平石久平次関連 - 1
「彦根市史 」中冊 彦根市 1962年発行
同書の575・576頁に陸奔舟車の考案者である平石久平次に関する記事があるので紹介する。
・・・平石久平次時光の業績に触れておきたい。久平次は弥右弥門繁清の子である。繁清の父の重好は井伊直興に仕え、直定を生んだ大光院の弟に当る。久平次は幼少の頃から、学問を好み、京にでて中根元珪の門に入り、天文暦数を研究した。江戸中期以降にはいくぶん西洋天文学が輸入されたが、はじめは中国で漢訳された西洋天文学を通じて研究される程度であった。その後、徳川吉宗の時代になって、暦学が奨励され、建部賢弘の推挙によって、中根元珪は清の梅文鼎の著書「暦算全書」を研究し、訓点を施して吉宗に献上した。衆知のように寛永禁書令ののち、漢訳西洋天文学書も多く禁書の厄を蒙っていたのだが、元珪は暦学研究のためにこの種の書物の禁をゆるめる必要を建議した。これがもとで、蘭学発展に拍車をかけ、ひいては寛政改暦を実施することができたのだとさえ考えられる。こうした時代の空気を吸って、久平次は元珪から天文暦数を学んだのである。幕府においてもこの方面の関心を示しはじめた時であるから、他藩においても当然天文暦数に対する関心が強まったの は事実であるが、久平次はその先駆者の一人であることにまちがいがない。久平次は馬術もよくしたため、享保九(一七二四)年に、騎馬徒士として召され、玄米四十俵四人扶持を与えられたが、寛保二(一七四二)年には父の隠居にともなって家督を相続し家禄二〇〇石の知行取となった。その後、大津御蔵目付役御蔵奉行等を歴任したが、つねに天文暦数の学を好み、研究を怠らなかった。なかでも、享保九年に彦根で天体を観測し「新製日本天文分野図」を作っている。これによると、彦根の位置を三五度半強としているが、それから、一〇〇年後の文政年間に伊能忠敬が朝鮮人街道を測定した時、彦根伝馬町の位置を三五度一六分とした。このことはいかに久平次の測定技能がすぐれていたかを物語るものである。
享保十七(一七三二)年には陸奔車を作ってもいる。彼はまた多くの公卿に暦学・天文学等を教授したほか、算数・馬術・医術・軍書などに関する著書を五二四部著わした。なかでも「皇極運暦一巻」「大陽大陰授時暦経立成」「井田明疑本朝考」などは有名である。
なお、直弼や長野主膳らも天文学に深い関心を示したが、これは国学の方面から天地自然の原理を究明しようという立場もあったけれど、じつは軍事上必要な着弾距離などの測定に応用すべく、この方面に関心が注がれたといえる。こうした研究があったから、後日、ペリー来航に際し、相州警備の役にも立ったのである。 彦根藩の斯学に対する関心の深さは現に「反射望遠鏡」や「天体儀」が残っており、また天体観測の記録や、天体日月に関する記録を現存していることからも、容易に想像できる。