2026年3月7日土曜日

輪界秘話

 輪界秘話

「春泥」 第46号 1934年5月1日 発行

輪界秘話

縷紅亭

「自轉車の話」と豫告をされたが、自轉車の新らしい物として世間にもてはやされたのは、今から三四十年前の事で、結局話もそんなところになる。

先代左團次の達者な頃、明治座の華かなりし時代のこと、「明治櫻輪界」といふ妙な名の会があった。これは明治座の河原崎権之助氏が主催で、明治の御代の役者が、昔のやうにぞろつとした姿でみてはいけない。洋服を着ろ、自轉車に乗れと、若い役者達を煽動して、明治座の「明治」と座の紋章の「櫻」とをとつて、明治櫻輪界と名づけて、 自轉車の遠乗会を作った。世話役はその頃の自轉車愛乘家松井康義子爵で、松居松葉氏が顧問になった。

さて、この会だが、これは、當時米國のデートンといふ自轉車を売ってゐた、双輪商会の主人の宣傳が陰の力になつてゐたのである。その會員は、明治座の関係者に限られてゐたので、人数は少かつたが、今の左團次、荒次郎、高之助(木村錦花氏か)左升、納升、竹柴爲三、富士田音蔵氏等で、この外下廻り連は、住吉町の湯本自轉車店主催の 「遊輪クラブ」に這入つてゐた。

で、その遠乗先はといふと、市川は真間鴻の臺、向島の百花園、奥の植半、日暮里の花見寺などで、みんな明治座前に勢揃ひして、デートン車を並べて出かけたものである。

この時代の高級車は、殆ど米國物で、デートン、ピアス、クリブランド、ウエスト等が人気物であつた。英國物はあまり喜ばれず、僅かにハンバー、スヰフトの名が出ていた位である。・・・

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「春泥」第46号1934年5月1日発行
国会図書館所蔵

40頁

註、雑誌「春泥」は、昭和初期に東京の春泥社から刊行された総合文芸雑誌で、1930年(昭和5)3月の創刊から1937年(昭和12)12月の 全89号 で終刊した文学誌。  
内容は、小説・随筆・俳句・短歌・美術評などを収める総合文芸誌 。