2021年3月10日水曜日

日本輪友会について③

 日本輪友会について③

日本輪友会の主な活動は、当然の事ながら遠乗会であった。発足当時の遠乗会でのエピソードを「輪友」雑誌から紹介しよう。ちょっと長いが、前回も引用しているので全て載せる事にする。

我国自転車団体の最も古き日本輪友会の話 (2)
石川 信

 遠乗会のことに就いて日本輪友会が盛んであった時分の話しを致しますと、26年の6月に中島大尉(参謀本部在動)、 田中力造、高田慎蔵、原六郎、坂田實、玉木某等の諸氏とそれから私とで船橋迄遠乗を致しました。此時は誠に無事で別段お話しする程の失敗もありませんでしたが、其翌々月の8月に坂田實、福沢桃介、福沢捨次郎、伊藤茂右衛門等の諸氏と私とで大磯まで遠乗を催した事がございます。此時は何しろまだ8月の中旬頃で暑さもきびしかったものですから一同非常に疲れまして、殊に私はペダルを踏んで居る脚の神経がどうか成りましたと見えて、もう保土ヶ谷へ掛かりました時分には脚でペダルを踏んで居ると云うよりは、ペダルの回転するのに伴われて脚が動いて居ると云うような風で、脚の知覚が馬鹿になって来たのでございます。

所へもってきて保土ヶ谷の所に坂ありますが、あの坂へ掛かると坂の下に荷馬車が1台休んで居った、私は其時に何でも一行の内の真ん中へ挿まっておったと覚えて居りますが、先へ行った二人がツーッと坂を降りていって其荷馬車の傍を通る時に急にベルを鳴らしたのです、すると其荷馬車の馬が驚いて跳ね上がった所へ、私は後からやはり坂をツーッと降りて行ったのですが、あ馬が狂いだしたと思った時は既に遅しでもう其間近に至ってしまって、殊には今お話しした通りで脚が馬鹿になって居ったのでバックを掛けて飛び下りると云う事もできませんでした、又実際逆踏を掛ける余裕もなかったのです。危うくも其荷馬車へ衝突しそうだったので、ハッと思って急に轅(ながえ、ハンドル)を横へ無理に曲げますと、何しろ坂を降りてきた勢が車について居ったので堪りません、其處へ転落しました。幸いな事には此方が思った程荷馬車の馬が暴れたのでは無かったので自分は別段怪我はしなかったのですが、自転車は非常に破損しました。其時の日記を見ますと車の損所は斯う書いてございます。

一、前車輪の撓屈して回転の柁棒の両脚に触れて運転ならざるに至りし事
二、柁棒の右脚内部に湾曲し且っ其脚に付着せし足掛の落ちたる事
三、柁棒の付け根右方稍々十度位曲りたる事

斯う云う破損を致しましたので自転車へ乗っては行かれなくなりまして、仕方がなく私だけは其時に汽車で参りました。此破損の修繕は神田の吉村自転車店へ頼みまして、修繕料を4円50銭払ったと覚えて居ります。

 それからもう一つ遠乗で面白い失敗のあったのは、何月だったか月は忘れましたがやはり其時分の事です、輪友会の連中で千葉へ遠乗を致した事がございます。其時に行かれた人は印刷局に居られた左近允君、それから森村明六君に同開作君、坂田實君、あとは名前を忘れましたが何でも私ともで七、八人でした。往は一行誰も無事でしたが千葉からの帰り道に、鴻の台の付近まで来た時にはもう日の暮方になりましたので、一同ペダルに力を入れて踏立てて急いで帰って来たのでございます。
すると鴻の台のわきの極く狭い道の妙にうねくれて曲がって居る其曲がり角の所に、往来の人を相手に屋台店をだして駄菓子だの鮨だの並べて売って居った婆さんがあったのです、其處へ急いでやってきますと一行の中で、名はしばらくお預けにして置きますが、最も大輪のダルマ形の自転車に乗って居った某氏が、非常な速力でやって来た所へ急にうねくった道だったもので、ハンドルを取り損なって遂に其婆さんの売って居る屋台店へ突き当たったのです、そうすると何しろ其人の乗っていた自転車は前輪の直径が6尺もあるすばらしい高い車なので、乗って居った某氏は屋台店の天井へ自転車からのめって落っこちながら手を突いたのです、所が天井と云っても何しろ屋台店の天井ですから極く極く手軽く只上から乗せてあった位のもので、おまけに雨障子の天井だったので某氏の体は其天井とも婆ァさんの頭の上へ落っこった、すると可哀想に婆ァさんは不意に頭の上から大の男と天井が落っこって来たので、ギャッと云うと下へ押し潰されてしまった。勿論非常な物音がしたので一同が見ると其始末なので、驚いて自転車から飛び下りて車は其處へ放り出したまんま、寄ってたかって婆さんを助け起こして見ると、幸いにも婆ァさんは怪我はしませんでしたがもう顔の色は青ざめてしまって、唇の色も紫色になって乱ぐい歯の歯の根をガタガタ震わして口もきけるどころじゃなかった。先ず婆さんの方は一時の不意の驚きで始末であったが、屋台店は両方へ二つに割れてしまって売っていた鮨はペチャンコに潰れているし、駄菓子は皆メチャメチャに壊れて気の毒にも何んとも哀れな有様になって居るのです、それからまァ皆も倶も倶も婆さんを慰めるやら謝罪やら致しまして、某氏からは勿論平に過失を詫びた上に相当の償いをして帰ってきたのでございます。其時には一同も驚いてしまた方だったので、可笑しかったと云う方の考えは浮かびませんでしたが、いや帰ってから少し落ちついて共話しが始まると、サァ其時の有様が非常に滑稽だったので一同腹を抱えて笑ったのでございます。

つづく

明治36年4月10日発行「輪友」第18号 33頁~35頁