2020年11月4日水曜日

銀輪のわだち その12

 「知られざる銀輪のわだち」その12 

中村春吉の自転車世界旅行
明治19年7月19日の時事新報に「二輪車で世界一周の米人、露国で喰い止めらる」という見出しの記事が載っている。
アメリカの雑誌記者トーマス・スティブンスがその前年、ニューヨークから出帆しイギリスに上陸して自転車で同国を横断、さらにフランスに渡ってベルギー、オーストリア、トルコ、ペルシアを走破してロシアに入ったのだが、この報道はロシア官憲から旅行禁止を言い渡されたと伝えている。
スティブンスはこのあとトルコへ逆戻りして船でインドへ渡り、中国の広東に達する。
その年の11月には日本へやってくるが、長崎に上陸してからは神戸、横浜と走りつづけて帰国している。これが自転車世界旅行のはじめだが、用いた自転車はオーディナリー型(ダルマ型自転車)、この壮挙に彼はたちまち英雄となる。ときにスティブンスは22歳。
この話はアメリカの自転車史では特筆されているが、わが日本での最初の自転車世界旅行を敢行した人物はあまり知られていない。
だが自転車に関する古書や資料の目録などに目を通す人なら『中村春吉、自転車世界無銭旅行』という題名の本が明治期に刊行されていることはご存じだろう。それは知ってはいても読んだ方は現在は少ないのではないかと思われる。
というのは著者が押川春浪である。春浪は『海底軍艦』、『空中飛行艇』など、明治期において空想科学物語や冒険小説をつぎつぎに発表した作家だから、なまじ押川春浪を知っている人は、この自転車世界無銭旅行をも空想冒険小説のように思い込んでしまっているからだ。この誤解をとき、日本最初の自転車冒険野郎の存在を知っていただきたいものである。

中村春吉と米国製ランブラー号

押川春浪のドキュメント
型破りの冒険野郎・春吉
押川春浪は自転車世界旅行を終えたあとの中村春吉に会い、その紀行談を記録して物語にまとめている。少年向きに書いたため、多少の筆のおどりすぎや、春浪自身が自転車知識が不十分なため、ところどころにおかしなところはあるが、大筋はドキュメントである。そのことは当時の自転車専門誌である「輪友」、「自転車」などでの報道で裏づけができる。
まず走行のルートだが、居住地の下関を明治34年12月11日に自転車で出発、東海道五十三次を走って横浜へ、そこから翌年2月25日に船で中国へ渡り、シンガポール、マレーシア、ビルマ、インド、イタリア、フランス、イギリス、アメリカ大陸を横断して明治36年5月10日に帰国している。
使用した自転車はスティブンスのときとはちがってセーフティ型のランブラー車、中村春吉は帰国時に31歳であった。この旅行は日本人で初めての試みということもあるが、中村春吉その人の個性が強烈で、体力や走行技術というよりも、無銭旅行に徹したり、「道路が通じていない」と教えられた道を「自分でためしてみないとわからぬ」と突走って高山に突当り、自転車を背負ってそこを登り、万策つきると引返す、という天衣無縫ぶりが痛快である。
彼がニューヨークに到着したとき、現地の雑誌がそれを報じた記事を見てみよう。

「日本の旅行者中村氏は土曜日にニューヨークに現われた。発熱のため友人のすすめでボストンから当市へは船できた。彼は背は低く、色は褐色、口ひげがある。英語はやや乱調なので身ぶりを加えて話をする。
彼の自転車は荷物が山のように積まれ、フレームもハンドルも隠れてしまう。その上、走るときに二つもの荷を背に負う。
彼がロンドンに達したときは八銭を持つだけで宿泊もできなかったが、果物を小刀で面白い型に工作し、それを街頭で売って生活したようだ。そこで稼いだいくばくかの金は孤児院に寄付をしてしまい、イギリスからボストンへの船旅は船運賃なしの労働船員として働きながらやってきている。
彼は当地に来るまで各所で労働したといい、雇傭先のその証明書を示してくれた”われは少しも金を要せず”と大きく手を振った。
彼の旅行目的はヨーロッパ人のようには観光や金儲けではない。彼は故郷の山口県で600人の生徒を有する慈善学校の教師であり、その生徒に学間とともに英語を教え、将来は生徒をインドなどに送り出し商業を営ませたいのだ、といっている。そのための知識を広げるのが旅行目的のようだ。
彼は火曜日にニューヨークを発って自転車でワシントンに向った」。

