2020年12月17日木曜日

女サイクリスト

この記事は明治34年発行の雑誌「自転車」からである。

 いまでは女性のサイクリストは珍しくないが、当時は女性が自転車に乗ること事態まだ稀であった。先般も半山の追憶録で女子嗜輪会についてかかれていたが、男性の視点や女性に対する感情などから、やはり女性の乗輪姿は奇異であり、理解されるまでは多くの偏見やら侮蔑的な目で見られていたのである。
 私が近くのサイクリングコースを走っていると、何人かの女性サイクリストを見かける。大半は男性と同行で走っているが、中にはいつも一人だけで走っている女性もいる。軽快車で颯爽と走り抜けていくのを何度も見ている。本当に自転車がすきなのであろう。こういう女性が増えてくれば、男性側ももっと楽しくなるし、たまには声もかけたくなるはずである。 

女サイクリスト
 大蔵省の主計局に予算決算課といへるがありて、予は 数年前よりその課の写字生に採用せられ、今や日給40銭を給せられつつあり、さるからに予は神田の今川小路に、月6円50銭の安下宿を求めて、毎朝それより大蔵省へ出勤したるが、予は友人間に変人の名だかきほどありて、酒も飲まずタバコも喫まず寄席も芝居も虫が好かず。ただひとつの道楽とも称すべきは、役所への出勤前又は日曜日祭日等に、自転車に乗りて馳廻るあるのみ。これがために予は多からぬ冗費を節約するなり。あらず予は湯銭を節約し理髪をなほざりにして、小遺銭の大部分を貸自転車屋に注ぎこむなり。
 予がつねに好みて乗廻すはスネルの競走式にして、モーガンランドの二重タイヤーを付けるものなり。予はかってこの自転車を借りて、某々クラブ競走連合の大競走会に臨み、その来賓に 名誉ある勝を得しをあり。それよりして予は更にはなはだしくスネルを愛するに至れり。人或は予のこの言を聞きてし笑せん。何んとなれば世にはスネルに比して、快速なる堅牢なる精巧なる完全なる自転車多ければなり。ひとりスネルのみが自転車にあらざればなり。しかりコロンビアの如きピャスの如き、或はアイバンホー、デートン、クリブランド、ノアウート、エンサ イン、ウエストフィールド、スーダン、ウォルフ、グレンドン、ホワイトフラィヤー等の如きは、いづれも皆最新式の良輪として乗用せられつつあり。 さりながらいかんせんいわゆる先入主となるといふ人情は、予をしてかくもスネルに執著せしめたるなり。
 予がつねにスネルを借るは、爼橋きわなる前田と称する貸自転車屋なり。ある日曜日の朝はやく予は前田へ赴きて、例のスネルを借りけるが、その朝予よりも早くウエストの婦人自転車を借りて、まっしぐらに牛ヶ淵公園の方へはせゆきし女サイクリストあり。
 年 22~3にしてカシメルの黒の袴をはき、濃き髪をイギリス銀杏に結ひたるが、予はそこの女子のいかにも巧に乗行くより、これに競争を試みんとの念を起し、サドルに跨るやいなや烈しくペダルを踏みて、疾風の如くはしりいだせり、と見れば彼女は何地へ赴くやらそん、予と同じくほとんど全速力を以て、文部省の横手を大蔵省の方へはしれり。
 予は平生より日本婦人の体格の軟弱なるを憂いて、大いにその体育の奨励を主張する者なり。今や婦人の体育を奨励しつつある団体には婦人衛生会や日本体育会の婦人部等あれども、予はこれらの団体が婦人の体育の上に、果して幾何の効果を収めつつあるやに就て、大いに大いに憂ひなを能はざる也。予は男女同権論に就いては多少の意見を存すれ共、婦人をして活発なる気象を養成せしむるは、今の世に於て最も必要なりと信ずる也。さるからにその遊戯技芸の種類たるや、婦人の品格をそこなわざる限は、いかなるものにても可なりと信ずるなり。唱歌の如き琴の如き或流派の三味線の如きピアノ、オルガン、バイオリン、横笛、尺八の如きは更なり、ボートも水泳も乗馬も氷滑も、さては又ビリャッドもテニスもブランコもクロッーケーも、一両年前新橋芸妓のおえつが乗り初めてより、爾来漸く婦人社会に流行のきざしあるこの自転車も、すべてみな決して排付せざるなり。
 さりながら今しも全速力を以て走り行くこの女サイクリストに対して、予は一種の不快の念の生ずるを禁じ得ざりき。かくの如きははなはだわがままきままにして、予を知る人は必予を非難すべけれど、予は彼女を生意気なるとしゃくなる女子として憎しみおもいしなりこは唯彼女の自転車の操縦法が、予に比してなお巧妙なりしより、予の心中に嫉妬の情を生ぜしものなるべし。ともかくも予はこの女サイクリストに追いせまる能はざりしなり。されども予は一直線にその後を追ってやまざりき。
 女サイクリストは馬場先橋前堀端より、日比谷公園に沿いて 新幸橋を真すぐに、愛宕町一丁目を右に曲りて、そのなかほどの右側なる東京病院に入れり。予は愛宕を新橋の方へ曲りて、桜田前より元園町を九段に出でその日はそのまま自転車を返せり。
