2020年12月7日月曜日

輪界追憶録

 この記事は、輪史会(日本自転車史研究会の略称)の会員でもあった高橋 達氏の原稿である。
高橋氏は業界紙の取材・編集の仕事をしていた人で、拙宅にも何度も訪れ、自転車の歴史を中心とした話題を数時間にわたって論じあったことが、いまでは懐かしく思い出される。残念ながら高橋 勇氏同様、現在は物故者になっている。
 この「輪界追憶録」は、1987年に高橋さんと真船さんが佐藤半山の遺族を探り当て、そこに所蔵されていた佐藤半山の遺品の中に多数の雑誌「自転車」とこの「輪界追憶録」発見したのである。
 私もこの追憶録の全ページのコピーを高橋さんからいただいており、いまでも時々目を通している。
 明治30年代の輪界を取り巻く情勢を知る上で、この追憶録は貴重な資料である。ここにも書いてあるが、後半が未完のままで終わっていて悔やまれるところであるが、このことによって資料的価値を低めるものではない。むしろ一番知りたい30年代が書かれているからありがたい。(このブログの掲載にあたり、原稿の一部を編集した)

佐藤半山の輪界追憶禄  高橋 達
 明治期にわが国最初の自転車専門誌を主宰した佐藤半山については以前本誌でその業績が紹介されてしたが、最近になって半山のご遺族宅で半山が晩年に書いた「輪界追憶録」が発見された。
 いつごろ書かれたものかは正確にはわからないが「大正天皇」という記述があることから、昭和初期(半山は昭和7年没)のものと思われる。
ただ、その追憶は明治30年代から後のほうへは進んでいない。大正、昭和と書き進めるつもりが途中でとまったとすれば、執筆は没年ごろだったのかもしれない。
 原文を要約し、一部の用字、用語を現代風にあらため、自転車史資料として掲載する。

はしがき
 わが国の輪界は、自転車の珍事時代、娯楽時代、実用時代の3時代に分けて見ることができよう。もっと細かく見れば倶楽部旺盛時代、競走会時代、実用時代、輸出時代などに分けることもできる。
 それは、いずれ後世に日本輪界史を編む人の手によってなされると思うので、この追憶録はそこには意を注がず、行き当りばったりに思い起こすままを書いていく。順序も不同だから読む人はそのつもりでいてほしい。

「自転車」創刊の事情」
 明治33年4月、横浜にあった羽二重輸出商・石川商会の支配人である東宮和歌丸君が、私を彼の住居でもある日本橋の四七商店に招いて「自転車の普及のために雑誌を出そうと思う。君が主宰してくれ」と依頼した。当時の私は神田区役所を辞めて浪人していたので、このすすめに従って雑誌発行を引き受けることになった。
 だが自転車のことはまったく知らず、乗ることもできない門外漢である。東宮君が提供する外国雑誌の切抜きや図書を唯一の材料に、とにかくその7月に第1号を発行した。これがわが国で最初の自転車専門誌「自転車」である。発行社名を快進社とした。
 この東宮和歌丸君は、羽二重や花ムシロなどを輸出していた貿易商・石川商会に自転車の直接輸入を献策(外国自転車の輸入は明治三、四年ころからはじまっているが、それは在日外国商館からの購入で、直輸入はそれまでなかった)した人である。また、専門誌「自転車」を企画したり、女子嗜輪会の結成など、自転車の普及に大いに貢献している。
 私が聞いたところによるとそもそも東京で自転車練習をする人が目につくようになったのは明治20年前後だという。
神田の秋葉原に四店ほどの貸自転車店があり、当時の新しがり屋はここへ行き原の広場で練習をしたそうだ。
 そのころから大正期まで自転車に乗り通してきた人たちの話を聞くと「明治20年過ぎは愛輪熱が高まったとはいえ、自転車を所有する人はきわめて少なかった」という。持っている人はお互いに相手を探し合っていたらしい。ある人の話すには「新聞配達人に自転車を持っている家を探してくれと頼み、見つかるとそこを訪ねて交わり結んだ」という。中には新聞広告を出して自転車を持つ人を探すこともあった、といっている。
 そのころの話を聞くと、一部の新しがり屋ばかりでなく、上流社会の人びとの間でも三輪車が使われていたそうで、大隈重信候も邸内で乗っていた。塗りも高級なもので価は当時の金で300円もしたという。花井お梅の弁護をして当時著名な弁護士・角田真平もこの三輪車の愛好者で、角田未亡人の語るところによると、天気のよい日はこれで裁判所に通っており、お抱えの人力車夫がカバンを持って三輪車のあとから供をしていたという。
その時期をたずねると未亡人は「子どもが生まれた年なので覚えている。明治20年」といわれた。
 これと前後してダルマ自転車と呼ばれるオーディナリー型も一部の人に愛されたもので、印刷局の役人で左近司某という人は芝の新堀から背の高いダルマ型で神田橋の印刷局まで毎日通動をしていたそうである。いま麻布に住んでいる油商の北村友吉君もダルマ型の愛好者の一人だが、彼からは滑稽な話を聞いている。
 それはこうだ。和田倉門外の三菱ヶ原でダルマ型の練習をしているうち、やや自信がついたので一つ実際に走ってみようと人通りの少ない和田倉門を入っていくと、政府のある大官が馬車で退庁してくるのに出会った。その馬車の通過を待とうと皇居の石垣に寄りそったところ、からだの傾斜が度を過ぎてしまい、元のように立て直すことができず、さりとて飛び降りもできないたかちになった。
 だれか通行人でも来れば呼びとめて起こしてもらおうと、頭を右に持たせて持っていたが、人通りの少ないところなのでだれも来ず、頭がヒリヒリして苦しんだ。一時間以上そのまま我慢しているとやがて宮内省の使丁らしい人が退庁してきたので、その人に頼んで起こしてもらい事なきを得た、というのである。