計画は大胆、準備は周到
猛獣よけに高野豆腐の工夫
前記の記事は中村春吉のいろいろな側面を要領よくまとめている。春浪が書くところによると、中村の生国は広島県豊田郡御手洗町、明治5年生。少年時に下関へ移ったが当時の下関や門司は貿易がさかんなこともあって外国語をおぼえたり、外国への関心をさそわれることが多かったようだ。
12歳のときに二銭銅貨を一枚にぎって漁船に乗って朝鮮へ渡り、危い目にあったことがあるという。彼は外国商館を渡り歩いて働いたり、自分が校長になって外語研究会という私塾のような学校をつくったりするが、やがて「日本を富ませるには貿易をさかんにすること」と考えるようになる。
それには外国を見聞するのが先決というわけだが資金がない。それが自転車旅行につながるのだが、その無銭旅行の決断が面白い。
「田地を売れば多少の金はできるだろうが、少しばかりの金を持っていても外国人どもがいばっている中でケチケチした使い方しかできないから、かえってしゃくにさわる。拙者は無銭だ、貧乏旅行だ、と居直って旅をするほうが気が楽だ」というのである。
豪放とも楽観的とも思えるが、彼の性格はそうした一面だけでははかれない。外国へ行くのだから向うで日本のことを問われたら何でも答えられないと恥をかくと、国内各地の産物や製法の調査にまず手をつける。それも現地へ自転車で出かけている。
またインドなどの広野での野宿に猛獣の襲撃をどう防ぐか、などの研究や工夫を重ねている。火でおどすのがいいことはわかるが、ブリキ缶に海綿を入れてそこへ石油を浸して火を点ずると、火持ちは少し長くなるが、油がなくなると海綿も燃えて灰になってしまう。
このため海綿のかわりに高野豆腐を使ってみるとこれがいい。火持ちもいいし、油気がなくなっても高野豆腐は灰にならない。
高野豆腐を細く切って使うと、危急の場合に缶をふりまわすと炎が八方に飛び散り、地上に落ちても火が消えず、猛獣よけには最適だ、などかなり周到な装備を重ねている。

災厄つづきのアジアの旅
ヨーロッパでは大歓迎
事実、この高野豆腐浸しの火炎は、あとでインドのアサンソールの高原で中村を狼の大群から救うことになる。
深夜、テントを狼群にとりまかれ、火炎缶を5缶も使い、テントにまで火をつけて夜が明けるまで対決する場面を春浪は中村の聞き書きとして記している。

ヒマラヤ山麓の厄難
渡邊審也の画

上に掲げた絵はヒマラヤ山麓を狼の追跡を逃れながら走る中村春吉だ。絵の中の円部の中は水牛と闘っている場面である。
ちょっとつくり話のように感じられるかもしれないが、放し飼の水牛がテントへ入ってきたり、ジャッカル、ハイエナ、黒豹などと遭遇して闘ったのは事実のようだ。彼は怪力の持ち主で、捕えたジャッカル、ハイエナをボンベイの日本領事館経由で上野動物園に送ってもいる。短刀をふるって狼を仕留めたともいう。
ただ、この絵の中で中村がラッパを吹き鳴らして走っているのは間違いのようだ。
中村は、自転車で旗をなびかせたり、ベルやラッパを鳴らすと狼を防げる、と春浪に話したのだろうが、そのラッパとは口で吹鳴するものではなく、手で押すサイクルホーンなのだ(これは携行品一覧図『輪友』にある)。春浪はこれを知らず「ラッパを鳴らす」を「ラッパを吹く」と受けとったのだと思われる。
中村春吉が世界旅行中にもっとも冒険を強いられるのはインドを中心とするアジアで、猛獣だけでなく宗教上のタブーから食物を供給してもらえなかったり、宿泊を断わられたりする。働かせてもらうところも少ない。道路も未発達、地図も不備である。
だから、現地へ仕事できている日本人の申し出る好意を受け、世話になることも多いが、中村は最低限のものしか受取っていない(これは世界中、どこでも同じで、船賃などは労働船員で賃にするが、現地の有力日本人が疲労している中村に船賃援助を申し出た場合でも最下等の料金しか受けとっていない)。
しかし、ヨーロッパ、アメリカでは様子が変わってくる。紳士、淑女が目を見はって歓迎する、パーティを開いてくれる、新聞記者が集まる。日本の大使館も手厚くもてなすようになる。面白いのは当時の時代背景もあるわけだが、中村は「同胞の援助は最低限受けるが、外国人の世話になるのは恥だ」という態度をとりつづけていることである。

国内では冷たい反応も
その後の生涯はまだ不明
では当時、わが国の輪界人は中村のこの旅行をどう見たか?もちろん壮挙として賞賛されたことはいうまでもないが、非難の声があったのも事実である。「輪友」誌にはいくつかの投書が載っている。今日流の表現でいえば「意味のない”目立とう精神”の持ち主」、「社会はこんなことを必要としていない。そこここでもの貰いのような乞食旅行は世間が迷惑、なぜカネをつくってから出かけないのか。普通の常識のあるもののやるべき行為ではない」等々。
いま読むと隔世の感がある。
中村春吉は、押川春浪がまだ空想していた冒険を当時実際におこなってしまったのである。
この旅行は日本の自転車史だけでなく旅行史にとどめておいてよいものと思われる。
だが、中村春吉の生涯は? となるとこれがまだわからないのである。この旅行のあと中国に渡ったり、朝鮮に渡ったりして狩猟をしたときの記念写真などがあるが、それより先の消息は公けにされたものではまだ見つからない。読者の中でご存じの方があればご教示いただきたい。

押川春浪の『中村春吉、自転車世界無銭旅行』は、明治37年に博文館から『中学世界』という雑誌の臨時増刊号として刊行され、その5年後の42年に同社から単行本として再刊され、かなり版を重ねている。
自転車旅行を離れて、当時の日本人像を知るのに興味ある一冊である。

季刊「サイクルビジネス」№24 新春号、1986年1月20日、ブリヂストン株式会社発行、「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)