかかわらず、専用道とは名ばかりで、いまでは犬の散歩コース、ジョギング・コース、老人の散歩コース等に化している。ここも快適に走ることができなくなっている。
それは何故か?自転車はいまだに自動車よりも下に見られている感がある。侮蔑的な言葉であったチャリンコがいまでは一般的な言葉になり、公共放送でもチャリと言う言葉が平然と使用されている。格差や差別を云々する割には、この辺に関しては無神経である。言葉の成り立ちも意味も考えようとしていない。
私は外国の自転車専用道の状況を調べたわけではないが、ネットなどの情報から知りえたところでは、イギリスやオランダ等では改善されつつあると聞いている。
日本では道路環境の整備をしないで、最近では自転車の交通取締りを強化し、自転車のモラル低下ばかりを強調している。確かにモラル低下は一部にはあるとしても、そもそも健全な道路がないからで、それは問題の矛先を転嫁しているに過ぎない。

下の記事は、約40年前のもの。
いまでも違和感なく読めると思う。それだけ変化がないし、むしろ悪化の傾向にあるからである。

1982年(昭和57)5月15日発行、日本自転車史研究会の会報 第3号

自転車はどこを走ればよいのか?
現在の日本の道路は全く自動車に占領され、歩行者や自転車は、遂に道路の片隅に追いやられてしまった。それでも最近、歩道の方は少しづつ製備され、なんとか歩行者は救われようとしているが、依然自転車はそのままの状態に置かれている。そして悪いことに、自転車を歩道に上げることによって、本来つくらなければならない自転車専用道路をうやむやにし、このような小手先だけの措置で解決を計ろうとしている。一体、この自転車を歩道に上げるという考え方は、どこからきたのであろうか。
1970年6月10日、神奈川県警は全国に先がけて、横浜、川崎市内の歩道で、この「自転車通行可」という考えを実行に移した。そして、現在ではこの考えが全国的に広がり、自転車が歩道を走ることは、当然のようになってしまった。しかし、自転車が歩道を走るということは、自転車に乗る者も迷惑だが、それ以上に歩行者は迷惑だし、また危険でさえもある。
私も自転車で歩道を走ったことがあるが、何度か歩行者とぶつかりそうになった経験がある。それに歩道はやたらと段差があったり、電柱や看板、ひどい商店になると歩道まで占拠して商品を陳列したりで、とても気持ちよく走るなどということはできない。
やはり自転車は、専用道路を別につくり、そこを走るべきであって、歩道は総て歩行者に返さなければならない。行政当局もこのようなことは、百も承知しているのであろうが、どういう訳か、むしろ、自転車を歩道に上げることに積極的である。確かにこの考えは、一番金のかからない方法には違いないが、それだけにまた弊害も大きいのである。このままの状態では、いつの日か、自転車が歩道を走ることがあたりまえになり、人々は何にも言わなくなってしまうかもしれない。
そこでもう一度声を大にして強調しておかなければならないことは、あくまでも自転車が歩道を走ることは暫定的なものであり、将来、専用道路ができるまでの一時的措置にすぎないということである。
岩波新書、「都市と交通」の中で、著者の岡並木氏は「たしかに市街地に自転車がふえて、自動車と自転車の事故が無視できなくなった(1975年から5年間の警察庁統計によると、毎年交通事故死者の11~12%は自転車。79年は実数で1,005人)。しかし、自転車の通路はおいれとつくれそうもない。そこで緊急避難先として歩道に逃げ込むことを許した。ここまでは理解できないではない。しかし緊急避難先はあくまで仮の宿であって、その間に自転車がほんとうに落ち着く先をつくるという前提がなければおかしい。 ところがその後、人通りの多い市街地で自転車のための専用空間がどれだけつくられたであろうか。道路管理者や警察当局は、自転車を歩道にあげて、自転車とのトラブルが減ったことで満足してしまったのではないだろうか。」
明治の初めより交通機関の一つとして現れた自転車、確かに初期のうちは物好きな連中の遊び道具のようなものであった自転車だが、次第にその実用性が認められ、大正時代に入ると、それまで交通機関の主役であった人力車を侵食しはじめ、ついには駆逐してしまった。そして、現代は自動車の時代であるといわれているが、その必要性はなんらかわっていない。むしろ、自然との調和とか、健康的なスポーツという面からみなおされ、その重要性はますます大きくなっている。 ところがあまりにも私達の身近にあるため、ついに忘れられ、歩道の片隅を走らなければならなくなってしまった。歴史的にみても当然自転車は、専用道路を与えられなければならないし、そのような権利さえもあるように思える。
本来、自動車は車道、歩行者は歩道、そして自転車は自転車道という図式でなければならないのだが、現実は、自転車の走る道がないのである。
それでは、歩道がだめならいったいどこを走ればよいのか、やはり現在のところ、あの危険きわまりない車道を走らなければならないのである。それもコソコソと遠慮しながら車道の端を走らなければならない。ところでこの車道の端だが、ここが一番危険なところなのである。というのは、この車道の端は道路の構造上、あらゆるゴミ、雨水等が集まるようになっているからだ。道路の断面図を想像すればわかるように、ちょうどカマボコのような形をしており、自然に、小石やガラスの破片、ゴミ、泥、雨水等が集まるようになっている。道路清掃車が掃除する部分をよく見ればわかると思う。このようなところを自転車は走らなければならないのである。だからそれだけタイヤがスリップしやすいし、またパンクの可能性も多く、危険なのである。それから、この車道の端を走ることで最も危険なことは、いつ自動車が追い越してきて急に左折してくるかわからないということで、私も3回程、この自動車の左折時に事故にまきこまれている、幸いケガの程度は軽くて済んだが、もし運が悪ければ死亡事故にもつながりかねない。
このように恐しいところを自転車は走らなければならないのである。大型トラックのミラーの欠陥や死角等を問題にするまえにもう一度原点に立ち帰り、自転車はどこを走るべきか考えなければならない。(オ)