「知られざる銀輪のわだち」その2、
工業化の先駆者は誰?
西欧から入ってきた自転車をわが国でいちばん早く国産化をはかったのはだれであったか? 資料によると、からくりや儀右衛門こと初世の田中久重(幕末から明治にかけての発明家で、時計・汽船・機械類を多く発明している)が「明治元年のころ自転車、二輪車に三輪車を製造す」とあるが、それがどのような構造のものであったかはわからない。それだけでなく、これはどうも工業化を考えたのではなく「つくってみた」というにとどまるようだ。産業として自転車をはじめて手がけたのは、やはり一般にいわれているように宮田工業㈱の創業者・宮田栄助なのであろうか?
宮田栄助が銃砲製作の技術を生かして、西洋人の持ってきた自転車のフレーム修理をおこなううちに、フレーム製造を考えつき、わが国の自転車産業の創始者となったとは、よく知られている話である。
だが、これは正確なのだろうか?
「明治工業史」には「明治20年横浜の人、梶野某、高輪(ダルマ)自転車を模倣製作し、さらに同23年、安全車と称する二輪車を作って逓信省に納入したり」とある。
また、前号でも触れた自転車産業振興協会編の「自転車の一世紀」もこの記述を紹介し、さらに「横浜市史稿」や「横浜成功名誉鑑」を引用して、この梶野某がわが国で自転車を実用化し発達させたとしているのである。
だが、それらの資料の記述内容はかなりまちまちで、工業化を開始した年も、明治12年から、同25年ごろまでとかなりの巾がある。宮田栄助は明治25年に製造を開始しているのだから、どちらが先なのかはっきりしない。研究者としてはかなり気になるところである。
梶野仁之助
灯臺局時代の写真
21歳頃 1877年頃
宮田栄助以前に梶野仁之助あり
だが、やはり調べてみるもので、明治12年に横浜市蓬来町で梶野自転車製造所なるものが誕生していることがわかり、創業者は梶野仁之助という人物であることがわかった(いくつかの資料に梶野某、伊之助、甚之助、仁之助と異同が見られるが、仁之助が正しい)。
思わせぶりを書いたようだが、実は明治29年に出版された「自転車術」という本に梶野自転車製造所の広告が載っており、そこに「明治12年創業」という文字は見えていたのだが、多くの資料の記述がバラバラなのと、広告には誤植もあり得ることから、私には確信がなかったのである。
はっきりとした証拠はここに掲げた写真で看板に大きく「明治拾弐年創業」と書かれている。この発見は「神奈川県自転車商協同組合員名鑑」の81年版を手にしたことがきっかけになった。その名鑑の冒頭に「自転車業界の功労者、梶野仁之助氏の生いたち」という一文があったのである。そこから手づるをたどって、昨年、梶野氏の甥のご子息にあたる松本春之輔氏に会うことができた。
「明治工業史」は正確、安全車で高い技術もつ
はっきりとした証拠はここに掲げた写真で看板に大きく「明治拾弐年創業」と書かれている。この発見は「神奈川県自転車商協同組合員名鑑」の81年版を手にしたことがきっかけになった。その名鑑の冒頭に「自転車業界の功労者、梶野仁之助氏の生いたち」という一文があったのである。そこから手づるをたどって、昨年、梶野氏の甥のご子息にあたる松本春之輔氏に会うことができた。
写真は松本氏からそのときに頂戴したものである。この写真は松本氏の姉で当時三才ぐらいの秋さんが写っていることから明治41年ごろのものと推定されるが、すでに商号は梶野自転車商店と改められており、入口の左右に宮内省御用、諸官庁御用、参謀本部御用、東京郵便局御用、横浜郵便局御用、名古屋郵便局御用の看板がかかっている。
このころの従業員数は約40名だったという。また、松本氏が実父(梶野仁之助の甥・松本次郎吉)から聞いた話では「宮田栄助さんは明治20年ごろ、約一週間、梶野へ見学に来ていた」とのことである。ただの見学にしては約一週間は長い気がする。
店の前に並べられている自転車はいずれもダイヤモンド型のフレームだが、明治40年代ならこれは当然で、ダイヤモンド型フレームの自転車を、当時はセーフティー=安全車と呼んだものだが、前述の「自転車術」に掲載されている。梶野の広告、つまり明治29年の広告によると、このころ梶野ではこの安全車をすでに製造しており明治24年には中国へ輸出、さらにハワイ、シンガポール、ロシアへも輸出している旨が記されている。明治28年に開催された第四回内国勧業博覧会ではその安全車が「ほとんど舶来品に等しきもの」という審査総長評を受けている。
