2020年11月17日火曜日

青春のサイクリング

先般の野地写真帳の中に、興味あるサイクリングの写真と日記があったので紹介したい。

終戦後間もない時期に自転車で富士五湖巡りをした時の写真帳である。
こまめに記録された日記入り写真帳で野地好幸さんの人柄が偲ばれる。
下がその日記入り写真帳である。

その日記によると、
1947年(昭和22)8月4日(月)~5日(火)に富士五湖周遊サイクリングをしている。

8月4日(月)晴れ、サイクル連盟の同志と富士五湖周りを計画し愈々吾の定休日を利用し小生と遠藤、中島、小松の三君と行動せることとせるも小松君病気の為3名にて4日午後零時半中島宅に集合し関本を経て地蔵堂聖天山に至り小山まで下る・・・。

と書きだしている。(一部判読できないところがあったが、適当な字をあてた)
この日記からルートを探ると、
小田原市内(井細田)~関本~足柄峠~紡績工場(富士紡)~一色~須走(茶店で一泊)~籠坂峠~山中湖~吉田~河口湖(当日は湖上祭)~長浜~鳴沢~西湖~氷穴~本栖湖~ここから帰路、精進湖~氷穴~河口湖~吉田~山中湖~籠坂峠~須走(昨日の茶屋で小休止)~山北~江戸川工場~小田原着

解説、(本当は全文を読み下ししたいところだが、ご容赦を)
日記には年号が書かれてなかったが、幸い曜日が入っていたので、これから調べて昭和22年と特定できた。前の方のページに確か昭和21年と書いてあった。
井細田を出発したとは、当時の中島君の自転車店は井細田にあったからである。
因みに中島、遠藤はレース仲間でもあり、それぞれの実家が自転車店であった。
普通であれば国道246号を利用するところだが、あえて困難な足柄峠経由を選んだのは、若さと競技で鍛えた足があるからだろう。当然日頃の練習も兼ねたはずである。帰路は山北経由のコースを選んでいる。
聖天さんから小山までは「酷暑の上道路は悪く特に聖天山より小山までは急坂にて且つ幅狭く小道の為輪行は困難を要せし・・・」
とある。何となくこの記述から情景が浮かぶようである。
「紡績工場の横を通り・・・」
これは駿河小山の富士紡(富士紡績株式会社、明治29年3月設立)のことである。当時は日本でも有数の大工場で、小山と言えば富士紡の時代である。
「須走に到着せるも既に暗くなり・・・茶店にて一泊す」
翌朝は4時半に起床して5時に出発、霊峰富士を左手に見ながら籠坂峠を越える。
8時半頃には河口湖に到着、この日は湖上祭が行われていて、舞台や花火も上がり人出も多く賑やかだったとある。
西湖のある山際を通り、氷穴に向かう。氷穴の中はランニングシャツでは寒く、震えるほどとも、帰路の精進湖付近で好幸さんの自転車の前輪がパンク、しかしパンクの修理はおてのものであったに違いない。
籠坂峠を下った後は前日泊まった茶店で休憩、帰路は下り坂の為楽だったよし、
江戸川工場の横を通り小田原へ。到着は夜の8時半であった。江戸川工場とは、現在の三菱ガス山北工場である。
使用した自転車はレーサータイプで、彼らは当時、アマチュア自転車競技選手であるから当然と思われるが、昭和22年の時代背景では、殆どが黒塗りの実用車であったことを思うと、ハイカラで先進性を感じさせる。当時の自転車店は終戦直後とはいえ徐々に景気もよくなり、その息子たちもある程度裕福だったことを伺わせる。
私が小学生の頃(昭和30年頃)は、近所にあった自転車と言えば、殆ど例外なく黒塗りの実用車であった。小学2年の時にこの大人用の実用車で三角乗りをはじめたのが最初である。周辺ではだれも子供用の自転車には乗っていなかった。
だが、一人だけ近所に居た、彼は医者の息子であった。
いまでは懐かしい思い出である。

日記入り写真帳の一部
1947年(昭和22)8月4日(月)晴れ

籠坂峠付近
後に見えるのが富士山

中島と遠藤
写真右の遠藤さんは競技役員をしていて
昭和50年頃に平塚競輪場でお会いしたことがある

左の写真は野地好幸さん(当時22歳)
河口湖にて