2020年12月10日木曜日

原典「自転車の一世紀」

  1973年に自転車産業振興協会編「自転車の一世紀」が出版された。この本との出合いについて、触れてみたい。

 1972年に横浜の職場に就職し、その庁舎の建物の5階西側奥に図書室があった。いつも昼休みにその図書室を利用していた。或日、その図書室の書棚に「自転車の一世紀」が置いてあるのが目に留まる、何げなく手に取って眺めてみた。以前から自転車には興味を持っていたから、この本を借りて読む気になった。最初は飛ばし読みであったが、2回目からはいわゆる精読に変えた。何回か読むうちに、いままでにない歴史書(自転車の通史)で感銘をうけた。
 さらにじっくりと読みたいがため、その出版社に連絡し、在庫分をすべて購入することにした。既に出版から数年経っていたので、在庫は全部で3冊であった。
 クラッシク自転車とこの本の出合いよって、自転車の歴史にのめりこむようになっていったのである。まさにこれは私の原点(原典)であり、大げさに言えばバイブル的存在であった。

 その後、この本を著述した人が、佐野裕二氏ということがわかり、赤坂の自転車文化センターに勤めていることも判明した。
 佐野氏は「自転車の一世紀」をもとに、「自転車の文化史」、「発明の歴史自転車」、文庫本の「自転車の文化史」と次々に上梓した。
 
 自転車文化センターを通じて、佐野氏との交流も始まり、2度ほど拙宅にも来ていただいた。私もやはり2度ほど新宿区のお宅を訪ねている。そこで、自転車の歴史以外の話もした。佐野氏の趣味はハサミのコレクションということも分かり、その鋏を見ながら楽しそうに解説してくれた。更に話は、西郷南洲の話題に変わり、岩波文庫の「西郷南洲遺訓」は読んでいるか、と言われ「まだです」と答えると是非読みなさいと言われた。そういえば佐野先生(ここから親しくなったので先生と呼ぶ)は、西郷さんは尊敬するが、どうも徳川慶喜公は避けていたようで、私が慶喜公がダルマ自転車に乗っていた話をすると、冷ややかになり、はじめて「私は西郷さんは好きだが・・・」と言った。どうりで、「自転車の一世紀」や「自転車の文化史」に一切、慶喜公は登場しない。知らなかったのではなく、どうやら避けていたのである。佐野先生のこれがこだわりのようであった。
 1994年のある日、「今度この本を出したい」と言って、その原稿のすべてのコピーをいただいた。そして「感想や意見が欲しい」と言われた。私のような学者でもない只の趣味人に、そのような言葉をかけてくださったことが今でも鮮明に覚えている。このコピーは、齊藤俊彦氏(交通史研究家)にも渡してあり、校正を頼んだと言っていた。
その後、齋藤先生の校正と同氏の1994年12月24日付けの手紙のコピーもいただいている。この原稿は、その後、出版の動きもなく数年の時が流れてしまった。
 残念ながら、佐野先生(1918-2001)は2001年4月27日にご逝去され、この原稿は遺稿ということになってしました。

 この原稿(遺稿)のタイトルは「日本の自転車の歴史」副題は「その始まりから、現在まで 1860年代~1990年代」である。まだ正式なタイトルでなかったようで、序文には「日本の自転車史」とある。
本文だけで全342頁、索引や挿絵や統計資料などを含めると恐らく400頁近くになると思われる。うち147頁と148頁のコピーが欠落していた。

 その他、佐野先生の思い出としては、なんといっても1984年に赤坂の自転車文化センターで開催された「明治自転車文化展」( 3月9日~4月1日)である。この催事にあたっては、何回も打ち合わせがおこなわれ、私も及ばずながら、そのスタッフの一員になり、解説書の発行や集められた実車の評価などを佐野先生と議論を重ねながらおこなった。
 ここで一つだけ佐野先生と私の意見が合わない点があった。それは、このブログでも何度も触れているが、三元車の問題で、私はおこがましいと思いながら、「この現存する三元車はイギリスのシンガー社製の模造品であると思います」と主張したが、先生は、どうしてもこの点に関しては譲る気配はなかった。結局私が折れて、佐野先生の見解を尊重し、採用することになった。これが唯一佐野先生との意見相違であった。

この遺稿にもそのことが書いてあり、
「三元車はシンガー・トライシクルをコピーしたものであるか、また、三元車はシンガー・トライシクルと別な発明であるのか、という問題を巡って、自転車史研究家たちのあいだで論争が起きた。筆者は、三元日記を読んだ結果として、三元車は独立した発明であると考える。シンガー・トライシクルと三元車が、遠く離れた地域で、時期も似た時に同功の発明が行われたとしてもおかしくはない。発明工夫には、ある製品の影響を受けて別の製品が創造される場合と、おのおの独立して似たものが発明される場合とがあり得るからである。」

ここでは「自転車史研究家たちのあいだで論争」となっているが、実はこれは私と佐野先生との二人の論争でもあった。

 いま改めて読み返すと、極めて大人の見解であるように思えてくる。
 確かにあの当時は三元車を発見した人や三元の子孫もいたし、また大勢の地元関係者もいたはずで、そのことを思うと、このような見解に至ったのは妥当だったかもしれない。
すべての関係者の機微を考えた末の佐野先生の結論であった。
 よく歴史の解明には政治性や主観、私情を絡めてはならないと、言われるが、何時の時代も歴史の大半は、理想どおりにいかないし、それが歴史になっているものが殆どであろう。

 この遺稿をなんとか世に出したいと考えているが、そうこうしているうちにすでに25年以上も経過して仕舞った。
いずれにしても佐野先生の遺稿と遺訓は大切にしたいと思う今日この頃である。

佐野先生の主な著作、
「東京立腹論―これでいいのか日本人 」1975年
「自転車の一世紀」1975年
「発明の歴史自転車」1980年
「自転車の文化史―市民権のない5,500万台」 1985年
「鋏読本(はさみどくほん) 」 1987年
「自転車の文化史」 (中公文庫) 1988年
「日本の自転車の歴史、-その始まりから、現在までー 1860年代~1990年代」(1994年の遺稿)

「自転車の一世紀」
-日本自転車産業史-
昭和48年6月8日発行
自転車産業振興協会編
㈱ラテイス

「鋏読本(はさみどくほん) 」 1987年

「日本の自転車の歴史」(1994年の遺稿)

原稿の序文