自転車練習と貸自転車
 筆者が「自転車」をはじめたころ、自転車は流行をしはじめ販売する店も増えつつあった。東京では銀座の伊勢善、木挽町に双輪商会、日本橋に四七商会、神田には仁藤商店、浜田商店、吉村、杉野商店、日本商店があり、新橋際には東舎、三田四国町には東洋商会があった。
 貸自転車店も東京の各区に、三、四店はあり、また自転車練習所なるものも存在した。
 私も、まず自分が乗れなくてはならぬとあって神田錦町の浜田練習所で一週間ほど練習し、ようやくヨタヨタ走りができるようになり、自転車の部分名称を覚え、それから乗輪家や自転車店を訪問しはじめた。
 練習のことで思い出すのは神田の道具商で山畑弁次郎という人物である。私に雑誌発行をした委嘱した東宮君はその翌年に石川商会を退き、明治36年に本郷の千駄木に400坪の地所を借受け共楽園という娯楽施設をつくったが、ここで自転車練習場も開いていた。そこへ通っていたのが山畑弁次郎で、神田からわざわざ共楽園の近くへ下宿をして練習していた。
よほど不器用な人と見え2週間かかってやっと乗れるようになったが、自転車練習のために住居を移すという例は当時としても珍しかった。
 そのころは、自転車の価格は安いもので80円、90円、上等物で170円から200円以上もした。一部の人間以外はたいてい貨自転車店で一時間20銭から50銭、上等な車だと1円もの借賃を払って借りていた。当時の貸自転車店は収入の大きい商売であった。
 中でも横浜公園前の高木喬盛館と根津自転車店はその王座を占め、その盛大さは今日の人には想像できない。
 高木喬盛館は明治26年に開業しており、卸小売の看板の下に自転車も営み、200台以上の賃自転車を備えていたし、根津自転車店は明治29年の開業だが150台の自転車を備えた貸付け専門の店であった。
 横浜は開港場で外人居留地があり、ふだんでも自転車に乗る人は多かったが、英米両国の軍艦が入港すると、これら先進国では自転車が流行している時で、上陸水兵の多くは自転車に乗る。東京や鎌倉へも観光に出かける連中があって、それらは皆この両店から自転車を借りる。
だからこの両店は、何月何日にはどこの国の船が入るかを調べ、あらかじめ自転車の量を調整するわけで、根津商店の話では軍艦が入ると一日で100円から150円の収入だという。高木喬盛館では200円以上はあったであろう。
 日曜日などは両店とも目の回るような忙しさで、車の空くのを待つ客が店で待つ有様であった。
 明治34年ころは開港場でなくとも、貸自転車店は日曜日であればどこでも数10円の収入は容易だったようだ。
 この年、四七商店が本郷弓町の電車通りに貸自転車店を出した。ふつうの貸自転車店は中古のヨタヨタ車を貸したが、ここではそのころ名声の高くなったピアス、アイバンホー、スネルの新車を貸した。貸料金は一時間60銭と他店より高かったが、大好評で繁盛し、一般の貸自転車店は一大打撃を受けたようである。

