2020年11月26日木曜日

銀輪のわだち その16

 「知られざる銀輪のわだち」その16 

佐藤半山と雑誌「自転車」㊦

 (承前)なにしろ明治30年代においては、人びとは自転車に対して多くの可能性を夢見ていたのである。だから先進国の技術情報はその夢を現実に近づけてくれるものとして歓迎されたのであろう。

坂道をのぼれる自転車
第33号(明治36年)

 前号でふれた折りたたみ式自転車の記事以前、第33号(明治36年)には「坂道をのぼれる自転車」が紹介されている。スウェーデンの発明で、ペダルによらずレバーを交互に踏むことによって駆動力を休みなしに後輪に伝達する方式である。
 ヨーロッパやアメリカの自転車を使ったサーカスの演技や、その仕掛けまでが興味の対象だったらしく、図入りで報じられている。

頭上につく電燈

 中にはここに掲げたようなものまで、「頭上につく電燈」として外国ダネがニュースになった。今日から見ればお笑い草だが「サンフランシスコのダンハム・ヘーデン社の製品で同社のカタログに掲載された。だがまだ日本には輸入されていない」と注釈がついている。

 雑誌『自転車』は明治35年8月に創刊25号記念を祝う。祝辞を寄せる人たちの中には著名な東洋史学者・那珂通世博士や松井康義子爵をはじめ、中央、地方の名士が多い。わが国の自転車文化高揚期を迎えていたのである。

明治40年代以後は
誌面に活力がなくなる
 いままでのべてきたように明治30年代の『自転車』は、当時の自転車事情を反映して、珍奇談をふくみながらも活気にあふれた誌面を提供しつづけていた。
 しかし、その様相は明治40年代から大正期に入るとしだいに変化する。活気が衰え、誌面づくりにも苦悶しているかのようになる。
 実は、この連載と併行して進められていた、佐藤半山と『自転車』の調査がかなりはかどり、いままで発見できなかった明治40年代と大正初年の同雑誌がまとめて発見された。このため『自転車』が歩んだ軌跡がある程度たどれるようになったわけであるが、そこからわかることは自転車文化の衰退である。
 その変化をのべる前に、新しく発掘された資料によって判明した事実をかんたんに紹介しておきたい。
一、雑誌『自転車』は関東大震災まで発行されつづけ、最後は『自転車月報』という業界新聞に切り替えられる。この業界紙は半山の死後も継続して発行され、昭和9年ごろまで出されていた。
二、佐藤半山は自転車商を営んでいない。
連載の㊤で引用した「福島誌上県人会」の記載は誤りである。
三、同じくの㊤で、鈴木三元と同郷であるところから半山への三元車の影響を推測したが、これも誤りである。後で触れるが、半山が『自転車』に取組んだのには別の背景が存在していた。

米屋、炭屋の配達用車
輪界も実用量産へ傾斜
 さて、『自転車』はどのように変貌していったのか? 明治40年代から大正期のものに目を通してみよう。
 自転車での旅行記やレース結果などの記事はあるものの、明治30年代のそれが一つ一ついきいきした各方面からの投書、通信でつくられていたのにくらべ、通信を寄せる人も少ないらしく生彩を欠いている。
 逆に輪界内の企業情報のようなものが増え”業界誌”に近い感じになってしまっている。
 なぜか? 自転車はもう人びとに夢を抱かせてくれる乗物ではなくなりつつあったからである。自転車に乗る人はどんどん増えた。明治40年には東京市内の自転車保有台数6.743台、それが42年には10.000台を超している。
 この普及が「商家にても主人、番頭はこれを乗用とするを恥ずる傾向あり。主人、番頭という立場にてこれを使用するは米屋、薪屋の類のみ(時事新報)」という状況をつくり出してしまう。自転車の用途は”遊び”から”実用”へと急傾斜しつつあった。雑誌『自転車』が生彩を失い出したのもこのためである。
 その例をいくつか挙げよう。この雑誌は大正4年に創刊15年を迎えるが、そこへ寄せられた論文も、記念行事に参加した人の顔ぶれや祝辞も、前出の25号記念のものとはかなりちがっている。
 輪界外の名士は姿を消し、輪業関係者や半山と同業の出版社と業界紙の関係者、そして招かれた市会議員などが集まり「自転車は欠くべからざる実用品」、「実用品としての利用範囲の拡大」、「輸出の拡大」などを唱えている。
 乗物に速さ、便利さだけを求めていたわが国民性は、電車、そしてやがて登場する自動車に優位性を求め、業界はそれに軽便な実用性で対抗しようとしていることが感じられる。そして輸出である。
 これを今日の眼で批判するのは酷であろう。サイクルスポーツを発展させるほど自転車の機能はまだ向上していなかったのだ。
 もっとも大正期の記事を読んでいると”自動車崇拝”に警告を発するような論文も見える。「自動車は時間の節約はなし得るが、神経を使い、精神の休息を奪う。目的地に直進するあまり世の変化にふれ合うことができない。故にこれに慣れてスピード万能主義の人間がつくり出される」などは今日から見ても面白い。だがこの雑誌は、こういう論文を掲げながらも自動車愛好家をも読者に獲得しようとするのである(後述)。

