2020年11月21日土曜日

銀輪のわだち その14

「知られざる銀輪のわだち」その14 

佐藤半山と雑誌「自転車」㊤

わが国最初の専門誌

 本誌前号の巻末に、わが国最初の自転車専門雑誌『自転車』の複刻版が出たことが掲載されていた。私たちの会(日本自転車史研究会)でも機関誌で告知する予定だったが、ひと足先の紹介である。
 自転車史に興味をもたない人にとってはこんな古めかしい雑誌を苦労してカネをかけて複刻することも、またそれを数千円も出して求める人の心理もわかりにくいことだろうと思われる。
 この雑誌の価値はきわめて高い。発掘されているものが少ないため全体像が明らかではないが、明治33年に創刊され、大正8年まで継続発行されていることは、いくつかの傍証で確認できる。大正8年以降のことが不明なのも、雑誌というものの性質上、保存されているものが見当らないからである。
 いま現存が確認されているのは、複刻版を出した福島県の真船氏が集めた9冊と、東京大学法学部明治新聞雑誌文庫所蔵の3冊で、別にもう一冊第9号がどこかにあるはず(かつてサイクルショーに展示されたことがある)だが、他には国立国会図書館にも存在していない。
(その後明治40年代と大正初年の同雑誌がまとめて発見されている)
 ただし、ただ存在が稀少だから価値があるというわけではない。前号で三浦 環のことでふれたように、わが国に自転車文化が広がろうとする19世紀の最後の年に創刊され、自転車が一般実用化する大正期まで雑誌の命脈を保ったことは、この雑誌につづいて創刊された「輪友」や「輪界」とくらべてかなり支持層が大きかったことを示している。
 全国各地でどのような人たちが、どのような関心で自転車を走らせていたか、いろいろな競技や遊び方がどのように普及していったかなどを時系列的に知ることができるのである。
 それは今日、スポーツ雑誌界の一角にサイクルスポーツ専門誌が市民権を得つつある状況の前史をなすものといえよう。

「自転車」第25号(復刻版)
真船氏により昭和61年に復刻されたもの

「自転車」第62号(復刻版)

鈴木三元と半山の縁?
 そういう『自転車』の内容と、果した役割りのほかに、たいへん興味をそそられるのは、この雑誌の主であり編集人である佐藤半山のことである。
 半山の郷里は福島県伊達郡桑折町である。読者はこの地名から何かを思い出さないであろうか?
2年前にこの誌上で紹介した、あの三元車の発明者、鈴木三元の居住地がこの桑折町である。鈴木三元は明治10年代にこの桑折町で自転車の試作と試走をくり返して、明治14年にここから三元車を東京の勧業博覧会に向けて出発させている。
話の途中だが、こんど『自転車』を複刻した真船高年氏のことにふれる。彼は自転史研究家で、鈴木三元の調査で桑折町へはかなり足を運んでいた。その彼が佐藤半山の出生地が鈴木三元と同じであることを発見したのだ。
 桑折町の調査で発見したのではなく、郡山市の明治期の自転車の使われ方を調べるため県立図書館に通ううち「福島誌上県人会」(大正11年刊)という本の中に佐藤半山の名を発見、鈴木三元と同郷であることをつきとめた。現在の桑折町には半山の記録も記憶もまったく残っていない。ただ、同町は佐藤姓が多いという事実のみが残っている。
 話を戻すが、今回の稿は資料も調査もすべて真船氏の労によっていることをお断りしておく。

「福島誌上県人会」大正12発行
国会図書館所蔵

二人の出会いは不明だが
影響はあったはず
佐藤半山は明治元年に現在の桑折町半田に生まれる。本名は喜四郎――ペンネームの半山は生家近くの半田山からとったものだろう。半田山とはかつて半田銀山として知られ、生野や佐渡とともに明治三大銀山の一つとして栄えたことがある。
 鈴木三元があの三元車を東京へ向けて出発させたのは67歳のときである。半山の喜四郎は13歳、老幼を分けたこの二人に交流があったとは考えられないが、進歩的な思想の持ち主で新しい文明に興味を持ちつづけた三元の影響が半山に及ばなかったことは考えられない。
 半山はやがて上京し学び、自由民権運動に興味を持ち、さらに自転車の雑誌を発行しながら神田区議会議員(現在の千代田区神田)になっている。
 三元の居住地は地名を谷地といい半田の隣りである。素封家であり文明開化好みであり、変った乗りものを試走して回る三元はじゅうぶんに半山の興味をとらえたであうう、三元車の東京への出発を13歳の少年が胸おどらせて見送ったことを想像するのは容易である。そしてペンネームの半山~半田銀山の経営に鈴木三元はタッチしてもいる。
(三元と半山の接触は年齢差から想像できないが、三元は地域での診療活動もしていたらしいことが残された日記でわかってきた。ぼう大な日記の解読が進めば、あるいは三元が少年半山を診療した記録が発見できるかもしれない)
 いずれにせよ、明治期にこの桑折町から自転車に深いかかわりを持つ二人が出たことは興味深い。
 その後の佐藤半山の経歴を現在わかっている資料でたどるとつぎのようになる。