儲かった自転車の輸入
 明治30年代のはじめごろは、自転車を輸入するとたいへんに儲かったものである、米国製自転車は、本国で1台が40ドルくらいであったが、輸入価格はだいたい定価の半額20ドルくらいである。邦貨になおして1台40円以下で輸入でき、問屋へは125円くらいで卸していた。問屋はそれを自転車店へ170円、ときに特価で卸しても150円はとる。
 40円で輸入したものは運賃や関税を払っても6~70円くらいにしかならないのだから、1台卸売りをすると5~60円の利益があったものである。このほか部品もこれに準じた大利益があった。石川商会やその後身の丸石商会が大きな富を蓄積したのも、また日米商会が富をなしたのも、こういう甘い汁を吸えたからである。
 横浜の高木喬盛館の婿養子になった高梨米次郎君は、のちに独立して輸入や大卸をやっていたが彼はこういっていた。「元値が1本1円のチェーンが小売店へ3円、3円50銭で飛ぶように売れ、面白いほど儲かる」。
 だが一般需要家はそのチェーンを自転車店から5円、6円で買わされていたのだから驚く。修理料のごときも高く、パンクもキズの大小によって30銭から50銭はだまって払わされていた。
 ポンプを借りるにも、東京では一部の自転車店が金を取った。たいていは「いえ、よろしゅうございます」といったものだが、中には2銭も徴収するところがあった。これは明治34年ころだから東京都内に自転車店が大小3~40店しかなかった時代である。
 舶来品が儲かる話をのべてきたが、需要家が舶来品を好んだのである。いま三ツ輪印の福岡商店といえば、全国の自転車店のだれ一人知らぬ者のない信用ある店だが、この店が国産の自転車差し油を売出した明治33年頃は、舶来品万能であって福岡商店の油などは見向きもされなかった。
 そのころの乗輪家は自転車をたいへんに貴重品扱いしていたから、差し油も舶来品でないとベアリングのボールや容球部を損傷するといって国産品は買わなかった。福岡商店は修繕屋とか場末の小さな店に油を売り込まざるを得なかった。
 あるとき、修理屋が何気なく客の自転車へ福岡製の油をさそうとすると、客が顔色を変えて怒ったという話を聞いた。福岡商店も昔日は苦労が多かったと思われる。

女性を乗せた仕掛人
 明治33年の秋、世人から驚きの目をもって迎えられたのは女子嗜輪会の誕生である。この時代、まだ自転車に乗る女性はきわめて珍しい存在だった。この会の発祥もまた東宮和歌丸君にかかわる。
 東宮君の夫人がまず自転車の練習をして乗ることができるようになり、その妹のとり子、ふく子の二人がそれにつづいた。そしてふく子の友人である朝比奈たけ子ほか3、4名がどこで練習をしたのか乗輪を覚えたため、みな揃って遠乗りをしようという話が時どき出ていたらしい。そこで東宮夫妻が私のところへ倶楽部結成の話を持ちかけたのである。
 私はこれに「女子嗜輪会」という命名をし、会則などを作成した。11月に日本橋の某家の二階を借受けて発会式をおこなったが、たいへんな失敗をしでかした。
 会場に借りた家が「待合」だったのである。当時、私は34歳だったが待合というものの存在を知らないボンヤリであった。「御貸席」という看板を頼りにして、その家をのぞけばなかなかきれいな家であったため借りることにしてしまったのである。
 発会式を終え散会しようとしたとき、われわれの部屋の襖を細くあけて、若い男と芸者がこちらをのぞいていたのに気づいていたが、うかつにも気にとめなかった。後年、特合の正体を知ってから良家の子女をそんなところへ集めたことを思い出すたび肌に粟するのである。
 この日、集ったのは前記の東宮夫人と二人の妹、そして朝比奈たけ子のほかに柴田 環、寺沢まさ子、田中きの子ほか一、二人であった、式を終えて近くの写真館へ自転車を持ち込んで記念撮影をしたものである。
 このあと、ほとんど毎月のようにた向島、飛鳥山と近距離のところへ乗行したが、私はそのお守役としてずいぶん世話をやいたものである。一行の行くところどこでも注目をあびるが、中でも職人や労働者は聞くに耐えぬ悪口雑言を放つので実に閉口した。
 そのころの女子の乗輪姿というと、娘たちは髪はお下げにリボンをつけ(当時の町家の娘は束髪かいちょう返し)、長袖に海老茶の袴、そして靴ばきである。夫人たちは束髪であった。
 柴田 環はまだ上野の音楽学校へ芝のほうから通学していたがお下げ髪や袂を風になぶらせて自転車で走る姿は、人をして恍惚たらしめるものがあった。
 女子の乗輪については、一時は「婦人衛生上有害で不妊になる」などの説があったが、帝大教授の入沢医学博士が無害論を発表し、その夫人・恒子は女子嗜輪会に入っていた。この無害論は女子乗輪者の中から子どもを何人も生むものが出て、だんだん浸透してくるのである。
 女子嗜輪会はその後、下田歌子を会長に、医学博士・三島通良を顧問とし、九段の日本体育会を練習場とし、月に二、三回女子乗輪希望者に練習をほどこした。私もそのお手つだいをしたものである。
 こういう中で女子の乗輪熱はさかんになり随所に乗輪家が現れるが、下谷の芸奴中川家の栄とうめ子は早くから乗輪を覚え、大いに輪友諸君の人気を得た。輪友の宴会が下谷方面で催されれば常に名指しで呼んだものである。この栄は後に俳優・市川左団次の妻となった。
 神楽坂芸者の中にも二、三人の乗輪者があったが、あるとき彼女たちが小規模の競走会へ出走し大いに歓呼をあびたが、女子嗜輪会あたりでは「芸者風情が競走に出るのは競走会の神聖を汚す」と苦々しく思っていたようである。