紙数の大半占める広告
記事も業界内向けに
 後期の『自転車』の誌面を多く占めるのは広告である。その多さを量ではかるなら全体で80ページほどの雑誌中、三分の二は広告ページが占めてしまう。この点でも今日の業界誌・紙に近い。
 明治30年代の同誌の広告は前にものべたようにピアス、デートンなど米国製自転車の輸入元、大卸が一定のスペースをおさえていたが、明治の後期から大正へかけては小型の販売代理店が数多く顔を出す。
 大きな変化は英国製のスイフト号を扱っていたスイフト商会がピアス、デートンにかわって大広告主になっていること。これはピアスの輸入元だった石川商会が丸石商会(現丸石自転車)に併合され、同商会が英国製トライアンフ、プリミヤに力を入れはじめたからであろう。丸石商会の広告もかなり多くなっている。さらにアサヒ号、パーソン号など宮田製作所の国産車の広告が目立つ。
 とくにスイフト号は毎号にわたってすべてのページの両袖に「世界最良、スイフト号自転車、ルーカス付属品」の文字を入れた上え、別紙刷りの広告を数ページとじ込んでいる。
 かつての誌面のかがやきは失われている。
 誌代は一貫して定価10銭を守っているものの、一般読者は減りこそせよ増えることはなかったろう。雑誌を継続して発行するには輸界内部からの協賛広告を多く仰がなければならない。読者にとって興味のない広告主の提灯記事も載せることになり、それが誌面をさらに荒廃させる。

苦心のあと残る副題
だが時流適応できず

 半山はこういう状況に苦しんでいたようである。彼はすでに明治36年の末ごろから雑誌の表紙に「写真」というサブタイトルを入れた(㊤参照)。自転車以外の遊びの要素を雑誌に採り入れ富裕階層の読者をひきつけておこうとしたのである。これはピアスの輸入元だった石川商会がセンチュリーというカメラを輸入していたので、その意を受けたものかもしれないが……。
 しかし、その「写真」のサブタイトルも関係記事も明治40年に入ると消え、42年から「絵葉書」というサブタイトルが入るが、これも半年ほどで消える。なぜ「絵葉書」なのかわからないが、推測を加えると私製はがきが認可され当時「滑稽新聞」の宮武外骨が「絵葉書世界」という特集をしばしば組んで人気を博していた時代と、このサブタイトルを掲げた時代が重なる。
 外骨にならうことで雑誌に新局面を開こうとしたが果せなかったのではなかろうか。
 「写真」のサブタイトルがはずされ、表紙はもとのままの『自転車』に戻るが、大正元年10月号から新しいサブタイトル「自動車」が登場する。
 もはや自動車を無視することはできなくなっていた。この時期東京市内には280台が走っている。自転車の効用を強調していた輪界もスイフト商会をはじめバイクの輸入をはじめていたし、輪界の一部には日本自動車自転車会社をつくって国産化をはかろうとする動きもあった。
 サブタイトルの「自動車」はその後消えることはなかったが、それに関する記事はきわめて断片的で、自動車需要層を読者に獲得したとは思えない。
 毎号の編集も話題づくりに苦労したらしく、半山は自転車同業組合のあり方を説いたり、国際自転車競技規則の邦訳を載せたりしている。また第一次世界大戦の余波で輸出が伸びたのを幸い、不良品輸出をする傾向に警告を発したりもしているが、もはや自転車は実用品、大衆の心をとらえる雑誌には復活させようがなかった。
 やがて雑誌に半山自身の広告が載りはじめる。大正5年5月号からで、それは法律問題、特許相談、債権取立て事業の開業である。この雑誌ははっきり”冬の時代”に入っていた。神田区議会議員になるのもこの翌年である。

わかった発刊の動機
仕掛人は東宮和歌丸
 わが国で最初の自転車専門誌として、今世紀の初頭に自転車文化を広めたこの雑誌の功績は大きい。各界の著名士が読み、投稿し、全国に自転車愛好家を増やした。これにならってその後いくつもの自転車専門誌が生まれている。
 なぜ半山がこれに着手したか? それはさきに推測したような鈴木三元の影響ではなかった。そのことが、今回発掘された雑誌の中で明かにされている。
 半山は大正4年、創刊15周年の誌上でつぎのようなことを書いている。
 明治33年の春、ピアス輸入元の石川商会の支配人であり、その代理店四七商店の経営者でもあった東宮和歌丸という人物から呼ばれ「輪界の機関誌になるような雑誌をつくってくれ」と頼まれた。自分は自転車についてまったくの門外漢だったが妻子を抱え浪々の身だったので断わる余裕なく、必死に勉強をして雑誌づくりをはじめたのである――と。
 そしてさらに「東宮和歌丸はやがて四七商店を手ばなし本誌とは経済関係を絶つことになるが、その後も雑誌を育成するために、各方面に資金援助の斡旋の労をとってくれた」とし「まったくこれは東宮氏の輪界発展のために私財を散らされた任俠のたまもの。後世、輪界史を編むものはこの東宮氏の功を忘却してはならない」と強調している。
 たしかにこの雑誌を中心に大日本双輪倶楽部、帝国輪友会の有力者が論陣をはり那珂博士ほか著名士が寄稿したのだからまさに東宮和歌丸のいう機関誌の役割りを果したのである。 
 東宮一家は夫人も子女もサイクリストで女子嗜輪会(本誌25号参照)の有力メンバーだったという。
 佐藤半山と東宮和歌丸の提携が『自転車』を誕生させたのである。

 本稿に貴重な収集資料を寄せられた真船高年氏に感謝してこの項を終わる。

季刊「サイクルビジネス」№28 新春号、1987年1月10日、ブリヂストン株式会社発行、「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)