・明治21年、上京、前出の「福島誌上県人会」には東京法学院(現在の中央大学)に学ぶとある。が、同校の設立は明治32年なので、その前身の英吉利法律学校に入学したのであろう。
・明治24年、同校を卒業。23歳である。
・明治26年、自由民権運動を掲げる立憲改進党本部に入り、党報局に3年間勤務し、機関誌等の編集に携わる。立憲改進党は明治29年に解党となるから、半山は最後の3年間これにかかわったことになる。
・明治30年、東京都神田区書記となる。
・明治33年7月に雑誌『自転車』を創刊、発行所名は快進社。編集人、発行人を兼務し、はじめて半山を名乗る。

発行は200号を超す?
後に区議、自転車商に
 ここから半山の自転車とのかかわりがはじまるのだが、快進社の所在地は、神田の小川町から下谷御徒町、ふたたび神田神保町へと何回か変転する。しかし『自転車』の発行は休まずにつづけられていく。
 確たる記録としては、今回複刻されたうちの一冊、第62号(明治39年1月)がそれで、それ以降の号がまだ発見されていないが、大正8年に輪界雑誌社が発行した「日本輪会名鑑」には「自転車雑誌社主幹・佐藤半山」という記録がある。従ってこのころは『自転車』が発行しつづけられていたようだ。
『自転車』は月刊であり、現存している各号を改めると、ときに発行月が翌月にかかることはあるが、定期的に出されている。
だからこのまま継続発行されていると仮すると、大正7年いっぱいで第218号まで号を重ねたと考えられる。
 大正8年までは雑誌にかかわった記録があるが、同11年、つまり前出の「福島誌上県人会」が編集されたときの記録には「現在は自転車商、神田区北神保町一二番地」と記されているから、この前後に『自転車』は廃刊されたと推測される。
 その前後、神田区議をやっているのだが、詳しいことはまだ調べがついていない。それと現在東京都千代田区神田神保町2-11という地番(半山が自転車商として記録されている地番に近い)に佐藤姓を名乗る人が住んでいることもわかったが、まだ接触できていない。
 いずれにせよ、大正12年には関東大震災がありその後の消息はまったくつかめていない。それはこれからの研究をまたねばならない。

自転車愛好層と重なる
民権運動と富裕階層
佐藤半山がイギリス系の法律学校に学び立憲改進党に加わり、やがて自転車雑誌に関与するのは、一見なんの脈絡もないように思う人がいるかもしれない。が、けっしてそうではない。
 日本が近代国家への歩みをはじめる明治の初期、自由民権運動の中核をなしたのは各地の中小ブルジョアジーで商人や小富農たちであった。彼らの運動は明治22年の大日本帝国憲法公布でやや下火になり、その後しだいに力を失っていく、改進党などの政党も離合しつつ大地主や大資本家のための政党に変じていった。
 近代法を学んだ半山が民権運動の一翼を担おうとしたころはそういう時期である。
しかし、面白いことは、明治30年代に自転車を積極的に迎え入れた人たちが同じく民権運動に関心を持つ都市や地方の富裕層だったということである。これらの富裕層は自転車からやがて猟銃、そしてカメラと新しい遊びにも目を向けるゆとりを持っていた。
 半山は改進党の解党後、党活動の基盤となったこれら富裕層の趣味、遊びの分野に目を向けたのではないだろうか。そして、その幼児からの記憶には鈴木三元と三元車 がある。
これがけっしてこじつけでないという証明をするなら、現在、各地で発掘されるオーディナリーなどは、かつて祖父や曾祖父が民権運動の流れをくむ政党活動に加わっていた旧家に多いことがあげられる。
 『自転車』の表紙の変化を見てほしい。フォーマットの変化は別にして、第42号には小さくてわかりにくいが「写真」という文字が入ってくる。第62号にはそれは大きな文字ではっきり見える。これは、自転車のことばかりでなく写真技術の情報も併載しているというサインである。写真関係の情報がこの雑誌に掲載されるようになるのは明治36年12月発行の第37号であって、この号はまだ発見されていないが第36号にその予告が見えている。
 つまり、半山は当時の進歩的な富裕層を対象にして自転車の普及をはかっている。このことは、かなり時流適応の才の所有者であったといっていいだろう。

実用時代の到来、大正期
ついに廃刊を迎える
大正期に入ると、自転車の普及が進み、それはスポーツや遊びの道具という範囲を超えて、いわゆる"丁稚”、小僧”の運搬用具”視されるようになってくる。
半山はそれを予測してか、写真技術を誌面にとり入れたりしているし、雑誌を通しての自転車の販売(いまの通信販売)や、用品類やウェア類の販売も手がけている。
その前からも自転車をあしらった絵ハガキの制作などを試みるなど、今日の輪界に近い動きを見せているが、雑誌は廃刊となる。
次号では『自転車』の内容に立ち入って、当時の自転車事情を紹介してみたい。

季刊「サイクルビジネス」№26 盛夏号、1986年7月24日、ブリヂストン株式会社発行、「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)