新聞社の自転車熱おこる
 明治34~5年ころは自転車熱がかなり高まってきて、各地で自転車倶楽部ができ、競走会が催されてきた。新聞社もまた報知、朝日、日々、万朝報など自転車を利用しはじめ、新聞記者が自転車を乗りまわすようになった。
 とくに万朝報社は社長の黒岩周六君が熱心な乘輪家であったから、社員にも乗ることをすすめていた。そのころ万朝報社に行くと記者連が乗る自転車が30余台も一列に並べられていたが、その自転車はピアス、デートン、クリーブランドであった。
 そのころの万朝報の高級記者は松井松葉、山縣五十雄、川上肇、堺枯川、曽我部一紅の諸君だったがいずれも乗輪家であった。朝日新聞社でも粟島狭衣がその一人である。
 新聞関係でわが国最初の乗輪家であったのは二六新聞社長の秋山定輔君である。
彼は明治28年に大日本双輪倶楽部を組織したほどである。
 社会の耳目である新聞社が自転車を利用する、競走会の記事を新聞に載せる、ということは自転車の普及に大きな力であった。
 このころ人民新聞社は新聞紙上で自転車熟練家を人気投票で選ぶという企画を立てた。全国各地からの投票を集めるのだが、その投票用紙は人民新聞の下欄に刷込んである。このため各地の乗輪家連中は人民新聞を買集めたり、あるいは新聞社から投票用紙を買収で手に入れたりしてわき立った。このおかげで人民新聞はだいぶ利益を得たらしい。いかに時流に投じたかがわかる。
 投票締切りのあと帝国ホテルで高点得票者の発表と賞牌の授与式があったが、仙台の黒田栄蔵、土浦の坂野五兵衛など素封家が最高点者で、柴田環嬢も入賞者の一人であった。
 同じ年に横浜貿易新聞社も似たような人気投票を企画した。これは投票の対象を自転車熟練家だけでなく、鳶職、理髪職、芸者、娼妓、人力車夫にまで広げていたため、乗輪家の間から「自転車熟練家と娼妓や人力車夫といっしよにするのか」という非難が出た。しかし結局はおこなわれた。このころの乗輪家は人気投票の対象だったのである。

東京のクラブ事情①
 わが国の輪界発達の道程で想起されるのは明治32~3年ころ東京に出現した多くの自転車倶楽部のことである。
●大日本双輪倶楽部
 倶楽部のそもそもの初めは明治28年に、二六新聞社の社長であった秋山定輔君が12~3人の有志を募って組織したこの倶楽部である。上野不忍池畔で最初の自転車競走会を催したのもこの倶楽部である。明治33年にはたしか5~60人の会員がいたと思う。当時のもっともハイカラな人たちが集まっており、記憶に残っている会員の名をあげると、秋山君のほか、那珂道世、鶴田勝三、小林作太郎、岩谷松平親子、小柳津要太、それに室町公大伯爵、奥平昌恭伯爵等である。
●帝国輪友会
 この会は大日本双輪倶楽部についでつくられた江東輪友会が前身である。はじめは本所、深川など、隅田川以東に住む乗輪家によって組織され、大日本双輪倶楽部と関係を持っていたが、しだいに反りが合わなくなって別れ、帝国輪友会として独立した。深川に四周で一マイルのグラウンドを設け、春秋にはさかんに競走会を催した。筆者の編集する雑誌「自転車」はここの会員が機関紙として講読してくれていたが、会員数は7~80人であった。
●東京バイシクル倶楽部
 これは明治32年にできた。60余名の会員がいたがレースに強く、東京における自転車競走会の覇者であった。
●金輪倶楽部
 明治34年ころ組織され、事務所は鍛治橋外の土居為七君方に置かれた。石川商会の社員であった松浦精一朗君が采配をふるっていたが、小宮山長造君など強い選手も所属していて東京バイシクル倶楽部と相対立して東京の競走会を牛耳っていた。
●銀輪倶楽部
 これは銀座の商店街の子弟を中心にしてつくられたが、バイシクル倶楽部が活躍するに及んで吸収され、自然に消えていった。
●進輪倶楽部
 明治33年秋に向島の華月花壇で発会式を兼ねた競走会を催した。スローレースもやっていたことを覚えている。
●勇輪義会
 この会は明治34年4月に結成された。東京バイシクル倶楽部や金輪倶楽部のように競走会を主たる目的とするのではない。自転車の普及発達をはかり国家に一朝ことあるときは自転車をもって国に奉公するを目的としたものである。
 このため、その目的に共鳴する者が多く、盛岡、仙台、福島、水戸、土浦、結城、鹿沼、横浜、徳島など各地に会員が組織されて400人を超し、支部も多くできた。
 勇輪義会は陸軍大尉・梅津元晴、東宮和歌丸、それに筆者も加わって組織したものである。会長には海軍少将・新井有貫君を戴き、副会長には陸軍戸山学校の体操科長である鵜沢総司(日露戦争に連隊長として出征、沙河会戦で戦死)君を推した。発会式は30余人で遠乗り会を催し、小宴を張った。
 会員はみな制服、制帽、徽章を佩用するがその服も帽子も陸軍士官のものとよく似たもので、軍人とちがうのは佩剣がないだけであった。
 ときどきは梅津大尉の指揮で青山練兵場で軍事操練をおこなったもので、そのときは陸軍払い下げの銃を帯用していた。
 日露戦争がはじまると、各地の会員は召集令状を自転車を使って伝達するなど、各地町村役場の手伝いをして大いに賞賛された。
 本部事務所は筆者宅に置き、雑誌「自転車」を会の機関紙としていた。
●学校輪士会
 この会は勇輪義会についで創立された。
東京の帝国大学、高等学校、学習院、専門学校、中学校の教師、学生の乗輪家をもって組織したもので、幹事は帝国大学教授の田中館愛橋、高等師範学校教授の那珂通世、高等工業大学教授の松浦和平、学習院教授の吉田栄右の四君である。事務所は筆者方に置いたが四君は毎月ここへ集まりその熱心なことには敬服させられた。月に一回は遠乗会を催すのが例で、
多いときは「30余人、少ないときでも10数人は参加していた。
 大学教授仲間はこの遠乗会のほかに日曜日など数人で各地に出遊したもので、とくに理学博士の箕作住吉君などはよく出かけていた。
●杏林倶楽部
 医師を中心としたこの倶楽部もそのころ誕生した。赤坂、神田、日本橋の数人の医師がリーダーで毎月遠乗会を催した。