 翌朝予は再びその貸自転車屋にて、同じサイクリストにあいたり。つくづくとその面をみやりしに、色は白けれども面長にして、眼小さく鼻やや大に、容姿よりすれば十人並に通用せざる女なりき。予はその朝も亦このサイクリストの後をつけしに、彼女は予の一心不乱に競走せしにも係わらず、予よりも小半丁さきに東京病院に着けり。
 三日目の朝なりき女サイクリストは、既に予の顔を記憶するに至りけん、予に対してうやうやしく会釈しつされども予の偏狭なる性質は、彼女に相当の礼を返すと能わず、無礼にも鼻先にてあざ笑いしに過ぎざりき。その日彼女は日比谷公園わきにて、約三四十歩ほどもおくれたる予を待合せり。「どちらまでお出でになるので御座います」。と予に問えり。
予はこの問に対して答えず。聞えざるまねして横を向きつ、予は実にこの女サイクリストの生意気をにくみて、普通人として認すると能わざしりなり。
 予はその朝より凡そ二十日間ほどあの貸自転車屋にて件の女サイクリストに会えりしが、彼女はいつも予に対してていねいに挨拶せり、されども予は決してそのサイクリストに親しまざりき。親しまざるのみならずむしろ一種の軽蔑の眼を以て、いとひややかにもてなしたりしなり。
 或朝予は例の如くその貸自転車屋へ赴きしに、この朝は女サイクリストに出会わざりき。
翌朝もその翌朝も出会わざりき。予はこのサイクリストに出会わんと望めるにはあらで、むしろ出会わざるを快く思える者なれど、これまで毎朝の如くに出会えりし事とて、何となく物足らず淋しく感じけるなり。それより十数日を経たりけれど、予は再びこの女サイクリストに会わざりき、予は遂にたえかねて貸自転車屋の主人に対し、「どうしましたあの女自転車乗りは」。と問いけるに、主人ははたと小膝を打ちて、「あの御婦人ですかあの御婦人に就ては、こういう話が有りますよ」。と膝を近め、「あの御婦人は富士見高等小学校の女教師で、一年ほど前に女子師範学校を卒業したのだそうですが貴君も御承知の通りあの御婦人は、毎朝私の店へ自転車を借りにおいでになりましたでしょう。当節はまだ御婦人で自転車にお乗りなさる方は少う御座いますしまして御婦人でもって自転車を借りにおいでになるお方といったら、殆んど皆無という姿で御座いますから、私も不審に存じまして、段々探って見まするとあの御婦人はお姓名を増見せい子様とかおっしゃって、本年六十九才の御老母がお在りなさるそうで、お宅は同じ富士見町に御座いますが、近所評判の親孝行な御婦人だそうです。親御に対して孝行な位で御座いますから、担任の生徒に対してもお優しくて、生徒はまるで母親のようになついているそうで御座います。ところがこの四十何日前から、受持ちの生徒の中の萩原何とかいう子が、脳病に罹って学校を休んでいたそうです。この萩原と申すのは極めて貧乏人で、学校でも頗る成績の好くない生徒だったそうですが、増見先生はある日その子の実家を訪問したところが、聞いていたよりも病が重かったので驚かれまして、早速その両親と談合なすって、ついに東京病院へ入れておやりなすったそうです。それさえ実に感心であるのに、先生は毎朝学校へ御出勤前に、東京病院に入っているその子をお見舞なすったそうです。毎朝私の店へ自転車を借りにおいでなすったのは、全くそういう次第であったからだそうです。実に涙がこぼれるほど感心な御婦人ぢゃ有りませんか」。
主人は斬く語り告げて予に向い、「今の世には有りませんな」。と頭をふるいぬ。予は聞きおわりていといとう感激しつ。 かって冷笑の眼を以てそのサイクリストに対せしを、かえすがえすも心より恥入りたり。じらい予はみちにて他の女サイクリストに会う事ありとも、決して冷笑する事なかりき。
 貸自転車屋の主人にこの物語を聞きてより、およそ一週間を経たる後なりき。予は九段坂の上にてはからずもこの女教師に出会えり。
予は彼女の驚きしまでにあわただしく帽を脱して、我ながら後に想えばおかしきほどにうやうやしく、直立して最敬礼をほどこせり。
おわり

月刊「自転車」M.34.1.1快進社発行より

 サイクリストという言葉は現在でも普通に使われているが、この明治34年でも使用されていたことが分かり、興味深い。
 いまならストーカー行為のようなこの男性、でもなんとなく理解できる感じもする。最後の最敬礼でいままでの無礼を詫びている潔さもあり、彼も立派な当時のサイクリストに違いない。

スネルのポスター

●Snell Manufacturer 1899-1900
Snell Cycle Manufacturing Company Toledo OH USA
ザ・ホイールメンのブランド名リストより

度々見かける現代版女サイクリスト
かなりのスピードで通り過ぎていった