今回で世界無錢輪行者中村春吉 君の談片
はこれで終わる。当初はこの後に寄稿文も中村氏から送られて来る予定であったが、届かなかったとのこと。
世界無錢輪行者中村春吉
君の談片(承前)
▲君の携帶品時節柄山嶽探検を為す者の参考のため同君の携帯品を聞く
水筒
米
麦粉
砂糖及食鹽
燐寸
砂糖及食鹽
燐寸
蝋燭
石油
高野豆腐
高野豆腐
鏡
洋燈(四方硝子張角燈)
蚊帳
テ ン ト(合羽製)
毛布
空氣銃
空氣銃
懐剣
短銃
鉄槌
釘抜
鑢(やすり)
鋸
鋏
蚤取粉
幾那円
幾那円
酢
沃度加里
沃度保留謨
アルコール
繃帯
ガーゼ
油紙
疊針
一斗入金巾袋二打
疊系
一斗入金巾袋二打
疊系
絹糸
ナイフ
飯焚アルコール竈
同鍋
匙
金盥
海綿
自轉車附属品悉皆
網
國旗
等の由、同君の旅行は固より世界旅行にて殊に印度地方の熱帯地及び人跡の未だ到らざる深山を横断せし事なれば斯の如く多数の物品を用意する必要ありたるなるも宜しく之を参考取捨して携帯せば盖し山間露宿を為す場合に不便を感ずる事無かるべし
▲携帯品の用途
以上同君の携帯品の內説明を待たずして用途の會得せらるるものは暫らく措き其內一二特種の物に就て特に其用途を記さんに
蚊帳は山間露宿をなす場合には最も必要にして蛇を始め種々悪虫の襲ふを之によって防ぐは勿論猛獣も蚊帳の内に居れば容易に飛び掛かることなしと而して野宿せんとする時に必先づ其地点に於て焚火をなし其火と灰とをまき散らすべし斯くせば叢中の虫類も土中に潜める惡虫も皆逃げ去るを以て身體を螫さるる事少なしと
高野豆腐は一は煮て食用とすべく一は之に石油を浸してブリキ缶に詰め置夜間の蓋を開きて枕頭に置くこととし猛獣の襲ひ来りし場合に之に点火して八方に撒ちらせば危害を免る事を得べし就中虎は非常に火を忌む獸類なれば斯くして火を八方に撒らせば忽ち逃げ去るものなりと然して虎はまた鳴物を恐るる性あるよりスワといふ時に鉄槌を以て劇しく金盥を打ち鳴らすも宜しといふ
網は矢張り蚊帳と同じく獸類の襲来を防ぐの一用具にて猩々猿の類は網を張り置けば来り犯す事なしと
四方硝子張角燈は露宿の場合に終夜點燈し置くの用に供す
金巾袋は種々の旅行道具を容れて肩に掛くるを得べく米又は砂糖類を収容するに最り便利なり
疊針と疊糸は猛獣を捕へたる時に其口を縫付くる為の用に供し現に君は印度の山間に於て狼大蛇等を捕へて口を縫付け危害を免かれたる事ありと
國旗は自己の國籍を明かにする爲め之を二本の籐にて自轉車に結び付け往きたるに順風に之に風を孕みて帆の代用を為したりと而して此籐は又平生蚊帳の釣手ともなし時には惡水濾過器の代用をもなさしめたりと
海綿は平素汗拭いに用し又山間の渓流にて水浴をしたる時など之にて身體を拭ふに足り且つ携帯には最も便利を感じたり云はれたり
▲携帶食料 横浜の福井屋(旅舘)の夫妻は君の今回の旅行に最初より幹旋尽力到らざるなく君の發程に先立つて同家の細君は携常食料として鰹節數本を君に贈り君喜んで之を受けて携帯し或時食に飢て之を用したりしに鰹節は何分にも堅きものなれば君は遂に歯を非常に痛め歯茎を腫らすに至り大に困離を感じたりと之に就て君の実験を聞くに君は常に麦粉を用意しし焚火を為したる時麦粉を金盥の中にて適宜にねり上げ先づ鹽と砂糖にて味をつけ焚火の灰を掻分けて上に瓦を置き其上へ少しづく叩き付けて不等形のパンを焼き上げ夫れをポッケットに貯へて携帯食料とせしと勿論內地の旅行には斯かる不便もあるまじけれどチョットよき思付きなり而かも後には金盥も鍋も破損せしめたれば麥粉を帽子の中にてねり上げたりと云ふ
▲君の將來 君に向後慈善事業に従事し商業探検隊を組織して更に遠征を試みんとするものあれども目下米国ボストンに在る同志の來年一月帰朝するまでは暫らく郷里(山口縣下之関市東南部町)に蟄居せらるる筈なりと聞く
記者曰 君の談片は既に大抵新聞紙に出盡したれば之にて止むる事とせり尚前号予告したる君の寄稿は本〆切までに到達せざりしに付掲載せず
上記は、
明治35年7月5日発行「輪友」第21号 31頁~34頁より