東京のクラブ事情②
●桜輪倶楽部
 劇場の明治座を中心につくられたもので、河原崎權之助君が主唱者だった。河原崎君は「とかく柔弱に流れやすい俳優は体育にはとくに意を注がねばならない。自転車に乗って郊外に出て新鮮な空気を注入することは妙を得たもので、この見地から倶楽部を起したわけだ」と話していた。市川左団次君は結成当初から熱心な共鳴者であった。
●共睦神輪倶楽部
 これも同時代に生まれたが、組織の大を望まず、神田周辺の気の合った人たちだけの倶楽部である。神保町の病院長が筆頭幹事で、ときどき、三泊の遠乗会を催し、遠くは東海道を豊川稲荷付近まで出かけている。
 仲間で楽しむことに主眼を置き、新年会のときには自分たちで芝居をやるなど、なかなか愉快な倶楽部であった。20余人ほどが集っており、筆者もその一人であった。
●東京輪士会
 この会は明治40年以降のわが国自転車競走会の覇者となった。成立は他の倶楽部よりもかなり遅い明治39年ころだったと思う。
 発起者は石川商会東京支店長の勝山信吉、宮田製作所の宮田福二郎、スイフト南会の鈴木重行、日本商店の酒井鍬太郎、京輪社の長谷川好次郎など10数人の輪業関係の諸君である。この会の規約は筆者が依頼されて草案をつくっている。
 創立後間もなく会として第一回自転車大競走会を上野不忍池畔で催した。それ以後は毎年春秋季に大競走会をおこない、不忍池畔が使用できなくなった後は日比谷公園、また日比谷公園が借りられなくなってからは北千住の荒川堤のそばに土地を借受け常設グラウンドを設置して大競走会を続行した。あとになってここを廃止し、羽田穴守稲荷社裏の埋立地、本所の被服廠跡地などで続行している。
 この会は後年になって会員間の感情問題から宮田福二郎、鈴木重行などの幹部数人が退会してしまうが、酒井鍬太郎君らはこの打撃にもかかわらず会員を増やし、会の唯一の目的である大競走会を今日まで継続している。
 明治40年以降は、「この会のレースに出て10マイル競走で入賞しなければ選手にあらず」とされたものである。事実このレースで入賞すると全国どこでも選手として評価されていたから権威があったのである。
●三田輪友俱楽部
 これは慶応義塾を中心に、学生とその知人を部員としていたが、勇輪義会によく似ていて軍事操練もしており、梅津大尉と某少佐がその指導をしていた。
 明治35年ころ、筆者は旧川越藩主である松井康義子爵にともなわれて川越市(当時は町)へ行き、某地点で三田輪友倶楽部の演目を見た。演習が終ると旧川越藩士によって旧藩主ならびに演習幹部の歓迎会が催され、筆者も陪席の栄に浴したが、この席上には慶応義塾の塾長である鎌田栄吉(後に枢密顧問官)君も臨席して挨拶をされていた。
●そのほかの倶楽部
 りんりん会、これは明治34年につくられ奥田子爵を会長に載いて遠乗会をよく催していた。また各地の自転車競走会へは声援に出かけていた。会員は20人たらずだったと思う。
 愛輪倶楽部、これは2~30人の集団で部員には曲乗りで有名な小林作太郎君も入っており、事務所は芝区の三田にあった。
 以上は筆者の記憶に残る東京の倶楽部だけについて記したものである。

