2020年11月25日水曜日

再度、宮田の試作車について

 再度、宮田の第1号車(試作車)について

 何度も述べているが、宮田の第1号車(試作車)は明治23年ではない。
さらにこれを裏付ける資料として、『輪友』第6号、明治35年4月4日発行、
「宮田工場主 宮田栄助氏の談話」がある。
 これを見ても、明治23年説は誤りであることが分かる。
宮田栄助、本人が直接取材に応じて語っているのである。
試作車の製作から、まだ10年も経っていない時期の取材であるから、記憶違いや勘違いもなさそうである。
 「宮田製作所70年史」昭和34年4月1日発行の編纂者もこれらを調べたと思われるが、あえて明治23年に修正したことは理解に苦しむところである。勘ぐれば1年でも早く第1号の試作車を完成させたということを誇示するためで、恣意的に修正したのではないかということになる。
 『宮田栄助追悼録』 昭和7年9月9日発行(非売品)では明治25年であった。
 このようなことは調べればすぐに分かってしまうことなのだが。
 何度も言うように些細なことかもしれないが、この70年史がその後に孫引き、ひ孫引きされ、歴史の事実として、継承されていくことである。事実継承された本を何点か見かけている。
 やはり、70年史が恣意的に編集したとは言いたくないが、どこかで訂正されなければいけないと感じているからである。
 どうでもよい小さなことかもしれないが、あえて再三述べる次第である。
 最近では、一次資料である原書や原典にあたらず、単に孫引きやひ孫引きをして著述された本が多く、当然そのような本は買わないことにしている。おそらくそのような本の中身は殆どが、原典にあたらず、その後に刊行された本や雑誌の孫引きやひ孫引きで全体が出来上がっていると思われるからである。翻訳物などの本に特に多いような気がする。
 現代のようなネット社会であれば、ブログやツイッターをそのままコピペして引用するようなものである。

