2020年10月6日火曜日

銀輪のわだち その3

 「知られざる銀輪のわだち」その3

(承前)わが国で初めて自転車の工業化に手をつけた梶野仁之助は、昭和8年に書きしるされた「略伝」によると、生いたちはつぎのようになっている。

●安政2年(1856年)神奈川県津久井郡大井村に生まれる。

●8才のとき父の逝去によって同村の親戚梶野敬三方に引取られ同家の家業であった醤油製造業に従事する。

●明治5年(1872年)15才のとき醤油墫の木片を利用し、自転車に類似した木製の乗りものをつくる。

●その後、21才のとき横浜の灯台局に仕上工として入り技術を学び、25才のとき横浜市蓬来町四丁目で自転車工場を創業する。

醬油樽の木片で自転車をつくる?
「略伝」の冒頭にはこう記されているのだが、いささか首をかしげたくなるところがある。
まず、醤油墫の木片による自転車うんぬんだが、サッと読めば醤油墫のフタ=木の車輪というイメージが浮かんで、なるほどと思うのだが、明治5年という年は東京府下に、「自転車が1輛」存在していた公文書があり、「ジャパンパンチ」などにはそれ以前から外人が自転車で走る絵が掲載されているものの(連載第1回参照)、津久井のあたりまで自転車の形態や構造、情報が知られていたかどうかが疑問である。
それに25才のときに自転車工場をつくったとすると、それは明治15年のこととなり、「明治12年創業」という事実と合致しなくなる。
この「略伝」は梶野氏本人の口述によって書かれたらしいが、喜寿の老人が昔を語るとき、記憶の不確実、願望と事実の混合による過去の美化が生じたとしてもやむを得ないであろう。
梶野仁之助を描いたいちばん古い記録は明治42年に横浜市の経済新聞社が発刊した「横浜成功名誉鑑」である。そこには彼が自転車製造をはじめるまでの経過として「質屋から時計商になって非常に機械的趣味を感じ、明治12年に初めて横浜市蓬来町に自転車工場を設ける」、「明治14、5年のころ木製自転車を製造して盛んに営業した」とある。
〈醤油墫→木輪車→技術→灯台局→自転車工場〉という経路と〈質屋→時計商→技術→自転車工場〉という経路があるわけだが、後者のほうが納得がいく。それは記録されたときが古い、というだけでなく、彼の生涯を見てみると、常に時流に適応しようという旺盛な意欲で、次々と新しい仕事へ転換をくり返していることがわかるからである。
梶野自転車商会が自転車工業化の先駆者であったにもかかわらず、わずか37年ほどで閉鎖されてしまう原因もここにあったらしい。

時代に敏感な才人、相つぐ新事業開発
「略伝」には「大正12年9月1日、かの関東大震災にさしも隆昌を極めし氏の大工場も大打撃を受け、氏は甥の松本次郎吉氏に工場のすべてを譲り、一私人となって余生を送ることとなった」とある。だが、松本次郎吉の子である松本春之輔氏によると明治19年に蓬来町から高島町へ移転した新工場は、関東大震災以前の大正5年にすでにベアリング工場に転売されていて、自転車生産はその前にやめてしまっているという。
梶野仁之助は、時計を扱って機械への興味から自転車に着目したように、自転車生産が一定の軌道にのり、セーフティー=安全車の海外輸出も順調になると、工場は甥の松本次郎吉に任せ、つぎつぎと新しい事業に手を出す。
参謀本部に軍用自転車を納入していた関係からか、日露戦争がはじまると大陸に渡って酒保(PX)を経営し、ついで朝鮮の城津(現在の成鏡北海・金策=キムチェク)に飼料店を経営する。

巴里からの葉書 1905年

この葉書の画は有名な
ジュール・シェレのイラスト

上の写真を見ていただくとわかるが、これは明治38年にパリから梶野宛に届いたはがきで宛所は「梶野木材工場」になっている。内容は自転車についてのものだが、宛所を木材工場にしているところを見ると、自転車工場へ宛てるよりこのほうが早く届くという差出人の読みがあったのだろう。
これは自転車工場を閉じてからの話だが大正10年には梶野式特許傘という新型の洋傘特許をとり福島県郡山市にその工場をつくっている。
この傘は現存していないのでどのようなものかはわからないが、想像するにスポークから何かのヒントを得たのではなかろうか? いつか傘の業界の歴史を調べてみたいと思っている。
新しいものへの関心は強く、松本春之輔氏宅には、携帯用の折りたたみ枕、ジャイロ効果を活用した玩具の資料などが残っている。

工場閉鎖の真因は何か?興味の対象が別方向に
さて、では梶野自転車商会が閉鎖された直接の原因は何か? それは工場の総支配人であった松本次郎吉の妻と、梶野仁之助の後妻との間に感情的なもつれが生じ(松本は梶野宅に住んでいたらしい)いたたまれなくなった次郎吉が会社を飛び出してしまったことである。これが大正2年。
これがきっかけで、マネージャーを失った工場からは従業員が次々とやめて行き、自然廃業になったのである。
やるべきことが多く、興味が四方八方にある梶野仁之助は、ひとたびは完成させた自転車事業に、もうあまり関心はなかったらしい。
多才な人ではあったが事業の管理面には意をそそがなかったようである。
梶野仁之助がいかに多才であったかを示す工ピソードがある。前号に梶野の店の写真を載せたが、この店は梶野が自ら設計したもので、松本春之輔氏は少年期にここの二階へ住込んでいた。その体験だがこの建物は大風が吹くとよく揺れるのだそうである。だが、関東大震災のとき周囲の建物はすべて倒壊したが、ここだけは倒れなかったという。さらに、工場を飛び出した松本次郎吉は横浜市神奈川区神明町に自転車店を開くことになるが、その建物づくりに梶野は設計を引受けている。戦時中、この建物を取りこわすことになって(強制疎開か?)、作業員が引き倒しにかかったが、倒れず、こわれず、難渋したそうである。大工職がやってきて骨組みを調べ、その堅固な構造に舌を巻いたという。
これらは春之輔氏の話で、追憶談特有の混入部分がないとはいいきれない。だが、セーフティ=安全車の輸出に成功した経験から推せば構造物の応力についても知識があったはずであるし、木材関係の事業をしていた経緯から見れば建築についての知識を持っていたかもしれない。何しろ、探究心の旺盛な人物だったのである。
明治35年年、梶野仁之助はアメリカの自転車業界の式典に日本代表として招かれているが、
このころがもっとも自転車に情熱をそそいでいた時代だったかもしれない。

季刊「サイクルビジネス」№15 涼秋号、1983年10月12日、ブリヂストン株式会社発行、
「知られざる銀輪のわだち」より(一部加筆修正)