2021年3月1日月曜日

電信配達と自轉車

 この記事は初めて郵便局で自転車が採用された時期のことが、具体的に書かれていて興味深い。現場の担当課長から直接聞いた話を記者が口述筆記したもの。

以下にその一部を紹介する。明治期の文章と旧漢字で読みにくい点はあるが、一部を除きなるべく原文を尊重した。

明治36年10月5日「輪友」第24号より

電信配達と自轉車

東京中央電信局受付配達課長  八木鍾次郎

 日本で自転車を初めて使ったと云ふことは、『輪友』の記事に據って見てもる明治十四年頃から既に乘出した人があるやうに見えて居るが、之を実際実用に使ったと云ふ上に就ては、抑も電信配達上に応用したのが一番最初であるだらうと思ふ。それで私は今御需めに依つて電信配達用に自轉車を応用した既往の沿革、現在の有様、及び私の所感と希望とを搔摘まんで御話して見やうと考へる。

 抑も電信配達上に自轉車を応用したのは明治二十五年の三月の事で、今の木挽町電信支局の隣の商業會議所が其頃は日本の電信中央局であって、東京を中心として全国各地から集って來る電報は、皆此の局を経過したものであるから、此の電信局と云ふものは非常に規模の大きなものであって、從つて所屬の配達區域も一番広く有して居った。其頃漸く自轉車が流行の萌芽を現はして來て、勿論今日の空気入りタイヤの安全式自轉車は無かったが、此の自轉車なるものは最も便利なものであるから、之を一つ電信配達上に応用して見やうと云ふことに、其當時の当局者が気付かれて、そこで前申した明治二十五年の三月に初めて十臺の自轉車を中央電信局で買入れた。其內五臺は其當時流行した木製のガタガタ車で、前輪の車軸にクランクが取付けられてあって、ペダルを一踏みすると車輪が一回転する「直踏」と云ふ二輪車であったが、後の五臺は俗に丸ゴムと云ふ細い硬質護謨輪の附いた鉄製の二輪車で、形は丁度当時大流行の安全式空気入二輪車と先づ総体の格構が同じ事で、前後の車輪の大きさも殆んど同じく、矢張り鎖を用ひて伝働するやうに仕掛られた構造の自轉車。(図参照)此の自轉車は横浜高島町の梶野仁之助(今の梶野自轉車合資会社)から買入れたのであるが、梶野で亜米利加あたりから自轉車の部分品を取寄せて模造した車であると云ふことを聞いて居る。今日では如何なる田舎へ行っても貸自轉車店の一軒位無い所はないが、其當時は東京のも私の記憶に残ってい居る所では、僅かに神田の秋葉の原に二軒、錦町に一軒、本郷に一軒、芝の愛宕下に一軒があって、それも皆な重に木製の車を置いて貸自轉車を業として居るのみであった。

謂わば極自轉車の幼稚な時代に早くも十臺の自轉車を買入れて之を応用して見ると、其結果は甚だ好ましい。そこで明治二十七年の三月に至つて、横浜太田町の田中利喜蔵の手を経て海岸中通りのブルウル兄弟商会で輸入した英国製の自轉車を五臺買入れた。是が日本で電信配達に外国製の自轉車を用いた初めである。それから明治二十八年の三月にまた田中利喜蔵から四臺買入れた。其翌二十九年になってどうも英国製の自轉車は其時分の物価に合して廉い方ではない。之はどうしても輸入物をサウ使はぬで日本て造ることにしなければならぬ、既に横浜の梶野では或る一二の部分品を外國から取寄せて用ひたにしても、兎に角自博車を拵へて居るのであるから、東京でも相當の機械師に命じたらできぬことはなからう、一つ試験かたがた造らして見ようと云う説が出て、それから本所の吉岡町に居た森田玉江と云う機械師に命じて、自轉車を二臺製造させて見た、其の車は全部鉄製で目方は非常に重いものである、私は当時まだ其局に当って居らなかったが、其車が今でも一臺遺って居るのを見ても、能くこんな重たい自轉車に乗れたものだと思う位な所謂頑丈一点張りと云う拵へ方である。

所がどうも內國製のものは舶来品のやうに器用に出來ないのと、一方には又舶来品がドシドシ入って來て米國製のものなどは、価格の上から云つても割合に先づ康い方てあるし、且っ製作方が誠に器用に能く出来て居るので遂に又舶来品を買ふことになって、翌三十年の三月には横浜二百六十八番館のワンダイン商会からウルフと云うのを二臺と、外に三十八番館からビクトリアと云ふ自轉車を買込んだ。それから後はズッと米国製のものばかりで、三十一年二月には、またウルフと云うのを六臺、同年六月には銀座の伊勢善商店からウエストフィールドの№1と云ふ自轉車を敷臺購入した、其後は諸方から種々の車を買入れて来て居るのであるが、其數は殆と三百輌に近いのである、以上が先づ極く概略の電信局に於ける自轉車の沿革とも謂ふべきものてある。

本文にある挿絵
梶野製の自転車
どこかビクター号に似ている
ビクター号は、1887年(明治20年)に
オバーマン・ホイール株式会社
(1885-1900、マサチューセッツ州チコピーフォールズ)
が製造した自転車
この会社から梶野が部品を輸入して組み立てたようである

1893年(明治26年)2月27日付け東京朝日新聞
自転車練習場及び販売所広告 横浜 梶野自転車製造所

明治25年 東京郵便電信局の服務心得
逓信総合博物館蔵