下に『輪友』第6号、明治35年4月4日発行に掲載された、宮田栄助氏の談話、全文を載せる。

宮田工場主 宮田栄助氏の談話
( 東京市本所区菊川町2丁目 52番地)
能くお訪ね下さいました。私が此處へ猟銃製造の工場を建てましたのは明治23年の4月で、丁度25年の末でしたがソロソロ今の安全車が日本に輸入仕始めた時に、ドウかして自転車を自分の手で造って見たいと考まして、夫れから26年に猟銃を造ります傍ら自転車を1台造り掛けて見たのです所が其時分はまだ自転車は極く栄誉品と見られて居って、実用的の必要品とは世間が認めて居りませず、又自分もホンの猟銃を拵える相間にポツポツ掛って居ったので、まだ本当に出来上らぬ内に早くも27年となって、端なくも東洋の平和が破れて彼の日清戦争が起りました。
スルと此鉄砲製造の方は陸海軍から沢山な御用を仰付せられまして、少しも他の事には手を出す暇がなく、引続いて戦後には銃猟熱が盛んになったもので、此の猟銃が非常に売れまして、平均私の工場のみで1ヶ月400挺からも造るそばから売れて往く有様で丁度昨年までやって来たのですが、昨年の彼の狩猟法改正の結果で全く此の猟銃の方は売行が止って仕舞ったと云っても宜い位になりました。ソコで之だけの工場を持ち職人も大勢使って居りますし、前にやった経験も幾らかありますから、自転車製造と云う事に思立って、昨年の10月から始めましたが、偖てやって見ますとナカナカ六ヶ敷いもので、迚も机の上で考へた様には往きませんと云うものは、何しろ自転車製造用の機械と云うものが無いのです。又た斯う云う所は斯う云う機械を使うと云う事も會て見た事も無いのですから、先づ始めに自分の脳漿を絞って其機械からして考出さなければ成りません。マア色々に苦心を重ねまして漸く本年の1月になって1台見本品ともいうべき自転車が出来ました。
早速それを戸山学校の梅津大尉に願いまして、試験のために乗って戴きましたが、案外にも大変結果は好いと云う話で既に先日も各官立学校有志者の遠乗会へ、梅津大尉は私の所で拵えた車へ乗って、川崎まで遠乗をなさいましたが車に少しも異状がないのみならず、車の出来も大層宜いと云う御好評を受けました。
夫から本月に入りましてから出来ましたのは警視庁へ1台、九段の偕行社へ1台、下谷上車坂町の中上さんへ1台、名古屋の警察署長さんへ1台、都合4台納めましたが、幸に今以て何処からも此處が悪いと云うた話は承わりませんから、先ず好結果であると窃かに悦んで居ります。
モウ今日では「タイヤー」「リム」「スポーク」「ボール」此の4品丈けはまだ外国のを使いますが、他は全部私の工場で製造することが出来るように成りました。アト本月中に丁度30台は仕上りますが、1台は1台より種々な点に就いて研究改良して往きますから、追っては之で申分が無いと云うものを造り得らるるだろうと思って居ります。
夫から製造の事に就いて少しお話致しましょう「フレーム」になります「パイプ」ですが、亜米利加あたりでは詰りガス管を造ります様に、鋼鉄の「パイプ」が其まま出来る機械があるのです。所が日本にはそう云う機械がありませんから、私は従来の猟銃にやり来った繰抜き機械で、「パイプ」を繰抜いてやって居りますが、比点に就いては従来の経験がありますから左のみ困難を感じません。且つアチラの会社の定価表も参って居ますが、ドウも算盤を取って比較して見るとコチラで1本1本抜いて拵えて往っても其方が安く上るように思われます。夫れですから態々資本を余計掛けてそう云う「パイプ」を造る機械を取寄せる必要もないと思って居ますが併し是は非常に盛んに製造する場合は別段のお話で、唯今の所では猟銃の機械をみなそのまま使っ居りますから、幾分かは不完全な所もあるかは知りませんが、ともかくも品物は相当に出来て居ります。唯一番六ケ敷いのは「チェーン」で、是は舶来品を見ましても何れもキチっと極って出来て居るのがありませんから、ドレが果して、宣いのやら分りませんが、先づ今日では日本へ一番最初に輸入した「クリブランド」の「チェーン」が宜いと云う評判ですから、其通りに真似て造って居ります。それから「シャフト」へ焼を入れる事ですが、是は私共の考ではドウも「チェーン」の「シャフト」へ焼き入れると云う事は非常に心配な事で、ドウしても之に焼を入れれば折れなければならいと考えて居りましたが、之もやって見ましたら好いあん梅に折れもしませんでうまく出来ました。先づ今日では皆大概出来るように成りまして、「スポーク」も「ボール」も其うちに造る積りですし、「リム」も私の手でやって見ようと考えて、ポツポツ其研究に取掛っております。「タイヤー」は是は又一種別なものですが、既に東亜護謨会社で研究中ですから、其方でやって戴く考です。是が悉皆出来ますと、モウ威張ったものですがまだ其処までには少し間がありましょう。
 要するに外国では総てが機械的で、どれもこれも機械でキチンと出来て居りますから、各々車に就て長所もあれば短所もある。それを今私共がやって居りますのは、詰り機械が揃って居らない為もありますが、多く機械に依りませんで手で致しますから、是迄日本へ輸入になって居る各種の車から各々長所とする所を選びまして、何でも善いという部分を拾い合って造りますから、追って成功した暁には舶来品に負けない車が出来るだろうと思います。それと唯今の所ではまだ漸く1ヶ月に20台か30台しか造りませんから、ヒドク安く出来ると云う訳に往きませんが、之が私共の工場位でも1ヶ月に100台以上も造るように成りますと、工費がズーッと安く上る勘定になります。と申すのは唯今現にやって居ります機械などは、1人の職工で2台も3台も機械を使うことが出来るのです。一つ品物を100個以上も一時に作る事になると、是迄1台の機械でやって居ったのは3台の機械に掛けられる。1台の機械を動かして1人の職工に1日50銭の手間賃を払うものならば、3台の機械を動かさして75銭の手間賃で済む、それで職人は左のみ苦しくは無いのですから是まで50銭取れなかった者が75銭取れて、ソウして品物は倍以上出来るから工費は丁度従来の半額位で上ります。斯う云ふ時代になって来ますると近頃随分安い車が輸入さますが、第一舶来品には原価の2割5分と云う海関税が課せられて居りますが、内国製品にはソウ云う負担がありませず、且つ一般の手間賃も外国に較べると我国は低廉でありますから屹度舶来品より安く出来るだろうと思いますを尚ほ輸入を防ぎますから聊か国益の一端でもあろうと考えて居ります。
夫れから欧羅巴亜米利加辺りでは自転車の時代が去って、自動車の世の中に遷って来たようですが、此の「オートモビル」に就いても尚を私は進んでやって見たいと云う考を懐いて居ります。其のうちに又経験した所がありましたらお話しますが、今日は之で御免を蒙ります。
(『輪友』第6号、明治35年4月4日より転載)

これを読むとどうも明治25年説もあやしくなる。
宮田栄助の話では、
「夫れから26年に猟銃を造ります傍ら自転車を1台造り掛けて見たのです所が其時分はまだ自転車は極く栄誉品と見られて居って、実用的の必要品とは世間が認めて居りませず、又自分もホンの猟銃を拵える相間にポツポツ掛って居ったので、まだ本当に出来上らぬ内に早くも27年となって、端なくも東洋の平和が破れて彼の日清戦争が起りました。」
 とあり、早く見積もっても第1号の試作車は明治26年ということになる。

問題の「宮田製作所70年史」の説明書き
明治23年製銃所時代に試作とある
鋼玉、スポーク等すべて自製品の説明もあやしい

『輪友』の復刻版 全10冊
日本二輪史研究会 1993年6月1日復刻

『輪友』第6号 明治35年4月4日発行

「宮田工場主 宮田栄助氏の談話」の部分
『輪友』第6号、53頁

『輪友』第6号 54、55頁

『輪友』第6号 56、57頁