石川商会の拡売戦略
 明治30年代は東京でも交通機関は馬車、人力車である。自転車の走行ぶりは世間から驚異の目を放たれたもので、競走会といえば観客は万をもって数えられる大盛況だった。
 自転車競走を日本人が主催しておこなったものは明治29年11月、東京・上野の不忍池畔で大日本双輪倶楽部がやったものが最初だろう。それ以前にも横浜で居留地の外人たちが専用グラウンドで競走をしており、日本人はこれを見本に競走会をやるようになった。だから、当初は不忍池畔の競走会も出場選手は横浜から来る外人選手が花形であった。日本人選手としては鶴田勝三君のほか、小野寺某、小林某が出場しているがあまり詳しくは知らない。
 私がよく記憶しているのは東京バイシクルクラブが明治33年秋に東京でおこなったものである。まだ一面の原であった日比谷公園の南部に競走場をつくっての催しであったが、出場選手が乗る自転車はデートン、クリーブランドが圧倒的であった。
 このころはこの2車だけが有名であって石川商会のピアスに乗ってくれる選手はわずかであった。それも石川商会が会場へ数台を持ち込み提供したもので、当時の一流選手は見向きもしない状態だったのである。
 それが、それから一年ほどの間に、毛利正君、小宮山長造君などの一流選手がぞくぞくピアスの愛乗者となり、月を経、年を越すに従ってピアス全盛期を迎えるようになった。
 当時の石川商会が大がかりな作戦を開始したからである。
 各競走会場へピアスを持込み選手の乗用に供するばかりでなく、社員の松浦精一郎君を各倶楽部へ出入りさせ、いろいろな手伝いをさせて選手たちの支持を得られるように工作をする。その一方で東京と大阪をはじめ地方新聞に広告をどんどん出していった。
 ピアス、アイバンホー、スネルの車名を連ねた広告は毎月、もしくは隔月に人の目に触れ、その名が知れわたっていった。
 このため、明治34年には前記の毛利、小宮山両選手のほか根津、須賀、渋谷、松倉、竹内、渡辺、佐瀬の一流選手がピアスになり、デートン派は中務、小坂、中村、沢田のごく少数の選手が残るのみになってしまった。その後、競走会といえばまるでピアスの競走会という感じになっていく。
 自転車を初めて買う人は、多くピアス、アイバンホー、スネルの車名以外を知らないような状態になっていたのだから、当時の石川商会の商戦は他に類のないものであった。

不忍池は最適のレース場
 東京での自転車競走会といえば明治36年ころまで上野不忍池畔ときまっていた。ここは明治13年ころに池の一部を埋立てて競馬場にしたところである。
 その後運動会などにも使われていたが、ここが競走会に適した理由は帝都の中心部であり、場所が広いということもあるが、もう一つには街の顔役とか遊び人が寄りつかなかったこともある。
 東京輪士会が不忍池畔が使えなくなったあと、北千住の荒川堤のそばに常設グラウンド設置したにもかかわらず、そこを撤廃したのは周辺から街の顔役や不良分子がやってきて競争会ごとにいやがらせをやったためである。不忍池畔ではこういうことは一件もなかった。
 そこへいくと大阪などは何かというと彼ら遊び人が横行して競走会の主催者たちは大いに迷惑を受けていたという。明治36年の春に安治川堤下の桜島レース場で東京から行った松倉繁選手が場外につれ出されて暴行を受けている。
 東京と大阪の競走会をくらべると、どちらかといえば東京は紳士的であり、大阪は商人的な運営があったように思われそこに無頼漢が立入る余地があったのだろう。

