2020年11月18日水曜日

再度、自転車の名称について

 この記事は、1982年(昭和57)1月15日発行の日本自転車史研究会の会報「自轉車」創刊号からである。

当時はまだ、自転車という言葉がどこから来たのか確定していなかったが、その後、交通史研究家の齊藤俊彦氏により調査が行われ、現在では明治3年の竹内寅次郎命名説が定着している。
それ以前にも「自転車」という名称が全くなかったということは断定できないが一応、寅次郎説で決着がついている。

ところで、私の友人であるSさんもそうだが、自転車の蔑称であるチャリという言葉が、いまだに広く使われていて、彼も憤慨している。
自転車を趣味とする人間にとっては、腹立たしい言葉である。
最近では公共放送までが、チャリダーという言葉を平気で使用しているし、ママチャリなどはいまや一般的な呼称になってしまった。
いずれにしても差別用語であることは変わりない。
チャリとはどこから来たのであろうか?いまだに疑問が残るところである。
諸説あるが、よい言葉でないことは確かである。
前置きが長くなったが、会報の記事を以下に載せる。(内容を全般的に見直した)

自転車という名称は、いつ、どこから?
錦絵に見る自転車

自転車という名称が果していつごろから使われたかというと、それは自転車がいつごろから日本に現われたか、と同様むずかしい問題で、現在のところこれといった有力な定説はないようである。
明治3年4月の「東京往来車尽」という芳虎の描いた錦絵には“一人車”という語が見えるし、明治3年7月の「往来車づくし」国政、国貞作の錦絵には"自転車"、"後押自転車”という語が見える。これらの画も見ると、その形は今日の自転車とは大分変わっており、前輪が小さな三輪車の形をして、ちょっとこの画を見ただけでは、その操縦方法がよくわからない。
増訂「明治事物起原」石井研堂著(大正15年)によると、この車について次のように記している。
錦絵に、「一人車」、「後押自転車」、「自転車」等の図を掲げたるを見れば、其形今日の形とは大に違ひ、手にて或る槓杆を進退して、車を進めたるものの如く、何れも三輪にて、実用になりさうもなきものなり
とある。しかし、私がこの画を見たところ、手と足を使って駆動させるように見える。

自在車は本物か
明治3年版「智恵の環」という刊行物には「自在車」という語があり、先の石井研堂氏は、実物を見ざるものの筆なるべし、と記している。確かに実物は見なかったかもしれないが、明らかにこれは黎明期の自転車で、1817 年にドイツ人のドライス男爵が発明したドライジーネである。
その後この型の自転車はイギリスに渡って、ホビー・ホース(Hobby - Horse)、ダンディ・ホース(Dandy-Horse)などと呼ばれた。
もしこの自在車の画が、日本で実物を見て描いたものであればたいへん重大なことになる。と言うのは日本に初めて渡来した自転車は、三輪車かミショー型自転車ということになっている。
もし日本でドライジーネ型の自転車が発見された場合、日本における自転車の歴史は書き替えなければならなくなる。西洋においてドライジーネ型自転車が流行したのは、1820年ごろで、日本では江戸時代の文政年間にあたる。未だ鎖国政策の厳しい時代であるから、日本に自転車が入って来ることは、ほとんど不可能に近い。しかし、このころより日本の沿岸には外国船が多く出没するようになり、なかには上陸した船もあるから、あるいは自転車も日本の土を初めて踏んだ可能性も否定できない。ここでちょっと、この時代の年表を見ると、

1820 年(文政3年)浦賀奉行に相模沿岸の警備を命ずる。
1822年(文政5年)イギリス船浦賀に入港、薪水を要求。
1823年(文政6年)ドイツ人シーボルト、蘭館医として着任。
1824年(文政7年) イギリス船員常陸大津浜に上陸、水戸藩これを逮捕。
1825年(文政8年) 異国船打払令を頒布。

という具合で、シーボルトのような知識人もいたから、たとえ自転車の実物は入ってこなかったとしても、話題にのぼったかもしれない。
だが、このころはまだ西洋でも自転車はめずらしい乗り物であったから、現在一般的に言われているように、やはり1860年以降に日本へ入ってきたとみるほうが無難である。
この自在車の画は、西洋人が持ち込んだ書物を見て描いたものと思われる。

