2020年10月27日火曜日

銀輪のわだち その10

「知られざる銀輪のわだち」その10

富士山ダウンヒル
明治33年のMTB
今回のタイトルを下のページの写真を見て「何が知られざる、だ。これと同じものはすでにどこかで発表されてるぞ」と思う読者がいるはずである。
それは当然で、4年前の大阪でのサイクルショーでもパネルで掲示された写真であり、その当時マエダ工業㈱のハウス・オーガンである『サンツアー・プロショップニュース』に紹介されてもいる。
だが私は最近までそれを知らなかった。
知ったのはことしの4月、朝日新聞の企画ものページ「読者所蔵の古い写真」をながめていたら、この写真が載っていた。そして写真の提供者はマエダ工業㈱の河合淳三社長とあった。

富士山ダウンヒル
明治33年8月21日
「私は自分のクリーブランド号に乗り、
デビンは小橇(そり)に乗った」
(ヴォーガン紀行文より)

そこで本誌の編集部を通してマエダ工業から所蔵の同写真とハウス・オーガン(house organ)を提供していただいて、自分の所蔵資料を引っぱり出し、事実関係を調べてみたのである。
はじめてこの事実を知る読者のために、簡単にいままで報じられていることを説明しておこう。
朝日新聞の写真に添えられた説明では、「明治3年 (これは33年の誤植) に米国のコロンビアM・F・G社が日本への自転車売込みキャンペーンのために、自転車で富士山への挑戦を試みた。この写真は同社と取引きのある河合淳三氏が10年前に同社からもらい受けたもの」とある。
また前記のハウス・オーガンには、この挑戦はヴォーガンとデビンという二人のアメリカ人と鶴田勝三の3人によっておこなわれ、3人ともクリーブランド号に乗ったとされている。そしてヴォーガン氏の紀行文を掲載している。
富士山の七合目から御殿場へのダウンヒルであるが、当時の自転車にはディレーラーもなく、ブレーキも前輪のタイヤの踏面を制動するだけのものだからたいへんな悪戦苦闘であったらしい。
さて、この日本で初めての富士山ダウンヒルの壮挙は、いまから10年前まではわが国では知られていなかったのだろうか?
調べてみたところ、そうではなかった。
その当時はわが国のサイクリストの間で大きな話題になっていたことがわかった。
下にある図は、明治35年のサイクリストの専門誌・月刊『輪友』に出稿されている東京・双輪商会の広告であり、かすれていて見にくいが上部の四角な部分は、鶴田勝二が富士山をダウンヒルしている写真であり、説明文に「鶴田選手、デートン号にて富士下山の図」とある。そして下部にはデートン、モナーク、アマゾンというアメリカからの輸入車の取扱いが告知されている。鶴田の快挙が広告に使われているわけだ。
とすると、前に紹介した「三人ともクリーブランド号に乗った」ということと事実が合わなくなる。結論を先にいうとヴォーガンがクリーブランド、鶴田がデートンに乗って二人で走り、デビンは走っていないのである。

明治35年、『輪友』双輪商会の広告

挑戦者は日・米2人のみ
制動きかず鶴田は苦闘
ヴォーガンの紀行文、日本側の記録、この両方をながめながら事実関係を整理してみよう。
明治33年8月18日「雨の中を横浜から御殿場まで鉄道を利用し、自転車やバッグを運ぶための馬や人夫を雇って太郎坊に向かう。最初の夜は茶店で一泊、翌朝も雨の中を進むが、雨はやんだが見通しがきかず、四合目で一夜のテント。つぎの朝も雨だが強行して進む、だが危険がともない六合目で一夜を過ごす。つぎの朝は快晴、頂上をきわめ記念写真を撮った後で出発点の七合目まで戻る」(ヴォーン紀行文の要旨)。

「さる18日より富士山登山致し候ところ、ご存知のごとき暴風雨のため、4日3夜の間は太郎坊、二合目、四合目、六合目等に閉じ込められ、22日ようやく六合目より進行つかまつり、午後2時に七合目へ帰着致し、これより自転車にて御殿場まで下り候」(秋山定輔宛、ヴォーガンと鶴田の連名の手紙。二六新報8月27日付)。
日米ともに同じ記述、だが18日出発で4日3夜を明かしたのなら進行開始は21日のはずだがカンちがいかもしれない。

「私は自分のクリーブランド号に乗り、ミスターデビンは小橇(そり)に乗った」(ヴォーガン紀行文)。

「鶴田はデートン、ヴォーガンはクリーブランドに乗った。もう一人同行の西洋人があったが、この人は徒歩であった。その人が写真機で写真を撮った」(「輪友」創刊号)。

これで、自転車でのダウンヒルは二人であることがわかるが、デビンが小橇に乗ったとはどういうことか? 上の写真を見るとわかるが、これはヴォーガンがダウンヒル制動のために工夫したものなのである。
前出の「輪友」にはこうある。

「ヴィーガンの考案になる左官屋が土をこねるような舟、あれを持っていって、その舟の上に自分たちの荷を乗せ、綱をつけて自転車にむすびつける。自転車だけでは速力が早すぎて降下できないから……」。