当時の選手は模範青年
 そのころの選手諸君はきわめてまじめな青年であった。
 レースがある一カ月も前から身を持すること堅固に、神仏を念じ、浮いた心はまったくなかった。その練習の仕方を見るに、いずれも普通道路の往来少なき場所を選んで早朝からおこなう。最初の足ならしには成田または日光街道の往復をやり、それから本練習にかかるのが常で、埼玉県草加の先の松並木は人通りが少ないスピード練習の最適地だった。
 レース出場の一週間くらい前までこれを継続し、その後はグラウンドで場所に慣れる練習をする。
 当時の花形選手は、東京では鶴田勝三、毛利正、小宮山長造、竹内仙之助、渡辺亀吉、佐藤彦吉、小坂又造、佐藤真平、荒磯次郎、大阪では石井大三郎、鈴鹿光一の諸君があげられる。ほかにも強い選手は数多くいたが、花形とはどこか特色があり人気がある者をいうのである。
 毛利君は独特のスピードを有し、レース中にチェーンをはずしたときなど、代車を取り寄せて飛び乗り大スピードで一周以内に対抗車に追つく見ごとさは見る人を感嘆させたものである。
 大阪の石井君もフルスピードの所有者であった。だが両人対抗すれば毛利君に勝味があったと思う。当時、関西側は地踏みに力をこめて練習する風習があり、スピードを上げる練習はあまりやっていなかったからである。
 競走会で応援する人たちの熱意もたいへんなものであった。明治35年の11月、上野不忍池畔では二日つづけてか、中一日おいたかで、二回も競走会があったが、一回目の観衆は二回目にもほとんどやってきたらしい。番数が進んで竹内仙之助、渡辺亀吉が出走するレースになると応援の声はすざましいものがあった。
 来賓席にいた万朝報社長の黒岩周六、松居松葉や、帝国輪友会の伊藤琴三、北村友吉の諸君は音頭をとって気勢をあげているうち、だれかが「みんなで優勝者に懸賞金を出そう」と言い出すと、周囲が同調して1円とか50銭とか出しはじめたちまち10数円にまとまった。レー スは半車身の差で竹内選手が勝ったが、当時の競争会の人気のほどが知れよう。

那珂博士の功績は大
 コースターブレーキがわが国に初めて輸入されたのは明治33年ではないかと思う。石川商会が米国のマロー・コースターブレーキ社から輸入した。当初このブレーキは世間からあまり歓迎されなかった。とくに東京の人たちは「バックを巧みに踏める人には必要のないもの」と顧みることがなかったくらいである。
 このコースターブレーキの効果を広く知らしめたのは文学博士・那珂通世君である。身は東洋史の大家であり、余暇には自転車を駆って歴史探究の旅をしていた。博士の輪跡は、外は朝鮮、満洲(現中国の東北)、台湾、国内では北海道を除くすべてに及んだ。そして大旅行の後には必ず旅行記を私の雑誌「自転車」に寄せてくれるのが例であった。
 何しろ晴雨にかかわらず、汽車を使わずにピアス号のコースターブレーキつきで10時間以上走破するのである。ずいぶん疲労して事故もあったようだが元気旺盛であった。
 こういう旅行中に、博士はいたるところでコースターブレーキの効用を説明した。またこのブレーキの仕組みを英文から翻訳して自転車雑誌へ投書したりもした。このためにコースターブレーキを採用する者が続出することになった。これによって石川商会も大いに利益を受け、このことを米国のマロー・コースター社に報告したことがある。
 あとで米国の同社から那珂博士に対して感謝状と記念品が贈られている。
 そのころは、那珂博士は別格としても自転車で長途旅行をする者は多かった。
そして自転車旅行をすると各地の輪友から大歓迎されたものである。
 徳島市の宮崎民二君は四国をはじめ九州、中国、東海道から東北地方まで巡歴していたし、筆者の同郷の友人である菊地重義君は筆者のすすめで自転車に乗ることを覚えたのだが、彼は福島市の友人二人を勧誘し、伊勢参宮から四国、九州、中国への長途旅行をやっている。
 盛岡市の澤口瀧治君は東海道から四国、九州、山陰などを回って、帰途箱根山中で盗賊に襲われたことがあった。強力な澤口君はその賊と闘って追払ったのである。このような長途旅行者はかなりいた。
 明治36年ころだったと思う。東京のりんりん会という倶楽部が遠乗会で鎌倉まで行った。筆者も同行したのだが、帰途を汽車にするつもりで藤沢駅前で夕食をとり、7時すぎて駅へ自転車の託送を頼んだが駅夫が扱ってくれない。やむを得ず輪行で帰京することにしたのだが、夜間照明のガスランプ用にカーバイドを購入しなければならぬ。当時、藤沢市には自転車店は二店あったがカーバイドは置いてないという。
 やむを得ず横浜で入手しようとしたが、横浜へ行くまで照明がなくてはかなわず、途中の戸塚駅付近の茶店でお祭り用の提灯を譲り受けて出立したところ、お祭りの若い衆が提灯を盗んだものと勘ちがいして騒ぎだした。弁明して横浜までたどりつき、高島町の梶野商店の戸を叩いたが開かず、相生町五丁目の金輪社を叩き起した。
 「カーバイドがほしい」というと、寝ぼけ顔の店員が「うちにはカーバイドという人はいません」という応対。やっとカーバイドを手に入れ、神奈川のそば屋でそばを喫して東京に戻ったが、宮城の和田倉門前で夜が明けはじめた。とんだ追憶を書いたが、当時の遠乗り事情はこういうものであった。

