2021年3月7日日曜日

日本輪友会について①

 日本輪友会について①

 我が国で最初の自転車クラブは、明治26年に発足した日本輪友会だと言われている。
しかし、明治19年には既に帝大の自転車会が設立され活動していた。確かに組織とか内容などを比べると、帝大の方はむしろクラブと言うよりも同好の士に近い形態であった。自転車の台数もオーディナリーが1台で、メンバ-もたったの4人である。それから見れば日本輪友会は、組織も内容も充実していた。やはり日本最初の自転車クラブなのである。

以下、日本輪友会関係の資料を眺めて見たい。

我国自転車団体の最も古き日本輪友会の話(1)
石川 信

 自転車の著しき発達に伴れて此節は都会は申すに及ばず各地到る所に自転車の団体が設けられない所はない位で、東京市中だけでも挙げて数えたら十有余の団体が設立されて居りましょうから、日本全国では実に百数十余殊によったら二百以上の団体があるかも知れませんが、此自転車団体の中で最も古きものは何という団体であるかと云うと、恐らくは私供が発起となって組織した日本輪友会というのが、最も魁けて設けられたものだろうと思います。
丁度私供が日本輸友会というのを組織したのは明治26年の5月のことで、その当時はまだ当今のように自転車の乗り手も少なく、又車も彼のダルマ形という車が大部を占めて居って、あとは木製の二輪車と三輪車・・・・此節名古屋あたりで電信配達夫が乗って居りますような車の外は、今の空気入安全車という自転車は実に東京市中でも10台とは無かった位でありました。今から考えて見ればその頃は今日流行の安全自転車の極く来たての時分であったと思われます。

 話が少し横道に入りますが、私は性来自転車のような種類のものが大好きでありますから、木製の自転車が輸入されてかの秋葉の原に初めて貸自転車屋が出来た時分から好んで乗りまして、それからダルマ形の自転車にも乗って歩きましたが、どうもダルマ形というのは御承知の通り何しろ前輪が極めて大きいのに、後輪は又極めて小さいので少し体が前へかかると後輪が跳ねるので危険で堪らないのです。するとその頃福沢捨次郎氏が今日流行のような自転車に乗って居られまして、成るほどこれならば安全であるからそう云う車を買入れたいと思いましたが、何しろ東京市中にも何処にもそう云う自転車を売っている所がない。そこでその当時私は時事新報社に居りましたので、同好の坂田實氏と相談しまして同氏も是非一台欲しいと云わるるので、同氏の分と併せて二台を福沢捨次郎氏に願いまして、福沢氏から又当時英国のロンドンに居られました清岡邦之助氏に依頼されまして、英国のジュノーと云ふ会社へ注文してクリンチャータイヤの自転車を2台造らせました。丁度この注文をしましたのは25年11月のことで、それから翌年の3月になって正金銀行へ自転車の代価を逆為替に組んで来たので金を払込みますと、4月の16日に車が出来て参って受取りました。代価は1台112円50銭づつで海関税を3円取られたことを記憶して居ります。

 それで其頃の自転車乗りとして有名な人々は、岩崎久弥、森村明六、森村開作、荘田平五郎、豊川良平、松方正作、樫村清徳、福沢桃介、福沢捨次郎、伊藤茂右衛門、加藤木重教、原六郎、高田慎蔵それから印刷局に居られた左近允、参謀本部の中島大尉等の諸氏でありましてーーその他にもまだまだ沢山有りましたろうが今一寸記憶して居りません、今から考えますと人数の少ない割には何れも有名な人々が乗って居られました。それで私供同好の者が寄り寄り相談をしまして、一つ自転車乗の団体を抑えようじゃないかと云うので前にお話しした26年の5月になって、いよいよ会を結ぶことになって日本輸友会というのを設定しました。

其時に発起者として名を連ねた人々の性名を挙げますと
樫村清徳、岩崎久弥、豊川良平、坂田 實、益田英次、木村久寿弥太、、福澤捨次郎、石川信、佐武保太郎、日比翁助、鎌田栄吉、伊藤茂右衛門、長谷川芳之助、朝吹英二 、福沢桃介、荘田平五郎、和田義睦、酒井良明、松方正作、森村明六、森村開作、中島(大尉)、 田野某等の諸氏でありまして、これらの諸氏の中で今日も尚自転車に乗って居る人は極僅かでありましょうが、実に始めは上流の人々の娯楽用に止って居ったものと言っても宜しいのです。今日の自転車団体の事務所は何れも自転車店かさもなくば其会の主立った人々の家に置かれてあって、至って手軽く行われて居りますが、私供が日本輪友会を設立した時は何しろ極初めで能く様子も分かりませんし、それに之を一つの倶楽部にしようと思ったものですから、京橋の三十間堀に一軒屋を借りまして此處に相当の器具も備えますし、小使も雇って置きまして至って大袈裟な仕掛けにやったもので御座います。

上の記事は、
明治36年3月10日発行「輪友」第17号 36頁~38頁

つづく