このころの従業員数は約40名だったという。また、松本氏が実父(梶野仁之助の甥・松本次郎吉)から聞いた話では「宮田栄助さんは明治20年ごろ、約一週間、梶野へ見学に来ていた」とのことである。ただの見学にしては約一週間は長い気がする。
店の前に並べられている自転車はいずれもダイヤモンド型のフレームだが、明治40年代ならこれは当然で、ダイヤモンド型フレームの自転車を、当時はセーフティー=安全車と呼んだものだが、前述の「自転車術」に掲載されている。梶野の広告、つまり明治29年の広告によると、このころ梶野ではこの安全車をすでに製造しており明治24年には中国へ輸出、さらにハワイ、シンガポール、ロシアへも輸出している旨が記されている。明治28年に開催された第四回内国勧業博覧会ではその安全車が「ほとんど舶来品に等しきもの」という審査総長評を受けている。
写真下のメモ書きは
松本春之輔氏が記入
「明治工業史」は正確、安全車で高い技術もつ
安全車の登場は海外でも1885年(明治18)であるから、その5、6年後に輸出を試みた梶野の技術はかなり高いものだったと思われる。「明治工業史」が梶野某は「明治23年安全車と称する二輪車を作して、逓信省に納入したり」という記述は正確なのだろう。
だが、松本春之輔氏によって保存されていた自転車や資料は戦災によって失われ、いまそれをたずねる手段はない。残されているのは、ガラス乾板で撮った数葉の写真と、サンフランシスコからの梶野仁之助のはがき、ヨーロッパから寄せられた手紙、そして昭和8年、梶野仁之助の喜寿に当ってだれかが綴った略伝があるのみである。
その略伝は便箋にペン書きされたもので、末尾に「付記」として「世に隠れたる自転車発明界の此の思人に対し、同業者間に於ては有志相諮りて氏の功労にむくゆべく、近くその表彰方法を具体化すべく奔走中の由である」と書かれている。
しかし、その表彰は当時おこなわれなかったらしく、9年後の昭和17年8月に梶野仁之助は87年の生涯を閉じる。私が目にした「梶野仁之助氏の生いたち」という一文は、この「略伝」を転載したものとわかった。
ただ、この「略伝」はきわめて貴重なものだが、すべてが正しいかどうかはわからない。たとえ自転車に関する歴史にせよ、資料は充分に吟味しないと間違いをおこす。まして梶野仁之助の表彰のために綴られたものならば、美化されて描かれることもあり得るし、老人が古い記憶をたどる場合に錯覚が生じることも大いにあり得る。
だが、松本春之輔氏によって保存されていた自転車や資料は戦災によって失われ、いまそれをたずねる手段はない。残されているのは、ガラス乾板で撮った数葉の写真と、サンフランシスコからの梶野仁之助のはがき、ヨーロッパから寄せられた手紙、そして昭和8年、梶野仁之助の喜寿に当ってだれかが綴った略伝があるのみである。
その略伝は便箋にペン書きされたもので、末尾に「付記」として「世に隠れたる自転車発明界の此の思人に対し、同業者間に於ては有志相諮りて氏の功労にむくゆべく、近くその表彰方法を具体化すべく奔走中の由である」と書かれている。
しかし、その表彰は当時おこなわれなかったらしく、9年後の昭和17年8月に梶野仁之助は87年の生涯を閉じる。私が目にした「梶野仁之助氏の生いたち」という一文は、この「略伝」を転載したものとわかった。
ただ、この「略伝」はきわめて貴重なものだが、すべてが正しいかどうかはわからない。たとえ自転車に関する歴史にせよ、資料は充分に吟味しないと間違いをおこす。まして梶野仁之助の表彰のために綴られたものならば、美化されて描かれることもあり得るし、老人が古い記憶をたどる場合に錯覚が生じることも大いにあり得る。
松本春之輔氏自身が「この伝記は私が父から聞いていることと食いちがいがある」といっているのだ。
そこで、いままでに出ている諸資料を整理して、梶野仁之助と自転車国産化の関係を次回にまとめてみようと思う。とにかく宮田栄助以前に工業化を推進したことは事実であり、それがいかなる人物であって、なぜ高い技術を有しながら事業を中断しているのかに興味があるのである。(オ)
季刊「サイクルビジネス」№14 盛夏号、1983年7月7日、ブリヂストン株式会社発行、
「知られざる銀輪のわだち」より(一部加筆修正)