米国車から英国車へ
 明治期は、はじめは米国製自転車とその付属品の全盛がつづいた。明治37年ころから英国製が優勢になるのが、その3年前まではまったく輸入がなかった。
 はじめて英国から自転車を買って帰ったのは海軍少将の新井有貫君であり、同君は明治33年の大佐だったころ、外国へ航海したときに、同僚の山本大佐ほか1名と3人で、英国で自転車を買い、わが国へ持ち帰ったのである。たしかセンターかハンバーだったと思うが、米国車ばかりを見てきている私が見ると、きわめて化粧の多い、優美なものに感じられた。それから10年経つか経たぬうちに米国車はすたれてしまい、ついには英国車ばかりという状況に変わったが、流行の変遷ははげしいものだ。
 この新井少将も艦中生活をしているせいか、上陸のたびに乗輪をし、輪熱を鼓吹された人である。勇輪義会の会長もされたが、那珂博士のような華かさはなかった。だが面白い逸話がある。
あるとき横浜から東京へ帰るとき、酒に酔って、汽車と自転車で競争をしようと、横浜駅から大森駅まで強踏を試みたのである。大森駅では少将が一足だけ早く先着し、周囲の者に舌をまかせている。

明治・大正天皇と自転車
 明治30年代の輪界のことを書くなら、当時の皇太子殿下(後の大正天皇)、有栖川宮殿下のことも書かねばならない。有栖川宮殿下は海軍軍人であったため早くから英国製自転車を入手されており、皇太子殿下にも自転車乗用をご奨励なさっていた。このため皇太子殿下は明治33~4年ころには自転車に乗られていたのである。
 銀座の自転車商・伊勢善が明治32年ころ新聞に「宮内省御用達」の広告を出しているが、これは同店の店員が皇太子殿下の青山御所へ自転車ご指導のため2時間ぐらいずつ伺候していた関係である。
その走行ぶりを見た人の話では植込みの間をかなり巧みにお回りになり、しごくお達者なものだということだった。
 皇太子殿下が小田原のご用邸に滞在のとき、有栖川宮殿下とともに大磯町まで自転車で向かわれたが、お付きの人たちは後から人力車でお供をしたところ、かなり遅れてしまい、殿下はお供なしに目的の場所へ行かれたため、だれも殿下とは気づかなかったという。皇太子殿下はまた葉山のご用邸でも付近を自転車で走られているが、あるとき舵を切りそこねて畑の中へ飛び込まれ、居合わせた農夫から「へたな自転車乗り」といわれたそうである。
 あるとき横浜の輪友一同が遠乗会の帰途、葉山付近で皇太子殿下の乗る自転車とは知らず、その直前を横切って恐縮したことがあった。
 明治36年の夏に勇輪義会の遠乗り会の一行が鈴ガ森を通過しようとしたとき、そこに皇太子殿下のご一行が馬車を停め、殿下も馬車より降りられて海上を展望されていたのに出会った。勇輪義会の一行はそばを通りにくく自転車から降りて待っていると、殿下はそれを見つけられ、お付きの人に「一行前進せよ」と合図をされた。それは皇太子殿下が乗輪家であらせられたからであろう。
 ここで明治天皇と自転車のことを書いておく。陛下が自転車をご覧になったのは明治20年代のいつだったか、下野の野で陸軍大演習があったとき、御野立所付近でダルマ型自転車での走行を天覧に供したのが初めのようである。これはかつて大森狷之介陸軍大佐か、梅津元晴陸軍大尉かに聞かされた話だ。
 そのあと明治35年に陸軍戸山学校の卒業式のとき、ここへ陛下がご臨幸されたとき、梅津大尉が自転車隊の操練を指揮してご覧に入れている。当時はこの学校に陸軍技術本部直轄の自転車研究科がおかれており、梅津大尉はそこに所属していた。梅津大尉はまたかんたんな曲乗り、障害物乗越しなどをご覧に入れたが陛下はたいへんにご嘉賞されたという。
これは梅津大尉から親しく聞いた話だ。
 梅津大尉の曲乗りは児戯に類する水準のものだが、他にすばらしい妙技にお接しになっていないので感嘆されたのである。これが明治天皇の第二回の天覧で、これ以後は天覧の機会はなかった。

輪界追憶録
佐藤半山遺稿
昭和2年頃の遺稿と思われる

原稿用紙は高知堂製を使用している。合資会社、高知堂(東京都豊島区南大塚)は明治期の創業で現在でも営業を続けている老舗である。