その結果をヴォーガンは「二、三分は用心深く走ったが、あとは運を天にまかせて時速45マイル=71.5キロのスピードで8マイルほどの坂を一気に走り降りた」と記している。
そしてヴォーガンは鶴田について「彼はズダ袋にくるんだ荷物を2本の棒にくくりつけ、これを自転車に取りつけて(車輪の)歯止めをつくった。このアイデアは最初の数マイルは実に効果があった。しかし、そのあとはロープがすり切れ、ものすごいスピードで落ちていくように降りていき、傾斜がゆるやかな地点でようやく止まった」と記している。
これだけ読むと鶴田のほうが歯止めを失っても巧みに降りていけたようであるが、実はたいへん苦しんだらしい。「輪友」での聞き書きはこうなっている。
「鶴田はブレーキなしで降りてきたのだが、どうしても自転車が止まらないので、やむを得ずサドルから腰を上げ、自分の尻で夕イヤにブレーキをかけながら降りた。ところがズボンも、厚い下着もやぶれてしまって、尻が出るという始末」。
そのあとは「二人で10マイル=16キロを26分で降り」(ヴォーガン)、「御殿場までの15マイル=24キロの行程は50分にて」(ヴォーガン、鶴田)走ったのである。

鶴田はなぜデートンか?
双輪商会がバックに
以上で日本最初の富士山ダウンヒルの様子がわかるであろう。ヴォーガンはその翌年もチームをつくって再度の富士山挑戦をしたかったようだが「病気か何かのためオジャンになったらしい」という伝聞も記録にあった。
ヴォーガンがどのような人物であったかはまだ調べていないが、前出の二六新報には「ヴォーガンが曲乗りの達人、鶴田が本邦輪界の剛の者なることはわが読者諸兄の先刻ご承知の通りなり」とある。
鶴田勝三のことはいくつも記録が残っている。彼の兄はさきにあげた『輪友』の広告主であるデートン号の輸入販売をしていた双輪商会経営者の吉田銈次郎であり、鶴田は当時「鶴田の前に鶴田なく、鶴田の後に鶴田なし」とうたわれていた。ほとんどのレースで連勝しつづける大選手だったのである。
してみれば、この富士山ダウンヒルに鶴田がクリーブランド号に乗らず、デートン号を駆使したことは当然である。当時、クリーブランド、デートンはともに一級品として迎えられていたが、吉田銈次郎はデートンを一挙に12台も輸入した(当時は数をまとめて輸入する店は少なかったという)最初の人といわれている。鶴田大選手はデートン号のキャラクターだったようだ。
また、朝日新聞の説明文は「米国のコロンビアM・F・G社が日本への自転車売込み」のためにヴォーガンを派遣したようになっている。
だが、二六新報が主催したという説もある。二六新報は、社長の秋山定輔(衆議院議員)が大の自転車愛好家でさかんにレースを主催している。ヴォーガン、鶴田の連名の手紙が秋山に寄せられているのを見ても、関係があったかもしれない。あるいはコロンビアの企画に相乗りしたのだろうか。
はるか85年前、自転車によるこのようなはなやかなイベントがあったことが、海の向こうからの写真によって発掘される。
それほどに、銀輪のわだち、は埋没しているのである。

季刊「サイクルビジネス」№22 盛夏号、1985年7月10日、ブリヂストン株式会社発行、「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)

付記、
鶴田勝三と双輪商会
いくつかの記録から

●松居松葉著「自転車全書」より
「初めて自転車倶楽部ができたのは明治29年の天長節。
その時分にはクリーブランド、デートンなどの車が来ており、日本人が競走したのはその翌年の春か、あるいはアメリカ独立祭のどちらかだと思うが、鶴田君が横浜のクリケット俱楽部のトラックで走ったのが初めてです。そのころ横浜ではスコット、ベエーン、ビーメーソンなどがチャンピオンであったが、鶴田君がこのレースで二等賞をとった。
明治31年には上野の不忍池で日本人だけの最初のレースがあり、鶴田君は20マイル競争で非常な評判をとった」。

自転車産業振興協会編「自車の一世紀」より
 「最初の競走記録と思われるものは、明治28年7月4日のアメリカ独立祭での横浜のトラックレースで、鶴田勝三が2着でメダル獲得。1着は外人貿易商の主人で、デートン号で優勝した。
「双輪商会の主人は吉田銈次郎で、氏の弟が現在浅野系の事業に関係している、かの自転車大選手として有名だった鶴田勝三氏である。銈次郎氏が資金を投じて米国製のデートン号を輸入取売されたのであるが、この双輪商会設立の動機が面白い。
兄弟いすれも慶応義塾に通っていて文明の利器といわれた自転車に関心を持ち、同級生の日比谷新次郎、中上川次郎吉、同三郎次の兄弟、古川虎之助とい富豪の貴公子たちと申し合わせて自転車の輸入を考え、銈次郎氏が代表者となって横浜の貿易商に出かけていった。そして外人と折衝してデートン車を1ダース輸入したのである。
それが珍しいものを好む慶応のハイカラ連中が、俺にも頼む、俺にも取ってくれ、といわれ、これは面白い商売だと双輪商会をはじめることになった。
弟の鶴田勝三氏は初期の自転車競走界を引退してから渡米しワシントン大学に学び工学博士として帰朝後、浅野総一郎氏の令嬢と結婚された」。
(要旨)