自轉車と自在車

通俗的呼び名
明治3年版流行車尽くしに「のっきり車」というものがあり、粗雑な絵だが明らかにボーンシェーカー型の自転車だ。「のっきり」とはどう言う意味かといえば、「広辞苑」に、のっきる[乗り切る]ノリキリの音便。とあり、のりきる[乗り切る]①乗ったままで最後までゆく。②乗ってつっきる。乗り越える。転じて、難局を突破する。
とある。
今日でも自転車に乗れるようになるにはかなり骨の折れることである。
それこそ、夏目漱石の「自転車日記」にあるように大落五度小落は其の数知らず、或る時は石垣にぶっかって向脛を擦りむき、或る時は、立木に突き当って生爪を剥がす、其苦戦云う許りぶりなし、而して遂に物にならざるなり、
ということで夏目先生は、ついに自転車に乗れるようにはならなかった。
そのほかの呼び名としては、「ガタクリ車」というのがある。がたくりとは、やはり「広辞苑」で調べてみますと、がたがたとゆれ動くさま。「がたくり馬車」とある。イギリスではこの自転車のことをボーンシェーカー(Boneshaker、骨ゆすり)と呼び、これは1861年頃にフランス人のミショー親子が発明したものである。
車輪は前後同径か、あるいはやや前輪の大きい自転車で、初めて前輪にペダルクランクを取り付けたものである。
ガタクリ車の次に登場したのは、今日見ても美しい「だるま車」である。
この自転車は、イギリスではオーディナリー或はペニー・ファージングと呼ばれ、その後、アメリカに渡り、ハイ・ホイール・バイクなどと呼ばれた。
現在でもこの型の自転車は、デパートのディスプレーやいろいろなアクセサリー等の意匠に見ることができる。
「だるま車」という名称の由来は、いまさら説明するまでもなく、あのでんぐり返った、ダルマさんを思い起こせばよい。他に「一輪半」や「高輪車」もある。また地方によっては「ふんころばし」、「糸とり車」もあるようだ。

蔑称では
現在でも地方によって色々と、自転車を馬鹿にした呼び名がある。
先ほどの「チャリ」や「チャリンコ」これに「ママチャリ」や「チャリダー」、「ランチャリ」も入れてもよい。「クリコ」、「ケッタクリ」、「ケッタ」、「ケッタマシーン」など。
チャリは朝鮮語やスリなどから由来しているという説もあるが定かではない。いずれにしてもよい言葉ではない。これはまさしく差別用語である。
明治初期には、新聞などに「馬鹿車」、「バカ車」、「アホ車」なども見える。
さらに酷いのになると、明治12年5月版「東京新誌」第147号には、
「然して之に乗る者はおおむね下等人の刎返り野郎に属し、未だ上等人の乗る者を見ざるなり」
とある。
現代であれば、SNS炎上しそうな過激で挑戦的な言葉が並ぶ。非常に見下した物言いである。

中国や東南アジアに目を向けたい
明治3年4月版「東京日本橋風景」という芳虎の描いた錦絵の中、「片羽自転車」というのがでてくる。これは二輪車で、前後の車輪の間に幼児の補助椅子のようなサドルがあり、これにちょうどスクーターでも乗るような格好で、すわっている。ハンドルも前輪の横あたり並行に出ていて、てこの原理で動くものなのか、地面を足で蹴って進むのか、その駆動方法がよく分からない不思議な自転車である。
日本で初期の自転車を研究する場合、これら一連の錦絵は重要な資料であるが、駆動方式がよく分からない画もある。
私が以前入手したわずかな資料の中に「新刻上海跔自行車」という中国の版画がある。この版画については、ドイツ本の「自転車の二百年史」にも同じものが掲載されているから、ご覧になった方もあるかと思う。
この本によると、1900年ごろの版画とある、上海あたりから明治元年前後の自転車を描いたものが出てくれば、おもしろい。おそらく錦絵と比較すれば何かわかることもありそうだ。
今までのように、ドイタ・フランス・イギリス、およびアメリカばかりに目を向けるのではなく、もっと中国や東南アジアに目を向けてもよいのではないか。
「自行車」という名前から「自在車」が生まれ、そして「自輪車」へ、さらに「自転車」になった可能性も否定できない。上海を経由して日本に自転車が来たという説も可能なのでは?